566手目 控え室の時間
※ここからは、犬井くん視点です。
決勝トーナメントが始まったとき、スタッフルームはごった返していた。
学生スタッフがほとんどアガリになって、観戦に参加しているからだ。
ホテルの会議室を借りて、そこに機材を運んである。
モニタは小さめで、24インチ。スピーカーも安物。これが十数台。
パイプ椅子と、長方形にくっつけたテーブル。飲み物が散乱していた。
学生スタッフは好き勝手に陣取って、とりとめのない雑談。
いかにも裏方の風景。
時間の流れる速さも、ゆるやかに感じられる。
そんなことって、ないかな。文化祭でも、裏方をやっていると、なんだか自分の回りだけ、時間がゆっくりと流れている気がしてくる。
H島のひとたちは、捨神くんと早乙女さんのモニタに集中。
雁首そろえて観戦、って状態。
葉山さんも、そっちを担当していた。
僕は、デイナビの索間さんと一緒に、大谷vs鬼首を観戦。
モニタのまえにふたりで座って、あれこれ検討していた。
索間さんは、
「2三歩は、おそらく手渡しですねえ。2二歩、同金、2三歩なら手番を取れますが、それよりも、持ち駒の歩が大きいと見たのでしょう」
と予想した。
おそらく、そう。
そして、そこから鬼首の構想は読める。
後手が8六飛と走ったあと、8七歩、8一飛に4六歩だ。
【参考図】
このとき、歩がないと困る。
日日杯出場経験者の索間さんには、釈迦に説法だから、いちいち言わない。
せっかくだから、もっと別の会話をしよう。
「索間さんが出場したときは、どんな感じでしたか?」
策間さんは、頬に手をあてて、
「もう6年も前の話なので、記憶が……」
と、苦笑した。
第8回だよね。三和さんが優勝したのは、第9回。今回が第10回。
「決勝トーナメントは、出場なさいましたよね?」
「ええ、準決勝で負けました」
「経験者として、なにが大事だと思いますか?」
ちょっと考えるかな、と思いきや、即答してきた。
「決勝トーナメントだと思わないことですね」
けっこう意外──でもないか。
準決勝で負けたときの、素直な反省っぽい。
「ちょっと深入りしちゃいますけど、それはご自身の経験として、ですか?」
「ですねえ。予選を通過したあと、ギアがちぐはぐになったというか……気負い過ぎて、そのまま折れました。待ち時間をうまく過ごさなかったのが、敗因だと思います」
「索間さんの目から見て、鬼首さんと大谷さんは、どうですか? 緊張してますか?」
索間さんは、他人の性格を読むのが得意ではない、と答えた。
わりと控えめな回答。
僕はタッチパッドを操作して、画面を見せた。
【鬼首あざみ(O山)】
取材時刻 14:23 取材場所 メック
①決勝トーナメントへの意気込み
メンタルケアとして気合いを入れることは大事
ヤル気がないとストレス負けするから
②決勝トーナメントの秘策
なし
③予選との関係
過去の対戦成績に意味はない
【大谷雛(O山)】
取材時刻 15:15 取材場所 記者室
①決勝トーナメントへの意気込み
特別な意識はない 将棋というゲームに変わりはない
②決勝トーナメントの秘策
無回答
③予選との関係
過去は過去のことなので・・・(なので?)
索間さんは、
「商売道具を見せちゃって、いいんですか?」
とほほえんだ。
「プロの編集のかたから見て、面白い取材になってると思いますか?」
なってないんじゃないかな。
それが僕の感想だった。
索間さんは、
「記事になってみないと、わかりませんね」
と答えた。
「それは、社会人特有の言い回し、ですか?」
「あ、いえ、記事の雰囲気って、できあがってみないと、わかんないと思います。言葉って、口頭での会話と、文字起こししたものとで、印象が違うじゃないですか。前後の記事や、大会の結果との兼ね合いもあります。例えば、鬼首さんが勝ったときと、大谷さんが勝ったときとで、このコメントの評価は、変わっちゃうんじゃないでしょうか。言葉の意味を事前にコントロールは、できないんです。不思議ですよね」
僕は、タブレットをしばらく見つめた。
「……なるほど、ありがとうございます」
パシリ
画面には、8六飛が指されていた。
8七歩、8一飛、4六歩。
予想通り。
大谷さんも、これには気づいていた。
3五歩で、すぐに反発した。
索間さんは、
「あちこち当たっていますが、3筋も4筋も、取らないほうがいいです。4五歩は3三角が飛車当たりなので、2九飛、4六桂となってしまい、両取りの先手を取られます。3五同歩は、同角、2五飛、3四銀と前に出られたとき、厄介です。3四銀じゃなくて4六角でも、先手面白くありません」
と解説してくれた。
さすがだね。
鬼首は4五桂で、これらのルートを回避した。
3六歩、6五歩、6六歩、3四桂。
……………………
……………………
…………………
………………鬼首が悪いか?
