72手目 捨神くん、吹奏楽部に入る
「師匠、個人戦優勝、おめでとうございます」
5月。あれから僕は、中学生になっていた。入学したばかりだけど、こんなに嬉しいことはなかったね。だって、箕辺くんたちと同じ学校に入れたんだから。
「ありがと。って言っても、あなたも優勝でしょ?」
「アハッ、おかげさまで」
早朝。葉桜のしたを、僕たちは中学校へと向かっていた。自動車の騒音すら、そのときの僕には心地がよかった。飛瀬さんは知ってると思うけど、駒桜市は、名前の通り、桜が名物だからね。来年は、一緒に……あ、ごめん、僕はなにを言ってるのかな。アハハ。
「師匠は、市内の高校に通うんですか?」
「んー、そうね、やっぱり市立あたりがいいんじゃないかしら」
「藤女はダメなんですか? エスカレーターでないと、入れないとか?」
「そんなことないわよ。高校組って呼ばれてる面子がいるくらいだから、高校から入ることもできるはずだわ。くわしくは調べてないけど」
「じゃあ、それでよくないですか? 姫野さんと毎日会えますよ?」
「んー、あそこは学費が高いのよね」
そのときの僕はあまり詳しくなかったけど、たしかに藤女はお嬢様学校だからね。お金持ちが多くて、学費もそこそこな額ってうわさだった。それに、今から考えると、歩美先輩が藤女って、ちょっと似合わないよね。校風的に。
まあ、甘田さんもいたし、いいのかな。
「同じ学校だと、団体戦で当たれなくなっちゃうしね」
歩美先輩はそう言って、この話題を打ち切った。
あまり受験生って感じじゃない。3年生でも、飄々としていた。
「スーパー歩美ちゃんの実力、県内にとどろかせてくださいよ」
「市代表になってから、だんだんバイオリズムが下がってる気がするのよね」
どうやら、歩美先輩は、3年おきくらいにバイオリズムがくるみたいだった。ピークはとても短くて、だいたい1〜2週間くらい。そうなると、県大会では相当厳しいよね。7月だし。もう本格的な受験シーズンだ。
「まあ、ぼちぼちやるわ。三和さんたちも、高校に上がっちゃったし」
三和さんがいなくなってるから、今年はチャンスだ。
彼女は春の県大会を2連覇していて、だれも手がつけられない状態だった。
「あ、私はこっちね。じゃ、また今度、週末にでも」
「はい、おつかれさまです」
僕は第一中学校、歩美先輩は第二中学校だった。
僕は、交差点で、すこし待ってみた。
「おーい、捨神ぃ」
箕辺くんの声。ちょうどこの交差点で、落ち合うことが多かった。
「おはよう、箕辺くん」
「おはよう」
「おはよぉ」
葛城くんも一緒だった。小学生のときは私服だったからいいけど、中学はおそろいのブレザーで、なんだか違和感があった。男装してるようにみえた。
僕たちは、いろいろとおしゃべりをしながら、学校へと向かった。
「ところで、捨神、クラブ活動は決めたか?」
「うーん……ちょっとね……まだ迷ってる……」
「将棋部と吹奏楽部でか?」
箕辺くんの確認に、僕はうなずき返した。
「ふたつまで掛け持ちオッケーじゃなかったか?」
「吹奏楽部は、厳しいらしいんだよね……練習が厳しいのはべつにいいんだけど、将棋ができなくなるのは困るかな、と思ってるんだ。箕辺くんたちは、将棋なんだよね?」
「ああ、俺は将棋部だな。野球部とかもいいんだが、あっちはガチなんだ。ガチでやりたいのは将棋で十分だし、俺じゃどうせベンチだ。掛け持ちしないほうがいいと思った」
「ボクは将棋部をやりつつ、園芸委員もやるよぉ」
「あれ? 園芸部ってないんだっけ?」
「あるけど、趣味で園芸委員をやって、ほかの役職はパスしたほうがいいよねぇ」
なるほど、葛城くんって、結構腹黒いんだなあ、と思った。
かわいい男の娘にはトゲがある、ってね。
「まあ、捨神が決めることだからな。俺たちは口出ししないぞ」
こういうのって、飛瀬さんなら、どう思うかな? 「おまえのことが必要なんだ!」みたいな、熱い台詞を望むタイプ? それとも、いまの箕辺くんみたいに、「おまえの意思に任せるぞ」と、自由を尊重されたいタイプ?
