601手目 特別便
さてさて、都ノ大学に到着したわけですが──
神崎さんの第一声は、
「東京にしては、ずいぶんと自然が多いな」
だった。
そうなのよね。山がふつうに見えるし、公園も多い。
どうやら、東京は西へ行けば行くほど、都会っぽくなくなるようだった。
地理がまだ頭に入っていないけど、内陸へ向かうのだから、当然か。
神崎さんは、
「あのあたりの木々を飛び回ったら、さぞかし爽快であろう」
と口走った。
東京では忍んでください。
都ノ大学は、ちょっとした街に囲まれつつ、ぐいーっと横長に広がっている感じのキャンパスだった。これ、駅から奥へ行くときに、大変なのでは。もっとも、そういう点に配慮したのか、オープンキャンパスは正門から近い建物でやっていた。青いTシャツを着た学生スタッフが、たくさんいた。講堂という場所があって、そこに集合するみたい。入場方式は、八ツ橋とほぼ同じだった。入り口で受付をして、資料をもらって、まずは大ホールへ。
赤い椅子がずらーっと並んでいて、なんだか劇場みたいだった。
これ、1000人くらい入るのでは。
とりま、真ん中の右寄りに座る。
どんどん生徒や保護者が集まってきて、うしろのほうがだいぶ埋まった。
みんな前に行きたがらないのは、まあそういうものよね、という印象。
ここからの流れも、だいたいいっしょ。まずは先生のあいさつ。在校生の大雑把な大学紹介。ひとつ違った点があるとすれば、大学の歴史みたいなのは、言及されなかったことだ。代わりに、就職状況が出てきた。これはこれで、ピンとこない。
そのあとは、模擬授業。私は1号館の教室へ移動。
【経済学部】という貼り紙のある部屋へ。
こちらのほうも、そこそこ若い先生だった。でも、内容は八ツ橋とはガラっと変わっていた。日本では電気料金に一定の上限が設けられていますが、それが消費者にとって本当によいことなんでしょうか、というお話。そして、その解決方法が、八ツ橋のときと違っていた。ばりばりに数式を使って計算。高校生が20分ほどで理解するのは、ムリじゃない?、という勢い。
終わったあと、先生は、なにか質問はありますか、とたずねた。
教室内は、シーンとしている。
すると、先生は先をつづけた。
「今回、私は大学から模擬授業を頼まれたとき、高校生にも分かりやすい内容でお願いします、と言われました。しかし、この授業は、みなさんの多くには分かりづらかったのではないかと思います。このようにした理由は、ふたつあります」
先生は、すこし間を置いた。
教室内の雰囲気を確認しているようだった。
なにが言われるのだろうと、みんな真剣に耳をかたむけていた。
「まず、大学の授業は、一回聞いて分かる、という性質のものではありません。説明の仕方が云々、とはまたべつの問題です。どれだけ平易に説明しても、理解するのに時間がかかることがらは、たくさんあります。私も論文などを読んでいるとき、何ヶ月もかかることがありますし、未だに理解できていないものもあります。高校生が20分で理解できる授業というものは、大学の本来の授業ではないのです。これは模擬授業ですから、毎年の私の授業を模したものをおこないました」
先生は、ひと呼吸おいた。
「もうひとつの理由は、都ノ大学経済学部の、特徴に関係します。すべての教員がそうだとは言いませんが、都ノ大学経済学部では、数学をもちいる分野を専門とするひとが、多くいます。私もそのひとりです。数学が苦手なひとは入らないほうがいい、と言っているのではありません。私も数学は得意ではないです。しかしながら、数学を使いたくない、というひとは、じぶんのやりたいことを、もういちど考えてみるようにオススメします。現代経済学において、数学を使わない、という選択肢は、ほぼありません」
教室内が、シーンとなった。
一方で、だよねえ、みたいな生徒も、何人かいた。
たぶん、数学が得意なグループかな。
そのあとは、模擬授業の内容についてではなく、数学の勉強ってどうやってすればいいんですか、みたいな質問がちらほら出た。先生の回答は、数学はおぼえようとするものではない、とか、試験結果を気にせず、ツールとしてまずは馴染むこと、とか、そういうアドバイスだった。前者はよく聞くけど、後者は社会人らしいコメントだな、と思った。大学受験において、数学はそれ単体で試験科目だから、他の科目のツール、という観点は希薄だからだ。
質問タイムも終了して、みんな廊下に出た。
うわー、むずかしいなあ、と嘆息している生徒も、何人かいた。
私は神崎さんに、
「さっきの模擬授業、どうだった?」
とたずねた。
神崎さんは、
「最初の五分はわかった。あとはよくわからなかった」
と答えた。
私もそんな感じだった。
神崎さんは、
「拙者には、内容よりも、あの教授……准教授だったか、准教授の考えかたのほうが、興味深かったな」
「どういうこと?」
