511手目 紅茶の香り
※ここからは、香子ちゃん視点です。女子第15局開始時点にもどります。
さーて、3日目最後の一局。
はりきって解説、と言いたいところだけど、もうへとへと。
となりに座っているのは、一之宮さん。
一周して初日第1局のメンバーにもどった。
「裏見さん、よろしくお願い致します」
「よろしく」
一之宮さんのとなりには、執事のセバスチャンさんが立っていた。
紅茶セットをクラシックワゴンに乗せて、ティーポットを手にしていた。
「裏見様も、いかがですか?」
「ありがとうございます」
セバスチャンさんは、温かい紅茶を一杯入れてくれた。
お礼を言ってから、ひとくち飲む──ふぅ、生き返る。
エアコンが効いてて、温かいもののほうがかえってほっこりする。
セバスチャンさんは、ワゴンを押してとなりのテーブルへ。
どうやら差し入れをして回るらしい。
一之宮さんは、
「さて、どの対局になさいますか?」
とたずねた。
「磯前vs剣でいい?」
「かしこまりました」
なんだかんだで、もう担当が決まっちゃってる感じはあるのよね。
ほかの対局を観ようとすると、バッティングすることが多かった。
それに磯前vs剣は、ラインギリギリ同士の対決。
3番手グループの剣さんは、負けたらかなり厳しそう。
磯前さんだって、負けたら第2グループから落ちる。
観ておいて損はない。
私は紅茶を飲み飲み、歓談をしながら待った。
K戸の思い出話とか、一之宮さんが最近育ててる花とか、いろいろ。
「庭仕事もつかれますが、座り仕事もやはりつかれますね」
ですね。
走ったりするのとは、また別の疲労がある。
《まもなく始まります》
了解。
ピポ
7六歩、8四歩、2六歩、8五歩、7七角、3二金、2五歩。
【先手:剣桃子(O山県) 後手:磯前好江(K知県)】
一之宮さんは、
「角換わり模様です。後手から形を決めさせました」
とコメントした。
「一手損にしなかったのは、磯前さんになにか準備があるんでしょうね」
「だとすれば楽しみです」
3四歩、6八銀、3三角、同角成、同金。
ん? これは?
私が首をかしげていると、一之宮さんは、
「最近試されている3三金型ですね」
と解説した。
むむッ、受験勉強でフォローできてない。
知ったかぶりしてもしょうがないし、ここは素直にたずねる。
「どういう作戦?」
「このまま囲わずに6二銀~7四歩~7三銀~6四銀の早繰り銀です」
【参考図】
なるほど、普通なら2二銀~3三銀だけど、これなら一手早いのか。
一之宮さんは、
「もちろん防御に難があるので、プロでもまだ検討段階の作戦だと思います」
と付け加えた。
ってことは、明らかに研究。
剣さんもすこし考えている。
パシリ
7七銀。
以下、6二銀、7八金、7四歩、4八銀、7三銀、4六歩、6四銀。
一之宮さんの解説通りになった。
私はタブレットをポチポチしながら、
「即座に7五歩は、流れ弾が怖いわね」
とつぶやいた。
「はい、9四歩くらいは入れたいところです」
「そのあと7五歩、同歩、同銀……先手は2四歩で反撃もアリか……」
一歩持ってるから、2四同歩、2五歩の継ぎ歩ができる。
磯前さんは研究してきただけあって、決断が早かった。
4七銀、9四歩、1六歩、7五歩、同歩、同銀。
剣さんは2四歩。
「先手もけっこうノータイム指しかな……」
「剣さんも、序盤は多少お調べになっていると思います」
しばらく研究勝負になるかも。
2四同歩、2五歩、8六歩、同歩、同銀、同銀、同飛、8八歩。
私はこの手を見て、
「8七歩なら8二飛、7四角みたいな展開だと思ったけど、本譜は後手から7七歩があるんじゃないかしら。7七歩、同桂、7六歩とか。7七歩に同金は、いったん8二飛と引いておけば、先手が愚形よね」
とコメントした。
「本譜でも、単に8二飛と引く手はありそうです」
磯前さん的には、前へ行くんじゃないかなあ。
この予想は当たった。
7七歩、同桂、7六歩、6五桂。
先手も前に出た。
磯前さんは9五角。次に開き王手が生じる。
このかたちで出やすい流れ弾だ。
剣さんは4八玉で、居玉を解消した。
7七歩成、9六歩、7八と、9五歩。
うわッ、すっごい取り合いになった。
一之宮さんもさすがに驚いて、
「形勢が傾いていそうな局面ですが……」
と言葉をにごした。
「飛車を成り込めそうだし、後手のほうがよさそう?」
「わたくしは先手持ちです。8八飛成に9七角、9九龍、5三角成があります」
そっか、いきなり突っ込めるのか。
後手は居玉だ。5三にプレッシャーがかかると、相当危ない。
2四歩の取り込みもある。取り込まれれば挟撃だ。
磯前さんも、飛車成りに慎重だった。小考している。
ここまでは研究範囲? それとももう外れてる?
