587手目 エール
※ここからは、飛瀬さん視点です。
会場のかたすみに立って、私は大盤のモニタを見つめていた。
となりには、静ちゃんと美沙ちゃん。
静ちゃんは獄門のセーラー服を着ていた。
美沙ちゃんは黒いワンピースにスカート。
遠くの大盤では、囃子原くんたちが談笑していた。
けれどもそこには、終盤に向かう緊張感が、はっきりと現れている。
美沙ちゃんは、
「駒桜のひとたちと応援しなくて、よかったのですか?」
と訊いてきた。
「うん……なんだか、熱気にあてられちゃいそう……」
「そういう応援は好きではない、と?」
ううん、そうじゃない。説明がむずかしい。
箕辺くんたちは、ほんとうに心から応援していると思う。
でも、その応援の先にあるものが、なんだか怖い。
悪いとか、よこしまとか、そういう意味で怖いんじゃない。
ただ漠然と……私が捨神くんに対して抱いている想いと、違う気がする。
私は大盤を見た。
吉良くんは苦しんでいる。
局面に、というよりも、なにかべつのことに対して。
静ちゃんは、
〈入玉を避ける意味、ないでしょ。意地張らないで、入ったほうがいいよ〉
と、テレパシーで話しかけてきた。
静ちゃんは、そういうタイプだよね。さばさば系。
苦悩しているのは、吉良くんのプライドだ。
プライド──違うかもしれない。
私はこの対局の意味が、まだよくわかっていない。
日日杯の決勝。形式的には、それだけ。
でも、捨神くんと吉良くんにとっては、なにか特別な対局。
それがなんなのか、私にはわからない。わからないから、不安になる。
その不安のなかで、モニタに動きがあった。
パシリ
会場がざわめいた。
伊吹さんは、
《入玉模様でしょうか》
とコメントした。
囃子原くんは、
《まだなんとも言えないが……問題は、入玉ルートが細い、ということだ》
と返した。
石鉄くんは、
《一見入りやすそうですが、飛車の横利きを通す手もあるので、簡単には入れません。後手は7九の金を拾えますから、止める手段は豊富です》
と解説した。
捨神くんは、8六香。
この手は早かった。
吉良くんの入玉へのためらいに、捨神くんは気づいていない。
そして、吉良くんはそのことに気づいていない。
ふたりのあいだに、ちぐはぐなコミュニケーションが成立している。
6二銀、同金、同と、4三玉、3五歩。
これは──
「吉良くん、まだ寄せをあきらめてないね……」
私は、そうつぶやいた。
解説陣も、この手には同じ反応だった。
石鉄くんは、
《7三角成のほうが、一貫性はありそうでしたが……》
と口ごもった。
伊吹さんは、
《寄せは十分見えるので、両立させる感じでしょうか?》
と解釈した。
石鉄くんは、バランスを取るほうがいいですね、と付け加えた。
囃子原くんは、この会話に加わらなかった。
残り時間は、先手が3分、後手が4分。
捨神くんの手は、ここで止まってしまった。
しばらく沈黙が流れる。
囃子原くんは、
《3二玉と引く手もあるが、放置しても即死はしない。7九飛成で金を回収し、入玉に備える手もあるだろう》
と、駒の回収を急ぐ手を提案した。
これは、美沙ちゃんには評判が悪かった。
「囃子原さんレベルに物申すのもアレですが、3四銀と入り込まれたら、かなり厳しいと思います。一回受けるほうが、よくないですか」
静ちゃんはこれに反論。
〈と言っても、受ける手がほぼないんだよねえ。3三銀なんか打っても、3四歩が厳しくなるだけだし。2三銀は王様が狭くなるよね〉
静ちゃんの言うとおり。
受けはないように見えた。
捨神くんは1分使って、7九飛成とした。
3四銀、3二玉、2三金、3一玉。
受か…りそう?
