494手目 首位への挑戦
※ここからは、捨神くん視点です。男子第12局開始時点にもどります。萩尾vs大谷戦はいったん中断になります。
さて……始めようか。
僕はパンと手をはたいて──ふだんは決してしない動作だけど──席についた。
目のまえにはスーツを着た少年、囃子原礼音くんがいた。
有名なお店のオーダーメイドだね。さすがに生地のクオリティでわかるよ。
囃子原くんはほんとうに気品のある姿で、僕をまっすぐに見つめて言った。
「この対局、待ち侘びていたよ」
「アハッ、お手柔らかにね」
僕はそう言ってから、左手で「どうぞ」のポーズ。
振り駒をお願いした。
囃子原くんは、
「ゆずり返すのが礼儀……だが、今回は振らせてもらおう」
と言って、歩を集めた。
結果は──表が2枚。僕の先手だ。
そのあとの会話は、もうなかった。ただ時間が過ぎるのを待つ。
《……対局準備はよろしいでしょうか?》
アナウンスが入った。
《では、始めてください》
「よろしくお願いします」
囃子原くんがチェスクロを押して、僕は7六歩と突いた。
8四歩、6八飛、8五歩、7七角、6二銀。
ん? 角交換させない方針かな?
なにか用意されてるっぽい。用心。
1六歩、1四歩、4八玉、4二玉、3八玉、5二金右、7八銀、3二銀。
ほんとうに角交換させない方針みたいだね。
これは普通に応じたほうがよさそうだ。
6六歩、3四歩、6七銀、5四歩、2八玉、7四歩。
ちょっと変則的だけど、いわゆる対抗形。
でも雰囲気が不穏だ。
なにかしてきそうな気配がある。
僕は慎重に駒組みを進めた。
5八金左、3一玉、3八銀、5三銀。
僕はここで一瞬迷った。
右銀急戦っぽい? 僕の勘はそう言っている。
「……5六歩」
「なにをそんなに警戒しているのだね。3三角だ」
このかたちだけ見たら、銀冠が最有力。
だけど僕の直感は右銀急戦だ。
僕は10秒ほど考えて、勘を信じることにした。
「4六歩」
囃子原くんは5三の銀に指をそえて、スッと上がった。
6四銀──ほんとうに右銀急戦なのか。
とりあえず手順で7八飛。このかたちの定跡だね。
2二玉に4五歩。
ここはプレッシャーをかける。
すると囃子原くんはあっさり5三銀。
右銀急戦を解除。3六歩に4四歩で、いきなり仕掛けてきた。
「過激だね」
「4五歩がこの攻めを誘発したとは考えないのかね?」
「4五歩を誘発したのは6四銀じゃないかな……3七桂」
2四角、4七金、4五歩、6五歩、3三角。
角交換を挑まれた。
5五歩でいったんせき止める。
囃子原くんは8六歩、同歩を入れてから5五角と飛び出した。
同角、同歩、5四歩、同銀。
「7一角ッ!」
先着。とはいえ、これがあいての見落としなわけもない。
囃子原くんは8六飛と浮いてきた。これは止めようとしても無意味だ。
桂馬を助けるかどうかだよね。
助けたいのはやまやまだけど、7七桂、4三金とされたら、7一角の意味がない。
「4四角成」
ここに馬を作るのが先決だ。
3三角、5四馬、4三金、4五馬、8九飛成。
これで銀桂交換。
僕は4八飛と逃げた。囃子原くんは9九龍で香車も回収する。
……どうかな、互角の分かれだと思うんだけど。
僕はこのあとの構想になやんでいた。
2五桂は効きそうなんだよね。でも角を取れないと思うんだ。
例えば2五桂に4四角と上がられたら、もちろん取れないし、逃げずに6九龍と入られても取れないと思う。そこで3三桂成、同桂、6三馬、6七龍は先手が悪い。
だから2五桂に4四角だろうと6九龍だろうと、6三馬~5四歩と垂らす方針じゃないと厳しい。そのあいだに先手が崩壊したらシャレにならないから、6九龍にはがっちりと受けたほうがよさそうだね。
いずれにせよ、後手は桂香を回収している。僕も悠長にはしていられない。
「2五桂」
囃子原くんは30秒ほど考えて、6九龍と入った。
僕は5八銀打。一番手堅く受けた。
「7九龍だ。さあ、どうする?」
