576手目 応援
※ここからは、箕辺くん視点です。
将棋の応援は、どこかもどかしい。
今さらながら、そのことに気づかされる。
声も出せないし、ポンポンとゲームが進むわけでもない。
俺たち駒桜のメンバーは、一ヶ所に固まって、大盤解説を聴いていた。
葦原先輩の解説は丁寧で、今は先手の囲いを説明しているところだった。
《先手には、2通りの方針があります。ひとつは、穴熊が完成する前に、速攻をかけることです。しかし、この局面で速攻が成立するとは、思えません。したがって、2番目の方針、すなわち、美濃に組みなおすことが考えられます》
葦原先輩によると、美濃への組み換えは、可能らしい。3八銀と上がって、4九金と引きなおせばいい、というわけだ。もちろん、手数がかかる。穴熊はそのあいだに完成してしまうだろう、とも言っていた。
もうひとりの解説者の少名は、
《先手が囲いなおしてるあいだに、4枚穴熊までいきそうだな》
と、懸念を示した。
《はい、できれば先手から動ける状態に、しておきたいですね》
《二兎にならなきゃいいけどなあ》
捨神は、そういうタイプではない──と思う。たぶん。
だからこそ、悩んでいる感じがする。
俺は、となりに座っているふたばにも訊いてみた。
「これ、囲ってさらに先手から攻める、って、できるのか?」
「んー……できて欲しいよねぇ」
この言い方は、できないと踏んでるな。
《っと、捨神が動くぜ》
モニタに捨神の腕が伸びた。
葦原先輩は、
《さっそく牽制しました。しかし、5五歩は成立しないと思います》
とコメントした。
だよな。4四銀がガードしている。
囃子原は悠々と、1一玉。
以下、2八玉、2二銀、3八銀、6二飛で、後手のほうから動きを見せた。
少名は、
《いやらしい手だ。単に穴熊を目指すんじゃなくて、固めてポンも見せてる》
と指摘した。
捨神は、とにかく囲うしかない。
4九金、6五歩、6八飛、3一金。
囃子原は、手堅く3一金型へ移行した。
遊子はこれを見て、
「後手は、手のうちを見せない作戦みたい」
とつぶやいた。
このへんの押し引きについては、遊子も判断がうまい。信用できる。
俺はしばらく黙って──ふと、訊いてみたいことができた。
「カンで答えてくれて、いいんだが……囃子原って、弱点はあるのか?」
遊子の目つきが、鋭くなった。
真剣にゲームをしているときの目つきだ。
「……あるかも」
「ほんとか? なんだ?」
指しかたのクセか、それとも、序中盤で苦手なところがあるのか。
遊子の回答は、まったく予想外のものだった。
「本気で指してないこと、かな」
「本気で指してない……? 遊んでるってことか?」
「ううん、ちょっと違ってて……スポーツでもそうだけど、負けられないときの本気モードって、あるよね。神経が緊張してるっていうか……今回の大会だと、六連くんが、そんな感じだった」
六連の名前が出て、俺はやや困惑した。
ああいう結末になって、その余韻がまだ残っていたからだ。
「囃子原は、緊張してないってことか? それはいいことなんじゃないか?」
「緊張は、必ずしも悪いことじゃないよ。集中力が高まるし。囃子原くんは、どこか本気で指してない……あるいは、本気で指せないんじゃないかな。それが心理的なものなら、弱点だよね」
遊子の説明を、俺は十分に咀嚼できなかった。
本気ってなんだ?
将棋って、いつも本気で指すもんじゃないのか?
俺が混乱するあいだにも、局面は進んでいく。
9六歩、3三銀引、1六歩、1四歩。
後手は4枚穴熊か?
捨神はここで、すこし迷った。
でも、時間差がつくのがイヤだったのか、9五歩と手渡しした。
4四歩、5七銀、4五歩、7八飛。
捨神も、動く態勢がととのった。
ひとまずホッとする。
解説の葦原先輩は、扇子で後手陣をさした。
《4枚穴熊が本線かと思います》
《だけど、4二金寄には、8三角があるぜ》
現時点では、8三角に6三金がある。
さすがに俺でもわかる。
4二金寄は、やりにくいか?
