472手目 目覚めのキス
ネクタイを締めて……っと。うまくできました。
客室の鏡で最後のチェック。おかしいところはありませんね。
愛甲の制服はネイビーのブレザーに、ライトブルーのストライプネクタイです。
すごく地味です。
僕は部屋に忘れ物がないか確認して、廊下へ。
「あ、ダーリン、おはようなの~」
いきなりみかんちゃんとばったり。
「お、おはよう」
「どうしたの~? みかんに会えて嬉しくないの~?」
もちろん嬉しいです──けど、心の切り替えが。
みかんちゃんはそれを見透かしたように、
「あ、ダーリン、本気モードだったの~? ごめんなの~」
と照れ笑いしました。
「だいじょうぶだよ」
「これ、みかんからのエールなの~」
ほっぺたにチュッ。朝から恥ずかしいです。
「みかんちゃんもがんばってね」
「ふたりとも今日で決勝トーナメント進出決めちゃうの~」
それができればいいんですが、さて。
とりあえずエレベーターで20階へ。
降りてすこし進むと、吉良先輩が廊下に立っていました。
吉良先輩はポケットに手をつっこんで、H島の街並みを眺めていました。
ぶかぶかの黒いズボンに白いTシャツ。胸元に炎のかたちのロゴが入っていました。
オールバックもばっちりキマってて、あいかわらずかっこいいです。
ここは通り過ぎたほうがいいですかね……いえ、あいさつしましょう。
「おはようございます」
「ん……ああ、烈か、おはようさん」
「なにか面白いものでも見えますか?」
「いや、単に見晴らしがいいな、と思っただけだ」
なんとなくですが……会場で座って待つのを避けている気がします。
野暮なのでつっこみませんけど。
僕も壁面ガラスから街並みを見下ろしました。
豆粒より小さなビジネスパーソンが、横断歩道を渡っています。
「そういえば、今日は月曜日でしたね」
「ああ、みんな日常してるんだよな」
その言い方には、なんだか含みがあるように感じられました。
「そうですね……こんなホテルで将棋を指すのは非日常的というか……」
「だろ。4日もかけて決着をつけるなんて、プロでもやってないぜ? ダンスの世界でもない。俺は全国大会で優勝したわけじゃないのに、この場にいられる。なんだか実感が湧かない気がしてきてな……すまん、変な話をした」
いえ、勉強になります。
僕はそのまま先に会場入りしました。
対局席の表を確認。9番テーブルです。
僕が席へ向かうと、捨神先輩は先に座って待っていました。
いつものラフなかっこうで、白いTシャツにグレーのズボン。
白髪がシャンデリアの明かりに輝いていました。
「おはようございます」
「アハッ、おはよう」
着席──盤駒の準備は終わっています。
「先輩、振り駒を」
「石鉄くんでいいよ」
「いえ、どうぞ」
捨神先輩はその細くて長い指で、歩を集めました。
かるくシャッフルして盤上にぱらり。
「歩が3枚、僕の先手だね」
後手を引きました──ひとまず深呼吸。
開始までまだ時間がありますね。なにか話しましょうか。
……………………
……………………
…………………
………………いえ、無粋ですね。
先輩への宣戦布告は昨日の時点で済ませました。
あとは待つだけです。
僕はペットボトルの位置をなおして、それから姿勢を正しました。
刻々と時間だけが過ぎていきます。
選手もどんどん姿をあらわして、最後に梨元先輩があくびをしながら入場。
時計の針が8時59分を指しました。
《間もなく定刻になります。対局準備はよろしいでしょうか?》
緊張してきました。平常心、平常心。
《では、始めてください》
「よろしくお願いします」
おたがいに一礼。
7六歩、3四歩、7七角、4二玉、6八銀、6二銀、5六歩。
中飛車の含みを見せましたね。
これは本命じゃなかったです。けど、まっすぐ対応します。
7七角成、同銀、3二玉、8八飛、5四歩、6六銀。
角交換型振り飛車。捨神先輩の十八番になりました。