パシリ
8八飛成。
剣さんはノータイムで9七角と打った。
9九龍、5三角成、4二金。
がっつり受けた。
「後手玉は、すぐに寄るわけじゃなさそう」
「4二香と節約したならば、明確に先手優勢でした。4二金なら互角です」
剣さんは6三馬と寄った。
これには当然の6二香。馬と桂馬の串刺し。
8一馬、6五香。
私はすこし考えて、
「ここは悩ましいわね」
とつぶやいた。
「候補手の多い局面です。8三角、7四角、6四桂、5四桂あたりでしょうか。すこしひねるなら、3五桂の先受けで3六歩もありえます」
5択はさすがにキツイ。
「受けないほうがよくない?」
「実戦的には受けにくいと思います。後手次第になってきますので」
8三角は詰めろでもなんでもないから、後手は3五桂と打ってきそう。
7四角は次に5四桂が入れば有力。問題は打たせてくれるかどうか。
6四桂はちょっとぼやけてるかな、という印象。7二桂成狙いだろうけど。
5四桂はより直接的で、金を狙う手。逃げるヒマはないでしょ、と。
「……ごめん、受けたほうがいいかも」
「攻めはどれもはっきりしない印象です」
ただなぁ、剣さんは攻める気がするのよね。
棋風っていうもんがあるし、私が先手でも受けないと思う。
剣さんは3分の長考で、ついに決断した。
んー、攻めた。しかも一番露骨な手。
一之宮さんは、
「読みの枝を刈ったのかもしれません」
とコメント。
そうかもしれない。ようするに、読むパターンを減らしたわけだ。
5四桂は一直線に読みやすい手だと思う。
大きな大会とはいえ、30分60秒。膨大な手順は読めない。
磯前さんは3分の長考返しで、3五桂と打った。
「3五桂以外にあった?」
「6八と、くらいでしょうか。あまりよい手とも思えませんが」
となると、磯前さんの長考の中身は、もっと先ね。
剣さんもこの手は見えているから、すぐに3六銀と上がった。
ノータイムで次の手が飛ぶ。
こ、これは──
「突っ込んだわね」
「通るのでしょうか? 即寄りはなさそうですが……」
「同銀でも寄らない?」
私たちは検討を始めた。
同銀、同桂成、同玉、4九龍は、5六玉と抜けられる。
この瞬間は、かえって後手に厳しい。
というのも、6五の香車と7八のと金、この両方が当たりになっているからだ。
「5六玉に5三銀は、どう?」
「それは先手も受けるしかなさそうです。5五銀でしょうか」
「そこで6四歩と打てば、香車は助かるわね。先手は7八飛……はできないのか。8九龍が飛車馬両取りになっちゃう。一回4二桂成くらいかしら」
ふたりであれこれ読んだ結果、先手玉は思ったより寄らないけど、それほど安全でもない、ということになった。
剣さんも盤をじっとにらんでいる。
ときどき刀の束に手をあてていた。
凶器の使用禁止。
「……3九玉もありますか」
一之宮さんは、王様を引く手を指摘した。
【参考図】
「危なくない?」
「いろいろ読んでみたのですが、上に逃げると包囲される可能性も」
うーん、たしかに5六玉は立往生しそうなのよね。
でも3九玉は、下手すると即寄りがあるような。
私も読みを入れてみた。
「龍を切っても寄らない……か」
「6八とと寄せていくしかないと思います。もし後手玉のほうが危ないとなれば、先に5三歩などで受けるかもしれません」
相当むずかしい局面になっている。
剣さんが迷うのもわかった。
私はちょっと冷えた紅茶を飲んだ。甘い香りがあたりにただよった。
その香りの中で、次の一手が指された。