サイドカメラのモニタには、囃子原の姿が映っていた。
ひじかけに両腕を乗せて、椅子に堂々と座っている。
ちょっと高校生っぽくない貫禄だ。
ふたばは、
「先手が攻めるのを、待つだけだと思うよぉ」
と言った。
ところが、これは外れた。
囃子原はひとくち水を飲んで、そのまま3五歩と伸ばした。
今度は、捨神が考え込むターンになった。
少名は、
《一目、7一角》
と読んだ。
葦原先輩も、うなずいた。
《そうですね……しかし、罠のようにも……》
《7一角と打たないなら、2六歩くらいしかなくね?》
《2六歩は有力だと思います》
意見が分かれた。
葦原先輩は、2六歩で十分だから、罠っぽい手は指さなくていい、という立場。
少名は、そんなことは考えずに、打ったほうがいい、という立場。
このあたりは、性格の問題にも見える。
俺とふたばと遊子も、あれこれ議論した。
ふたばは、
「2六歩だと、構想勝負だねぇ。つっくんなら、心配ないよぉ。7一角は、囃子原くんがいかにも読んでそぉ」
と、2六歩を推した。
遊子は、
「持ち時間に、4分差あるんだよね。ここは踏み込んだほうが、いいと思う」
と、7一角を推した。
残り時間は、先手が19分、後手が23分。
囃子原は、穴熊の選択と、今の3五歩のところでしか、長考していない。
捨神のほうが、駒組みに苦心している感じがした。
解説者たちも、細かく読み始めた。
《2六歩に3四銀と支えたとき、穴熊が弱体化します》
《3四銀じゃなくて、5五歩じゃないか?》
《同歩に?》
《7三桂とぶつける》
【参考図】
これは……交換になるのか?
後手が暴れられるなら、2六歩の意味は、あまりない気がした。
だけど、葦原先輩も、反論を用意していた。
《7三桂には同桂成とせず、5四歩と伸ばすのが急所です。後手から8五桂ならば、無視して5五角と打ちます》
【参考図】
なるほど、そういう手があるのか。
少名も腕組みをして、うなった。
《うーん……6三飛、8五歩、7三角で、ぶつけるのは?》
《8五歩とせず、9一角成でよいのでは?》
《5七角成、同金、7七桂成、同飛、6八銀があるぞ》
【参考図】
葦原先輩が考える番になった。
《なるほど……しかし、2五桂くらいで、よいと思います》
ふたりがあれこれやっていると、司会の内木が戻ってきた。
大盤を一瞥して、
《こちら、どのような感じでしょうか?》
とたずねた。
《いいところに来たな。どっちがいいか、教えてくれ》
少名は、2六歩と7一角の選択を説明した。
内木は営業スマイルをやめて、将棋指しの顔になった。
《……どちらもいい勝負だと思います。最後、2五桂と打った局面では、先手を持ちたいですが……というより、私は現時点で、若干先手持ちです》
《え、それって地元推しだから、じゃなくて?》
《有力な選択肢が先手にふたつ生じている時点で、純粋に先手を持ちたいです》
葦原先輩は、
《悩ましいのではなく、選択ができる、と考えるわけですね》
と解釈した。
《おっしゃる通りです》
《しかしながら、それは個人の受け止めかたに、依存するやもしれません》
葦原先輩はそう言って、モニタへ視線を走らせた。
捨神は、猫背で盤面を見つめている。
その表情は──明らかに、迷っていた。
ふたばもこれに気づいていた。
「つっくん、悲観しちゃダメだよぉ」
悲観……悲観なんだろうか?
そうじゃなくて……言葉にしにくいな。
マジメ過ぎる? うしろ向き? 優柔不断?
どれも違う。
なんだろう……ひとを疑い過ぎている?
言いかたは悪くても、これが一番近いと思う。
他人から与えられた選択肢に、すなおに反応できないんだ。
それは、捨神の性格かもしれない。あるいは、これまでの人生経験のせいか。
囃子原はそれを知って、わざと選択させているような気がした。
内木は、マイクを持ったまま、アッとなった。
《捨神選手、動きます》
捨神は一度手を伸ばして、それからすこしだけ戻した。
だけど、最後は手を決めた。
そっちか。
葦原先輩は即座に、
《こちらを選択しましたか……打たされた感もあります》
と、やや意外に思っているらしかった。
少名は、
《思いっ切りがよくて、いいだろ~》
と、勢い重視。
内木は司会だからか、でしゃばった発言をしなかった。
囃子原は、ノータイムで3六歩と突いた。
そう来るのか。
これは解説陣にも、予想外だったようだ。
葦原先輩は、
《はて……4二金寄、6二角成、同角で、後手陣は万全かと思いましたが》
と、疑問のようすだった。
少名は、
《一本入れてるだけだろ》
と返した。
これは当たったみたいだ。
同歩に4二金寄。
葦原先輩は、
《どうやら光彦のほうが、対局の流れとシンクロしているようですね》
と認めた。
《へっへーん、俺の人読みは当たるんだって》
他人が簡単にわかるなんて、俺は信じていない。
捨神のことを理解するまで、俺は何年もかかった……いや、そうじゃない。
俺は未だに、捨神のことが理解できていない。
この将棋の内容だって、よくわからない。棋力的にも。
だけど、ここにいる。
それが応援するってことじゃないのか?
捨神、がんばってくれ。




