467手目 端へのダイブ
※ここからは、萩尾さん視点です。
パシリ
そっちか……ボクはお茶を飲んでひと呼吸おく。
指しやすいとは思う。2五の銀が遊んでいること以外は。
1分ほど読んで、予定通り6四銀と出た。
7七桂のほうが安全そうだけど、このまま潰すのが最短とみた。
そもそも時間があまりない。
ここまでの長考合戦で、おたがいの持ち時間は10分を切っている。
桐野先輩は6五歩。
ボクはそのまま6三銀成と突っ込んだ。
6六歩、5七金寄、2二飛。
そうきますか──すこし背筋を伸ばす。
これは5三角成を許容した手だ。桐野先輩だから、うっかりということはない。
となるとしばらくは受ける予定なわけだね。
先手の懸念材料は、角成りからの攻めが2枚だってこと。
3枚の攻めは切れないけど、2枚は切れる。
飛車の横利きもついているから、突破は容易じゃない。
ボクは攻めの手順を組み立てる。
それにつれて、2二飛の意味もだんだんと見当がついてきた。
これはどこかで2三飛と浮いてくる予定だな。
「……」
「うにゅ~」
桐野先輩の動きからして、自信がなさそうなのは事実。
盛り返されないうちに決めよう。
「5三角成」
5二銀、6二歩、同金、同成銀、同銀、3一馬、2三飛。
「7五金」
すこしトリッキーな使い方だけど、これで押す。
同金、同歩、7三角、6四歩。
「と金さん作られると負けなのですぅ~」
ボクもそれを狙ってます。
と金+2枚で3枚の攻めに変える。
桐野先輩は4一金と打った。
同馬、同銀でサクッと交換して、7四金と打ち込む。
これで7筋の拠点は確保した。
8二角に3四銀で、死んでいた銀を復活させる。
5三飛、6三金打。
「飛車さんを逃げるヒマがないのですぅ。攻めまぁす」
桐野先輩は7七歩と打った。
これは……厳しいな。
同金なら3九角、同玉でも7六歩、7八玉で拠点ができてしまう。
3九角に5八飛は6七銀でかえってマズくなる。
「やはりギリギリですか……同金」
3九角に5三金で飛車を回収。
5七角成、8六飛。
これに賭ける。詰めろ。
「先手も危ないはずなのですぅ。7三金ですぅ」
6二金、7四金、同歩。
「7九ぎぃん」
んー、詰めろ。ボクは6六金で詰めろを解除する。
「6四角ぅ」
と金作りの道は遠いな。
ボクは7三歩成とする。
これも詰めろだけど──どう解除してくるか。
一番イヤなのは7七歩だ。
同桂は頓死するから同玉。
以下、7六歩、同玉、7五金、同金、同馬、6七玉に7三角と手をもどされる。
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
こうなると厄介。
でもこっちの2八飛だって守りに利いている。
頭金からすぐに寄るわけじゃない。
ここで7一銀は詰めろじゃないんだよね。
7二銀は詰めろ。8六馬で飛車を抜いてくるなら先手がいい。
例えば7二銀、8六馬、8一銀不成、同玉、7二金打、9二玉、8六歩。
この瞬間に8二金と受けてもムダだ──けど、7二銀の時点で8二金と受けられるのが面倒。これまでの長考で、このあたりは読んであった。
……………………
……………………
…………………
………………いっそ8三飛成と切る?
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
同玉に7二銀だと、どうだろう。
8四玉なら8三金と打つ。そこで9四玉や8五玉とは逃げられないはずだ。9四玉は9五金、同角、同歩、8五玉、9六角、9五玉、6三角成の開き王手で、9七に打つ合駒が金と飛車しかないから詰む(9七金、同香、同馬、8五金、9六玉、8六金でまた開き王手になって詰み)。8三金に8五玉は7七桂が王手になる。9四玉と引けばさっきの順になるし、7四玉と引けば7三金以下で詰み。同桂は8三角、6四玉、6三金と追っかけ、同玉は即座に6三金でいい。
3四の銀が詰みに効いてきてるね。いい感じだ。
8三金に7四玉も、7三金、同玉、6三金、7四玉、8三角、8四玉、9五金まで。
8三飛成に同玉、7二銀、7四玉なら、6三銀不成、8四玉、7四金、同馬、同銀成、同玉、7八飛の王手銀取りがある。
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
この筋は意識しておいたほうがよさそうだ。
最悪、自玉を安全にできるから。
ここまで考えたとき、桐野先輩は7七歩と打ってきた。
ボクはのこり3分しかない。必然のところまでノータイムで進める。
同玉、7六歩、同玉、7五金、同金、同馬、6七玉。
「7三角ぅ」
決断のタイミング。
7二銀で安全策をとるか、それとも8三飛成でキメに出るか。
ボクは持ち時間3分のうち、1分半で前者を、もう1分半で後者を掘り下げた。
ピッ
1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ボクは8三飛成を決断した。
桐野先輩はここで最後の長考。
これを利用してボクも読み進める。
ピッ
桐野先輩も1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
桐野先輩は同玉。
ボクは7二銀と打つ。
ここで桐野先輩はまた考え込んだ。
ボクは7四玉、7八飛の銀抜きを中心に読む。
……………………
……………………
…………………
………………ん?