見た目に反して、先手は歩しかない。
解説陣は、先手有利という点で、意見が一致した。
でも、細かい評価では合意がなかった。
伊吹さんはそこまではっきり言わなかったけど、先手優勢までいってるんじゃないか、というニュアンスが、言葉のはしばしに感じられた。石鉄くんは控えめで、まだまだ後手がんばれる、とのこと。囃子原くんは、どれくらい後手が悪いか、という点には言及しなかった。2二歩以下で、後手が苦しい順を端的に示した。
そして、その2二歩が指された。
私は胸がしめつけられる。
捨神くん、負けちゃうのかな──ほんとうは、そんなことを思ってはいけないと、わかっている。だけど、私はやっぱり、地球人とはちがうんだよ。可能性の低いことを心から信じられないみたい。それは、遺伝子レベルで決まっていることなのかもしれない。
先手がいい。後手が悪い。だから、後手が勝つ確率は低い。
それが眼前のリアルだった。
パシリ
2二歩が打たれた。
捨神くんは深くうなずいて、8一飛と寄った。
囃子原くんは、この手にほほえんだ──ように見えた。
「大局を決める飛車だ。この飛車が働かないようなら、後手の負け。さしあたり、8七銀以下の詰めろになっている。先手も忙しくなった」
吉良くんは、すぐに2一歩成。
残り時間は、先手も後手も1分を切った。
同玉、2二歩、3一玉、4三桂。
先手はまだ詰めろ。
後手玉が詰まないなら、先手はどこかで手をもどす必要がある。
ピッ
捨神くんが1分将棋に。
私は胸のまえで手を組んだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ
同金。
吉良くんは6四角成と引いた。
囃子原くんは、
《4一玉だと詰んでしまうが、受ければ問題ない。ただし、合駒が問題だ。4二歩合か4二桂合かは、悩ましい。すぐに影響が出るわけではないが、しばらくたつと差が出るかもしれない》
と解説した。
伊吹さんは、
《すぐに影響は出ない、とは?》
と尋ねた。
《4二歩でも4二桂でも、8二歩、8七銀、8二飛で、しばらく同じになる》
《なるほど、数手先で桂馬が必要になるかどうかは、1分将棋では読みにくいということですね。必要ないなら、4二桂と受けたいところですが》
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
4二桂。
手堅く受けた。
モニタに映っている吉良くんは、小刻みに揺れている。
攻めを読んでいるように感じた。
大盤は、8二歩の叩きを中心に解説している。
ピッ
吉良くんも1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8二歩。
ここからは、おたがいに59秒を使い切る、ねじり合いが始まった。
8七銀、8五玉、8三金、9七歩、9一飛。
石鉄くんは、
《この手順はすごいです。8二歩、9一飛では意味がありませんでしたが、ここまで決めて9一飛なら、同香成に9四金以下の詰みが発生します》
と賛嘆した。
そうか、同香成とできないんだ。
飛車がいきなり働き始めた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
吉良くんは8六馬と引いた。
伊吹さんは、
《どうでしょうか、先手、若干変調に思いますが……》
と尋ねた。
囃子原くんは、
《逆転したように思う。後手持ちだ》
と答えた。
後手有利? それとも後手優勢?
それとも僅差なのかな?
私の棋力じゃわからなくて、もどかしい。
8四歩、同角、9四金、7四玉、8四金、同玉。
あれ? 入れそうじゃない?
伊吹さんも、
《こんどは後手がミスでしょうか? 一転、入玉できそうですが?》
と、確認を入れた。
《いや、まだ入れない……が、ミスはあったように思う。9四金ではなく、7五歩だったのではないだろうか。9一香成、9四金以下の筋が美しすぎて、そちらに意識が行ってしまったようだ。あるいは1分将棋で、7五歩との比較が困難だったのかもしれない。僕も読み切れてはいない。いずれにせよ、まだ入れない。8三歩、同玉、9四角でバックから利かせば、入玉ルートはなくなる》
そうなの? むずかしすぎる。
モニタを見やる。
吉良くんの表情は、優勢という感じじゃなかった。
このことは、囃子原くんの読みを裏づけていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8三歩、同玉、9四角、7四玉、7一香、7二香。
大盤は、入玉する順を検討した。7一香に同と、同飛、7三香も考えられたけど、それは8五銀と後ろから迫るのが好手で、入れないということになった。
時間が溶けていく。
モニタの数字は、淡々と減っていく。
捨神くん、がんばって。
それが、私の心からのエール。
勝ち負けはどうでもいい、なんて言わない。
捨神くんは、勝ちたいと思っている。
だから、がんばって。