いや、ほんとうに微妙な差だ──難しい。
6七歩成が先行している。同金右までは、確定だろう。でも、その次は?
一目、再度の6六歩。これが間に合うなら、話は早い。
実際、5七金や6八金引と逃げるようじゃ、先手が悪いだろう。
だけど、鬼首からは3三歩がある。これで寄せ合いになったとき、どうか。
大盤解説のモニタでも、その局面を検討していた。
【参考図】
磯前さんは、
《これ、6七歩成は、3二歩成、同玉、2二歩成、4一玉、7三角で、先手勝ちなんじゃない? 6二金打としても、寄っちゃうんだよね》
と、パッと見の詰めろを挙げた。
温田さんは、
《3七銀から、駒を抜けないの~?》
と質問した。
磯前さんは、その順を考えていなかったらしく、ちょっと押し黙った。
《……3七銀、同銀、同歩成、同玉、2六金に、2八玉だと詰むか。2六同飛、同角、同玉……飛車を抜いても、後手は詰めろがかかったままだから、ダメなんじゃないかな》
《その瞬間、先手玉が、とってもあやしいと思うの~》
【参考図】
ん? たしかに、あやしい。
磯前さんは、黙って2九飛と置いた。
腕組みをして、盤を睨む。
《……詰むかどうか、微妙だね。2七歩、2五歩、同玉は、詰む。2七飛成、2六歩、2四歩、3五玉、4四銀打、2四玉、2六龍と、自陣にどんどん追って行けば勝ち。問題は2七歩、2五歩に、同玉じゃなくて3五玉》
《それは3九飛成、3六歩、3四銀、同玉、3六龍、3五歩、4三金、2四玉に、3三銀で詰まないの~?》
《いや、単に王様を寄れば、ぎりぎり詰んでない》
【参考図】
《3三銀、同桂、同龍に、2五玉と下がれるから、詰まない……んだけど、先手負けだよね。2二龍で、と金を払える》
磯前さんはここまで解説して、10秒ほど沈黙した。
《……ってことは、2度目の6七歩成で、後手勝ちなのかな?》
このひとことに、索間さんがコメントした。
「これは相当難解です。さきほどの解説は、歩合しか読んでいません。それに、3二歩成ではなく、2二歩成と成り込んだときも、読まないといけません」
【参考図】
「同金は同飛成で即死します。ですから、4一玉の一手で、3二と、5一玉、7三角の王手。以下、6一玉、2一飛成、5一桂、6四桂の瞬間、先手が寄らなければ勝ちです。ポイントは、金取りに打ったように見える3三の歩を、一切動かさないことですね」
僕は今の手順をメモしながら、
「3七銀から、さっきみたいに寄りませんか? 形は似てますよね?」
とたずねた。
策間さんは、急に自信なさげになった。
「ほんとうに難しいです。3七銀、同銀、同歩成、同玉、2六金で、さっきと似たかたちに見えるのですが、2六金に同龍とする必要が、ないかもしれません。というのも、5一桂の合駒を請求されてるので、攻め駒が1枚少ないんです。2八玉、3七銀、3九玉、6六角、2九玉で、ぎりぎり耐えているような……」
【参考図】
これは……どこかに変化がありそう?
僕と索間さんは、あれこれ議論を始めた。
大盤解説会場も、この順に気づいたらしい。似たような検討をしていた。
結論は──先手勝ち?
ただ、変化も多かった。見落としている筋があれば、終わる。
《そろそろ指さないと、マズいの~大谷先輩、残り時間が10分しかないの~》
ここまでの長考で、後手は持ち時間を溶かした。先手は18分残している。
60手目を考えている段階なのに、時間差がひらいた。
索間さんも、
「厳しいですね。6七歩成、同金右、6六歩で後手がダメなら、他の手も読まないといけません。しかし、さきほどの順で、いっぱいいっぱいのような……」
とつぶやいた。
一方、僕は鬼首のほうに視線が向かった。
……………………
……………………
…………………
………………鬼首も、苦しいと思ってるな。
表情は、いつも通り。ちょっと怒ったような感じ。
だけど、くちびるをときどき結んで、小首をかしげているのが、癖で見抜けた。
鬼首が読み切れていないとなれば、指運になる可能性も──あ、大谷さんが動いた。
パシリ
成り込んだ。
鬼首はノータイムで同金右。
緊張が高まる。
6六歩で後手勝ちと読んだなら、打つはず。
どうだ?
パシリ