待てよ。これ9四玉だとどうなるんだ?
9五歩、8四玉、8三金で、似たようなかたちにはなる。
でも9五金と打つ余地がない。
以下、7四玉、7三金、同玉、6三金、7四玉、8三角、8四玉。
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
……詰まないッ!
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「もうよくわかんないのですぅ、9四玉ですぅ」
ボクは背筋を伸ばした。
正着を指された──いや、待て、ほんとうに詰まないのか?
あからさまに危ないエリアだ。
それにこの順でも王手銀取りは残っている。
まずほんとうに寄らないのかを確認する。
15秒ほどで結論は出た。寄らない。
そこからは7八飛の銀取りの順を読む。後手の合駒が問題だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ボクは9五歩と突いた。
8四玉、8三金、7四玉、7三金、同玉。
毎回59秒まで考える。桐野先輩はノータイム指し。時間攻め。
6三金、7四玉、8三角、8四玉、7四金、同馬、同角成、同玉。
双玉詰め将棋に近い合駒問題。
まず7五歩、同飛は詰まない。そのあとがかなり難解だから後回し。
7五金の合駒は後手の負けだ。銀を抜かずに同飛、同玉、5三角以下で詰む。
飛合いも同様。
角合いはどうだ? これが一番問題だ。同飛、同玉、5三角でギリギリ詰まないようにみえる。そこで7九飛は6六金から打ってこちらが詰まされてしまう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ボクは7八飛とスライドさせた。
7五角の対応に苦心する。
同飛でいいなら勝ちなんだけど──ん、もしかして逆から打って詰むか?
7五角合、同飛、同玉、8六角、8四玉、7五角打……詰むッ!
歩合い以外はボクの勝ちだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7五歩ぅ」
さすがに正確な対応。
7九飛と取るまえに、8八角と打たれたときの対応を考える。
これは詰めろ。
だけど7五飛で今度こそ詰むんじゃないか?
7五同玉、5三角、8四玉、7五銀、8五玉、8六銀、8四玉、7五角成……詰む。
5三角に6五玉は6四角成の即詰みだし、7四玉と逃げても同じことだ。
ということはここで8三角と打たないほうがいい。
8三角、8五玉、7九飛は詰めろじゃない。8八角と打たれてしまう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ボクは7九の銀を抜いた。
チェスクロを押す──その瞬間、背中にイヤな感覚が走った。
桐野先輩は上半身をかるく右にかたむけた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6六金ですぅ」
……………………
……………………
…………………
………………
「初黒星が頓死か……負けました」
「ありがとうございましたぁ」
後手玉の寄せに思考がいきすぎた。
ボクはしばらく終盤を反省していた。
ほんとうに頓死か? もともと悪かった?
よくよく考えると、後手がすぐに寄る順はなかったかもしれない。
「桐野先輩、最後の形勢判断はどう考えてました?」
「よくわかんなかったのですぅ。詰まないとは思いましたぁ」
とりあえず詰みの直前までもどす。
【検討図】
ボクは飛車をゆびさして、
「これ、8三角、8四玉でしたね」
と指摘した。
「たぶんそうなのですぅ。そうなると先手は詰みませぇん」
「6五角成で詰めろにはなりますが……」
「3九角が好手っぽいのですぅ。先手は歩しかないので受けられませぇん」
「ですね。となるとそこで7九飛ですか」
【検討図】
「8八角で詰めろ飛車取りをかけまぁす」
「6五角成が詰めろ逃れの詰めろになりません?」
「6六金、同馬、7九角成でもダメですかぁ?」
「それは7五馬、同玉、7六銀以下で詰みます」
「よく考えたら簡単でしたぁ。じゃあ普通に7四金と受けまぁす」
「そういう単純な手で受かるようだと、困りますね。いっそ8八角に8五銀、同玉、7七桂ってします?」
【検討図】
「めっどっちぃのですぅ。これは全然読んでませんでしたぁ」
先手もそんなに悪くないのだろうか。
どうも難解な終盤になってしまったようだ。