僕はね、どっちでもなかった。ほんとに迷ってたんだ。箕辺くんたちに後押しして欲しい気持ちもあったけど、じゃあピアノを諦められるかと言えば、そうでもない。小学生のときに自学自習していたことを、教えてもらえるわけだからね。師匠の大切さは、歩美先輩で分かっていたし、どっちか決心がつかなかった。
そして、その後押しは、意外なところからやってきた。
「え? 吹奏楽部にですか?」
「そう、捨神くんには、吹奏楽部に入って欲しい」
放課後、校長室に呼び出された僕は、いきなりそんな話を持ちかけられた。
「すみません……どういうことですか?」
「養護学校の先生が、きみの腕前を、ずいぶんと褒めていてね。この学校の吹奏楽部は、市内でも有名で、毎年市代表になっている。県大会でも、比較的上位だ。だから、きみの実力を見込んで、ぜひにと、ほかの先生方もおっしゃってる」
「はぁ……」
僕は、気のない返事をした。
「ピアノは好きじゃないのかね?」
「いえ、大好きです。ただ、吹奏楽部に入るかどうかは、まだ決めてません」
「その言い方だと、ほかに候補があるようだね? どのクラブだい?」
僕は、答えていいものかどうか迷った。
でも、校長先生は、すごく真剣にこちらを見ていたから、答えざるをえなかった。
「将棋部です」
「将棋部?」
校長先生は、ちょっとびっくりしたみたいだった。声がうわずっていた。
「きみは、将棋もやるのかね?」
「はい、小学生のころからやっています」
「そうか……どのくらいの実力だい?」
僕は、本榧将棋祭りと、直近の成績を伝えた。
校長先生は、うんうんとうなずいて、それからこう答えた。
「ふむ……捨神くんは、将棋でも、もっと上を目指しているのかい?」
「えっと……なんとも言えません」
「なんとも言えない? ピアノのほうは、大好きなんだろう? なぜ悩む?」
「友だちがふたり、将棋部に入るんです。だから、僕も……」
僕は、最後まで言い切らなかった。これで伝わると思ったし、それに、友だちがいるから入るという消極的な理由付けが、急に恥ずかしくなってきた。こども将棋祭りで、歩美先輩を師匠にしたのは、僕の意思だった。そう、僕の意思。このことを、僕はずっと大切にしていた。歩美先輩はすぐに「弱いわね」とか言ってくるタイプ。精神的に打たれ弱い僕はへこんだけど、それでも続けたのは、僕が決めたことだからだ。
校長先生が僕の心中を察したとは思えない。ただ、こう返してきた。
「捨神くん、私もこの年齢で、囲碁と将棋は、まあ嗜んでいるよ。きみは、囲碁と将棋にプロがいることを、知ってるかね?」
「はい、知ってます」
「彼らは、天才中の天才と言ってもよくてね、私は囲碁の先生をひとり知っている。彼らはこどもの頃から神童と呼ばれて、おとなも顔負けの活躍をしているんだ」
「はぁ……すみません、なにをおっしゃりたいんでしょうか?」
僕は、率直にたずねた。なにか、重大な方向へ話が向かっている気がした。
校長先生は居住まいを正すと、両肘をテーブルに乗せた。
「私は、ピアノのプロというものには詳しくないが……養護学校の先生が言うには、きみにはプロの才能があるらしい」
「……え?」
「その先生は、去年の秋に、きみのピアノを初めて聴いたそうだよ」
「あ、はい、たしか、先生が変わったのを覚えてます。半年だけその先生でした」
「うん、それで、彼女はびっくりしてね。県内で有名な子だと思ったらしいんだ。でも、調べてみたら、コンクールにも出ていないそうじゃないか」
「えーと……コンクールって、なんですか?」
僕が尋ね返すと、校長先生は目を丸くした。
「知らないのか。なるほど、それはムリもない。まあ要するに、きみは、将棋のプロにはなれないと思うが、ピアノならなれるかもしれないんだ。将棋なら、小学生の頃には県代表になっていないと、厳しいからね。こう言うのは心苦しいが、将棋で大成することはないと思う。だが、ピアノは未知数だ。きみはまだ、ほかの子と競っていない」
僕は、頭がくらくらしてきた。いったいなんなんだろう。
プロ? プロってなに? ピアノのプロって、音楽の先生のことかと思った。
でも、話を聞くと、全然違うんだ。オーケストラなんかの演奏者。
「……すみません、ほんとに僕が? プロに? ……信じられないんですけど」
それが、僕の第一感だった。
「さっきも言ったように、私の評価じゃないんだ。ただ、養護学校の先生は、県内でも有名なピアニストでね。きみの養護学校を担当したのは、ボランティアなんだよ。その先生が言うのだから、私はそれを信じたいと思う」
僕は、戸惑った。そこまで偉い先生だとは、まったく思っていなかったんだ。
とはいえ、10月くらいから、やたら僕に話しかけてきて、あれこれ世話を焼いてくれたのを、ぼんやりと覚えていた。
え? じゃあ、なんでその先生自身が、僕にそう勧めなかったのかって?
