５５８手目　棋譜の完成度

　現在の局面は……先手の＋３００ほど。

　思ったより、プラスにならなかったわね。

　私の脳内評価値も、数十手先まで正確にわかるわけじゃない。

　そんなことができたら、初手で勝敗を突き止められるはずだし。

　いずれにせよ、本局は私が有利。自信はある。

　得意戦法、持ち時間の優位、切らせやすい局面。

　条件はそろった。

　大谷（おおたに）先輩は、残り１０分になったところで、６六香。

　私はノータイムで６七歩。

　同香成、同金、同龍、６一金、同銀、５八金打、７八龍。

　私の残り時間は、１５分。

　そのうち１分使って、６三馬。

　大谷先輩は６七歩と打った。

　なるほど、そのルートですか。

　今のところは、７四歩や５二金もあった。

　迷いどころだと思ったけど、これ以上時間を離されたくなかったのだろう。

　私はここをキーポイントと見た。時間を投入する。

　まず、分岐①は５三馬。単純な王手桂取り。もちろん、先手は次に６八歩成で取り返せるから、大谷先輩のうっかり、というわけではない。以下、６二金、２六馬、６八歩成、７七角成、同龍、６八銀。

　（※図は早乙女さんの脳内イメージです。）

　これで、受け潰せているのではないかしら。

　後手はまとめるのが難しい。

　分岐②は、８五香。これはちょっと捻った手で、罠に近い。８四歩ならハマる。以下、５三馬、６二金、２六馬、６八歩成、７五桂。

　（※図は早乙女さんの脳内イメージです。）

　８八龍行と入られる心配がないから、６八歩成を放置できる。

　この時点で、先手優勢。＋１０００超え。ただし、後手が最善を指さなかった場合だ。８五香に８四歩と打たなければ、後手は耐えている。そのときの評価値は、単に５三馬よりも、先手が低い。

　ようするに、８五香に８四歩なら、先手優勢。

　単に同龍なら、＋３００くらい。

　西野辺（にしのべ）先輩あたりなら、一発狙いで８五香も、ありそう。

　第一感の同龍と取られても、べつに逆転するわけじゃない。

　だけど、私はこういう戦術に興味がない。

「５三馬」

　大谷先輩はかるくうなずいて、６二金。

　２六馬、６八歩成、７七角成、同龍、６八銀、７六龍、３六馬。

　馬が攻めに復帰した。

　大谷先輩は、このままだと持ちこたえられない、と判断したらしい。

　同龍と切ってきた。同歩。

　大谷先輩は２八角と打ち込んだ。

　攻防に利かせてきた。

　ここも分岐が多い。６三歩、５四桂あたりが本命で、あって６七香かしら。

　６三歩、同金は７五桂の両取りだから、当然に５二金──でもない。５六桂、同歩、６六角で、桂馬を抜いたほうがいいわね。だとすると、６三歩に同金なら、６六香と打つくらい。だけど後手は、この順を選ぶかしら。桂馬を抜けたとしても、生角では受けになっていない。

　５四桂は５二金と寄られたあと、どのみち６三歩。

　なら６三歩のほうが、直線的に読めそう。

　６三歩、５二金、２一飛、３一歩、２四飛成。

　（※図は早乙女さんの脳内イメージです。）

　この局面は、罠が多い。

　まず、１五角は後手がダメ。同龍と切って先手優勢。

　１九角成も罠で、８四歩と打って先手優勢。

　この局面の狙いは、角に当てつつ、８筋からの寄せを見ていること──なのだけれど、後手からはうまい返しがある。４四桂だ。２八龍に３六桂と跳ねた手が、王手龍取り。これで駒損がなくなるうえに、先手もやや危なくなる。