指運──いや、実力だな。
「夕食まえの休憩もありますし、このくらいにしますか。ありがとうございました」
「ありがとうございましたぁ」
ボクは席を立ち、インタビューに向かう。
イヤホンをはめると、内木さんの声が聞こえた。
《おつかれさまです。内木レモンです。》
「おつかれさまです」
《残念な結果でしたが、終盤の感触はいかがだったのでしょうか?》
「1分将棋で読み切れないところがありました。8三金に9四玉で寄らないことに気づいたのが、ワンテンポ遅れたかたちです。もうすこしまえに気づいていれば、7八飛の王手銀取りがあまりよくないという結論に至れたと思います。軌道修正用に、1分くらいは残しておいたほうがよかったかもしれません。時間の使い方が甘かったですね」
《なるほど、承知しました……伊吹さん、なにかありますか?》
《夜ノ伊吹でーす。8三飛成のところで、単に7二銀はありませんでしたか?》
「あったと思います。8六馬で飛車を抜くのは、8一銀不成、同玉、7二金打、9二玉、8六歩が詰めろ。そこで8二金と受けても、同金以下で詰みます。先手は詰まないんじゃないでしょうか」
《じゃあ7二銀と打たなかった理由はなんですか?》
「即座に8二金と受けられた局面が、悩ましかったからです。とはいえ本譜も複雑化してしまったので、7二銀は有力でしたね。このあたりはあとで検討します」
《了解でーす》
おたがいにあいさつして、インタビューは終わった。
ボクは大きく背伸びをして、廊下に出る。
待ち構えていたように犬井と出くわした。
葉山さんもいる。
葉山さんはメモ帳を片手に、
「おつかれさま。あたしたちのほうからもインタビュー、いいかな?」
とたずねてきた。
「敗者のコメントでいいなら」
「あ、いや、そういう意味じゃ……」
「冗談冗談。そのようすだと結果は知ってるみたいだね」
よくみると、葉山さんはワイヤレスイヤホンをしていた。
会場から経過報告があるのか。情報化の時代だ。
「で、質問は?」
「まずはここまでの感想を」
「陶芸といっしょで、途中経過を一喜一憂するのはよくないと思う」
「そ、そっか……特に印象に残っている対局は?」
「さっきの負け局……と言いたいところだけど、あれは頓死みたいなものだしなあ。個人的に満足のいった終盤は、みかんちゃん戦かな。すっきり寄せることができたから」
「では、今後の意気込みを」
ボクはすこし言葉に詰まった。
廊下に張られたガラス窓から、H島の街を遠望する。
そこにはいつもと変わらない日常が、淡々と流れていた。
「特別なことはなにも……いや、これはかっこつけすぎか。そうだね、ボクはこれで2番手に後退だ。首位は鬼首さん。でも最後にトップ抜けするのはボク、萩尾萌だよ」
場所:第10回日日杯 2日目 女子の部 10回戦
先手:萩尾 萌
後手:桐野 花
戦型:後手ダイレクト向かい飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △4四角 ▲6八銀 △2二飛
▲5六歩 △2四歩 ▲5七銀 △2五歩 ▲4六銀 △6二玉
▲3八銀 △3三角 ▲3六歩 △3二銀 ▲3七銀上 △4四歩
▲3五歩 △4三銀 ▲3六銀 △7二玉 ▲6八玉 △3五歩
▲同銀左 △3四歩 ▲4六銀 △8二玉 ▲7八玉 △5二金左
▲5八金右 △6四歩 ▲3七桂 △6三金 ▲2五銀 △7四歩
▲2六歩 △7五歩 ▲同 歩 △7二飛 ▲6七金 △7五飛
▲7六歩 △7二飛 ▲6八金上 △7四金 ▲9六歩 △9二玉
▲9七角 △5一角 ▲5五銀 △8四角 ▲6四銀 △6五歩
▲6三銀成 △6六歩 ▲5七金寄 △2二飛 ▲5三角成 △5二銀
▲6二歩 △同 金 ▲同成銀 △同 銀 ▲3一馬 △2三飛
▲7五金 △同 金 ▲同 歩 △7三角 ▲6四歩 △4一金
▲同 馬 △同 銀 ▲7四金 △8二角 ▲3四銀 △5三飛
▲6三金打 △7七歩 ▲同 金 △3九角 ▲5三金 △5七角成
▲8六飛 △7三金 ▲6二金 △7四金 ▲同 歩 △7九銀
▲6六金 △6四角 ▲7三歩成 △7七歩 ▲同 玉 △7六歩
▲同 玉 △7五金 ▲同 金 △同 馬 ▲6七玉 △7三角
▲8三飛成 △同 玉 ▲7二銀 △9四玉 ▲9五歩 △8四玉
▲8三金 △7四玉 ▲7三金 △同 玉 ▲6三金 △7四玉
▲8三角 △8四玉 ▲7四金 △同 馬 ▲同角成 △同 玉
▲7八飛 △7五歩 ▲7九飛 △6六金
まで124手で桐野の勝ち