アハハ、それは、またあとで。
とにかく、そのときはどう答えていいのか分からなかった。
「……すみません、時間をいただけますか」
「もちろんだよ。ゆっくり考えたまえ」
そうは言っても、校長先生は、かなり強い口調で推してきたからね。
断っても、もう一回呼び出されるのは、目に見えていた。
だから僕は、長年の友人に……箕辺くんたちに相談することにした。
「なに言ってるんだ? もう決まりだろ?」
それが、箕辺くんの第一声だった。
「え? 決まってるの?」
「当たり前だろ。吹奏楽部に入らないって選択肢があるのか?」
「え……あ……うん……」
「プロだぞ、プロ。やっぱり天才じゃないか」
「めちゃくちゃかっこいいよぉ」
「いや、なれるって決まってないんだけど……」
僕の伝え方が悪かったのか、それとも、中学生らしい早とちりなのか、もうプロ入り決定みたいな流れになっていた。僕は、あわてて否定した。
「これまでだれにも教わったことないんだよ? ムリでしょ」
「だから天才なんだろ。ダイヤモンドはダイヤモンドなんだ」
僕はね、この説にはあんまり賛成してないんだ。最近の科学的な調査で、ピアノのプロとアマチュアとの決定的な差は、練習時間にしかないって結果が出たんだよ。もちろん、世界三大ピアノコンクールに優勝するようなひとは、違うかもしれないけどさ。でも、一般的なプロとアマチュアの差は、そう、練習量なんだ。
「ま、とにかく、吹奏楽部に入れよ。期待してるぞ」
「応援するよぉ」
というわけで、僕の懊悩とはべつに、やたらあっさりと決まった。
校長先生に伝えたら、かなりホッとした表情だった。説得の手間が省けたからね。
「私も、きみの決断が正しいと思う。それでは、吹奏楽部の先生に、伝えておくよ」
「ありがとうございます」
……と、決まったものは決まったんだけど、あとで師匠にめちゃくちゃ怒られた。
「は? なにやってんの? 吹奏楽部って、なに?」
「楽器を演奏するクラブです」
「そんなのは分かってるわよ。なんで将棋部じゃないの。浮気してるわけ?」
僕は、いろいろと事情を説明した。
「え? プロ? ……ほんと?」
師匠は、箕辺くんたちとまったく正反対の反応を示した。
全然信じていない様子だった。
「うーん……なんか嘘くさいわね。それに、怪しくない?」
「なにがですか?」
「なんで急にそういう話が持ち上がるの? 小学校でそんなこと言われた? 5月から言い出すなんて、それまでなにやってたの? 密室会議?」
たしかに……僕は、ちょっと不安になった。
だけど、校長先生が嘘をついたとも思えないし、杞憂だと自分に言い聞かせた。
あとで考えたら、師匠はほんといい勘してると思う。探偵になれるよ。
「ま、いいわ。師匠として祝福してあげる」
「ありがとうございます」
師匠の怒りも収まって、僕はホッとした。
「んー、でも、なんとかして将棋部も掛け持ちできないの?」
「中途半端にならないように、と言われました」
「『二兎追う者は一兎も得ず』ってことか……しょうがないわね。春の個人戦は優勝したわけだし、県代表にはなれなくても、師匠としては満足だわ。それに、あなた、ずいぶん明るくなったし、これも歩美ちゃん効果ってやつね」
「ほんとに感謝してます」
僕は、ぺこりと頭を下げた。
「まあ、暇なときは指しましょ。じゃあね」
こうして、僕は、いったん将棋の道を離れた。
そして、激しく後悔することになった。