　となれば、２一飛よりも１二飛。

　ただ、１二飛は後手に一手余裕ができるから、おそらく８九龍と入られる。

　いったん攻めさせるかどうか。

「……６三歩」

　５二金に、１二飛。こちらに打つ。

　８九龍、７九歩、６二歩、６七香、６三歩、７五桂。

　ここで後手が１分将棋に。

　ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

　パシリ

　再度攻防。おそらく最善。

　飛車の成り場所がむずかしい。

　３二、１一、２二、どれも悪くない。

　ただ、若干３二のほうに数値が傾く。

　そのあとは……大谷先輩の性格次第ね。

　候補はふたつ。６七角成か、７二金。

　６七角成は攻めの手。７四歩は受けの手。

　対局相手の性格は、評価値の枠外。考慮不要。

　私は私の能力を信じる。

「３二飛成」

　大谷先輩は、この手に眼光を鋭くした。

　攻め合いに持ち込める、と思ったのかしら。

　気合いは無意味です。

　盤上にあるのは、数学的真理のみ。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！　パシリ

　切ってきた。

　私は同銀と取って、６四角成に６六銀とさらに立った。

　桂馬を支える。

　大谷先輩は７四歩としかけて、手を引っ込めた。

　それもそんなに悪くないですよ、先輩。

　というより、なにを指しても先手がいい状態になりました。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

　３一香が打たれた。

　複数ある敗勢のなかでは、最善。

　４一龍、５一金打、同龍と切る。

　同金、５五銀打、５三馬、４五角、５六歩、６三桂成。

　詰めろ。

　大谷先輩は同馬と取った。

　同角成、５二金。

　私は最後の寄せを練る。

　ピッ

　１分将棋に。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

「６四歩」

　先手に選択肢を与える。

　馬を取るか、それとも攻めるか。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

　５七歩成。

　攻めてきた。切らせば勝ちの流れ。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

　同銀、５六歩、６八銀、６二歩、４五馬、８三歩。

　……………………

　……………………

　…………………

　………………あら、変ね。

　私は目を閉じた──評価値の上がり方が、ゆるやかになっている。

　すぐに＋２０００を超えると思ったら、そうはならなかった。

　この先も、しばらく上がらないような……ちょっとまずい。

　このパターンは、すこし困る。どの手でもいいように見えてくるからだ。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

「５四角」

　本局で、初めて迷ってしまった。

　７二桂、６三金、同歩、同歩成、同金、同角成、６二歩、５四馬引。

　また上がらなくなってきた。

　読みのノードをひとつ深くしてみる──変わらない。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！　パシリ

　４四歩が指された。

　同銀なら４二桂で追加するつもりね。

　私は同馬寄。

　３四金、同馬上、同香、６三歩、４三歩、３四馬、２八角。

　……………………

　……………………

　…………………

　………………！

　見えた。このまま指せば、９手先で＋３０００を超える。

　長いトンネルを抜けた。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

「３七銀」

　角を無効化して、終局へ。

　１九角成、５一金、６三歩、４三馬。

　詰めろ。

　８二玉、６一馬、９四歩。

　上へ逃げるつもりね。

　７一銀、９三玉、７二馬。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

「７四香」

「その打球は通しません。７六桂」

　同香なら７五金で完封。

　受けるスペースもない。９回の裏、ゲームセット。

　大谷先輩は水を飲み、駒をそろえた。

　ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ！

「参りました」

「ありがとうございました」

　１５９手で、先手の勝ち。そこそこの長手数だったけど、９０手を過ぎたあたりから、ほぼ先手ペースだったわね。水平線の落とし穴もなかったし、助かった。

　大谷先輩は、しばらく押し黙ったあと、

「もうしわけありませんが、感想戦はのちほど……」

　とことわった。

「もちろん、かまいません」

　おたがいに一礼して、席を立つ。

　廊下に出ると、犬井（いぬい）先輩と葉山（はやま）先輩がいた。

　インタビュー……ってわけでも、ないみたい。

　そのまま控え室、いえ、自室へもどりましょう。

　階段を下りていたら、伊代（いよ）さんと遭遇。

「あ、勝ったんですか？」

「ええ」

「とちゅうから勝勢っぽかったので、まあそうかな、と」

　つまり、とちゅうから観てなかったわけね。

　べつに気にはしない。

　私はうしろ髪を撫でながら、

「プレーオフで大盤解説付きだったけど、盛り上がりに欠けたかしら」

　と返した。

「棋譜の完成度と外野のお祭りは、別物ですからねえ。大谷先輩が横歩を受けたときは、けっこう盛り上がってたんですが」

「あら、伊代さんも、たまには正しいことを言うのね」

「私がいっつも間違ってるみたいじゃないですかッ！」

　そう怒らなくても、いいでしょう。

　真理は真理。

「お気持ちで将棋の勝敗は変わらない、ってことよね」

「あれ、温田（おんだ）先輩との対局、カァプ選手の故障で動揺負けじゃなかったでしたっけ？」

「……それとこれとは別問題よ」