僕はここで小考。全体の方針を決めます。
「……5三銀」
捨神先輩はこの手をみて、すこしばかり思案しました。
おそらくバレましたね、僕の穴熊が。
かたちによっては穴熊にすると、対局前から決めてありました。
「……4八玉」
4四銀、3八玉、2二玉、2八玉、1二香、8六歩、8四歩。
問題は捨神先輩が穴熊にするかどうかです。
相穴も視野には入れてありますが──
パシリ
美濃ですか。ではこのまま潜りましょう。
1一玉、7五歩、2二銀、1六歩。
7五の突きが早かったので、僕の穴熊を咎めるつもりっぽいです。
そうはさせません。
1四歩、7七桂、3一金、5八金左。
捨神先輩、すごく積極的ですね。4四銀で支えきれればいいんですが。
今さら5三銀ともどるのは指しにくいです。
僕は1分ほど読んで、3五歩と突きました。
捨神先輩はこめかみに指をそえて、
「3五歩……か」
と符号を口ずさみました。
おたがいに変則的なかたちです。
僕の3五歩は、右辺の展開が遅いことのフォロー。
7筋と8筋は放棄する作戦です。つまり──
5七金、5一金、4六歩。
「5二飛です」
これです。7筋と8筋を放棄して、穴熊に囲ったメリットを最大限に活かします。
捨神先輩はうっすらとほほえみました。
「いいね、せっかくだから派手に始めようか。4七金」
はい、僕もそう思っていました。
手が伸びなくて駄局になることだけは避けます。
それは先輩にも観戦者にも失礼ですよね。
「5五歩です」
38手目にして開戦。
まだおたがいに5分も使っていません。
どんどんいきますよ。
4五歩、同銀、5五歩、3六歩、同歩、3五歩。
一気に玉頭が激しくなりました。
同歩なら7九角で馬を作ります。
捨神先輩は長考。飛車の逃げ場所は4八でしょうか。
馬を作ったあと、すぐに良くする順はないんですよね。
気になるのは2六角ですぐさま消しにくる手です。
以下、同馬、同歩、8三角で4筋に狙いを定めたくなります。
あ、捨神先輩が動きます。
3五同歩。
僕はノータイムで7九角の打ち込み。
4八飛、3五角成──捨神先輩は3七歩と打ちました。
すこし落ち着いた手です。
4六歩、3四銀と押しもどしてから、5四歩と伸ばす狙いでしょうか。
これを同飛は7二角の打ち込みが発生します。
それとも7二角はすこしぼやけていますか? この判断も微妙です。
こちらは5筋が弱いですからね。
僕は7四歩で桂跳ねの余地を作りました。同歩なら7六歩なので取れないはず。
4六歩、3四銀、5八飛。
そっちですか……読みが合わなくなってきました。
とはいえ5筋に攻め駒を追加したのは合理的です。
次こそ5四歩の伸ばしは確実。
これをどう受けるか……7五歩は間に合っていませんね。
僕は1分ほど考えて、4四馬と引きました。
次に5四歩なら同馬で取り切ります──あ、そうしてきました。
僕の同馬に、捨神先輩は8二角。
なるほど……読んではいました……が、取らないです。
飛車が8筋に戻ったら攻め切れません。
と言ってもその代わりにどうするか、これが問題です。
パッと思いつくのは──
(※図は石鉄くんの脳内イメージです。)
これです。6七の空いてる地点を狙います。
先手から5二飛成は同金でなんともありません。
飛車打ちで7二飛と当ててきても、手順で4二金寄と逃げられますからね。
だから先手は9一角成。行きがかり上、こうするしかありません。
そこで5八飛成、同金、7九飛と打ち込むのはどうでしょうか。
7六の馬が一瞬ぼやけますが、先手のほうがかたちは悪いです。
僕はのこり時間を確認。
僕が18分、先輩が17分。まだまだハイペース。
「7六馬です」
捨神先輩はこの手をみて、パチリと指をはじきました。
周囲の何人かがこちらをちらり。
先輩はそんな視線も気にせず、うっすらと笑みを浮かべました。
「じゃ、本気で殴り合おうか。9一角成」