「拙者の職業柄、組織の指示に逆らう、という判断はありえぬ。あの准教授は、あえてそういう選択をしたということだ。おそらく、ほかの教員であれば、指示通りに簡単な講義をしたのではないかと思う。性格なのか、なにか思うところがあったのか、それはわからぬが」
「なるほどね」
私たちはお手洗いに行ったあと、1号館を出た。
あいかわらず暑い。
お次は、キャンパスツアー。
ここのツアーも、時間制のローテーションだった。
高校生10人につき、2人の在校生がアテンドして、順番に出発していく。
私と神崎さんは、最後尾のほうに立っていた。
「はーい、それでは出発しまーす」
前のグループがスタート。
はいはい、ついに順番が。
と思いきや、案内役のスタッフが、在庫切れになってしまった。
私と神崎さん、それにうしろに並んでいる3人だけが、取り残されてしまった。
うしろの3人は、
「あれ~、みんないなくなっちゃったね」
「先にランチする?」
「駅前にカフェがあったから、戻らない?」
と言って、その場をはなれた。
神崎さんは、
「事務方の手抜かりだな。全員、出払ってしまうとは」
と言って、やれやれと首を振った。
そうよね。現場担当がいなくなるのは、シフトミスだと思った。
私は、
「お昼にする?」
とたずねた。
「それでもよいが……」
そのときだった。
うしろから、女性の声がした。
「あらら、なんでだれもいないの?」
ふりむくと、スタッフのTシャツを着た女性が立っていた。
ちょっと細目で、への字型眉毛。
ウェーブのかかった髪が、肩甲骨のあたりまで伸びている。
オレンジに近い染め方をしていて、なんだかすごく気さくそうなひとだった。
「ごめんねえ、私が案内しようか?」
「え……あ、いえ、お忙しいと思いますし……」
「へーきへーき、講堂のかたづけは、人手が余ってるくらいだから」
いや、それはあなたがさぼりたいだけなのでは。
とはいえ、大学生と揉めてもしょうがないし、お願いすることに。
「はーい、それではキャンパスツアー特別便、しゅっぱ~つ」
私たちは3人で歩き始めた。
女性スタッフは、
「あ、私は森本。ふたりは? 言いたくなかったら、下の名前だけでいいよ?」
とたずねてきた。
「香子です」
「忍だ」
「キョウコちゃんとシノブちゃんね。朝一で来てた?」
朝一っていうほど早くなかった気がするけど、はい、と答えた。
「山奥で大変だったでしょ」
「いえ、地方出身なので、それほどでも……」
「どこ?」
「H島です」
「そうなんだ~私、まだ行ったことないんだよね。ちなみに、何学部?」
「経済です」
「あ、私、経済だよ」
おっと、ラッキー。いろいろ訊けそう。
一方、神崎さんは、
「拙者はつきそいだ。受ける予定はない」
と率直に答えた。
「そっか、多摩くんだりまで、おつかれさま。あッ」
森本さんは、向かって左の建物をゆびさして、
「えー、こちらが生協でございます。コンビニもありま~す」
と紹介した。バスガイドさんみたいなノリになってきた。
そのあとは、図書館、情報処理専門の校舎、国際交流会館を回って、理系のエリアへ。そういえば、松平はここの工学部を受けるって言ってたなあ。ほんとかしら。
森本さんは、
「理系の施設は、よくわかりませ~ん。理系の学生に聞いてくださ~い」
と言って、丸投げ状態に。
ほぼほぼスルーで、理系校舎の端っこまで来た。
「なんか気になったこと、ある? なんでも質問してくれていいよ」
んー……あ、そうだ。
このひとなら、あとくされなさそうだし、ちょっとつっこんだ質問をしておこう。
私は、さっきの模擬授業の話をした。
森本さんは、ふんふんと耳を傾けたあと、
「ああ、五十嵐先生ね。あの先生、そういうこと言いそう」
と笑った。
「厳しい先生なんですか?」
「厳しいっていうか、マジメ。ゼミの入室試験のときも、同じこと言ってた。数学やりたくないひとは、他のゼミをオススメします、って」
私は、ゼミってなんですか、とたずねた。
「3年生になったら、専門的なことを少人数で勉強するんだよ。他の大学でもあると思うけど、必修のところと、そうじゃないところがあるらしいね」
ふむふむ……ん?
入室試験のときに言われた?
「もしかして、森本さんは、五十嵐先生のゼミなんですか?」
そうだよ、と森本さんは答えた。
意外──いや、これは失礼か。
「ほかの先生も、あんな感じなんですか?」
「ううん、バラバラ。ちょ~優しい先生もいるし、ちょ~厳しい先生もいる」
どうやら、大学の先生は、みんなワンマン経営みたい。
学生との接し方も、授業の難易度も、成績評価も、バラバラらしかった。
「は~い、ここからスポーツ施設になりま~す……あれ? シノブちゃんは?」
え? ……あ、いない。
興味がなくて、どっか行っちゃったかしら。
きょろきょろしていると、頭上で、遠くから呼びかけるような声が聞こえた。
「ふーむ、ここからの見晴らしはよいぞ」
見上げると、神崎さんが体育館の天井に、腕組みをして立っていた。
だから忍びなさいってばッ!