そうなんだよね、どうしよう。
一目3三桂成としたい。でも同桂、6三馬、4六歩、同金と釣り上げられたとき、3三の桂馬が拠点になってしまっている。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
次に4五歩~4六香と構築されたら、先手が悪そうだ。
だとしたら3三の角は放置するほうがマシか。
僕はひととおり確認してから、単に6三馬と入った。
囃子原くんもすかさず2四角と出てくる。
「5四歩」
ここでと金づくりに着手。
このために5八銀打で固めた。
「さすがにそれは受けよう。5二香」
うーん、5三歩成は許してくれないね。
でもこれで4六香とされる心配もなくなった。
僕は4四歩と打って、5四金、8一馬、4四金、7一馬、4三金と組み替えさせた。
「4四桂」
ちょっと弱いけど、両取り。
囃子原くんはそのわきに5四桂と置いた。
3七金で飛車筋を通す。だけどこれは4七歩で止められた。
同銀左。
ここで囃子原くんは長考を始めた。
攻めてきそうだ。残り時間は僕が12分、囃子原くんが13分。
攻めてくるとしたら4六歩……いや、そこをほぐしても意味ないか。
むしろ5七角成と単純に入ったほうがいい。
以下、3二桂成、同金、5八銀左、4八馬、同金かな。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
これはどうだろう……まだ互角にみえる。
ほかにも手があるかな? ……あるね。端攻め。
現局面から1五歩、同歩、1六歩の垂らし。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
僕の王様が窮屈だとみれば、こっちのほうがありそう。
ただ端が破れるかというと……いずれにせよ、1六同香に5七角成っぽい。
僕が読んでいると、囃子原くんが動いた。
「捨神くんのことだ、これは読んでいるだろう。1五歩」
端歩だった。
僕はもういちど読みなおして、さっきの順を選択する。
同歩、1六歩、同香、5七角成。
よし、ここで1四歩。
僕は攻めに出た。まだまだ互角だと思う。
とにかく前に出ないと後手玉は捕まらない。
囃子原くんは1五歩、同香、1七歩で、さらに歩を垂らしてきた。
後手の持ち歩が多いんだよね。
ここは囲いなおそう。
「2九銀」
これを見た囃子原くんは、冷たくほほえんだ。
「ふむ……なかなかおもしろい手だ」
そのまま6七馬なら、3八銀引とする。
このかたちはそう簡単に崩れないはず。
「どう対応するか、僕のセンスが問われているようだな……1八歩成」
そっちか……十中八九6七馬だと思ったんだけど。
端を破れる自信があるのかな。わからない。
同銀に2四歩──桂馬を殺しにきた。
そうか、端には味付けしただけで、僕に攻めを催促しているんだ。
切れたら先手陣は分厚い棺桶でしかない。
僕はゾッとすると同時に、どこかホッとした気持ちでもあった。
意図が読めないことほど不気味なことはない。
音楽でもそうだ。でたらめな音の羅列を人間は受けつけない。
だけど今はクリアになった。僕は攻めに専念すればいい。
「受けて立つよ。3二桂成」
囃子原くんは前髪を軽くなおした。
目を閉じて、なんだか楽しそうにしている。
「最善の手順でうれしく思う。同金だ」
1三桂成、同桂、同歩成、同香、同香成、同玉。
後手玉が露出した。
ここでどう仕留めるか──候補手は3つ。
1四歩と叩くのは一目あり。10秒将棋なら無意識に打ちそうだ。
1七香もあると思う。1六歩、同香、1五歩、同香、1四歩、同香、同玉で歩を使い切らせてから、2六金と出る。ただこの手順、1五歩に手抜いて4四桂のほうが良さげなんだよね。
4四になにか打つ……これも考えられる。4四歩か4四桂。これは1六桂の反撃がすこし怖い。1七玉、2五桂、2六玉と出たかたちがどうか。
残り時間は7分。僕は長考に沈んだ。




