462手目 準備万端
※ここからは、香子ちゃん視点です。第9局開始時点にもどります。
ふぅ……よし、充電完了。
私は解説席につく。
右どなりに座っているのは、姫野先輩。
ちょっと気楽にやれそう。
「先輩、おひさしぶりです」
「おひさしぶりです」
うーむ、おとなのオーラを感じる。
大学生だもんね。
とりまヘッドセットを装着。
私はタブレットを起動させながら、
「どこを観ますか?」
とたずねた。
「裏見さんがお嫌でなければ、大谷vs桐野はいかがでしょうか」
「了解です」
私はチャンネルを切り替えた。
あとは対局開始を待つのみ──だけど、まだ時間がある。
ほかのテーブルも雑談をしていた。
「姫野先輩、大学生活はいかがですか?」
「学業も将棋も、日々充実しております」
リア充ですか。うらやましい。
じつは彼氏ができて……いや、それは下世話か。
「大学って高校とはやっぱり違いますか?」
「基礎が大切という点では、あまり変わらないと思います」
うーん、想像がつかない。
「裏見さんは、どちらの大学をご志望で?」
「まだ迷ってるんですが、東京にしようかな、と。八ツ橋か都ノが第一志望です。私立なら晩稲田、治明あたりで、滑り止めが大和になりそうです」
「学部は?」
「経済です」
「わたくしと同じですね」
あ、そうなんだ。
古都大に進学したこと以外は、あまり知らなかった。
「先輩は、どうして経済学を?」
「実家を継ぐために、マネジメントを学んでおく必要がありますので。古都大に経営学部はありませんから、経済学部に決めました」
そうだった。姫野さんの実家は一族経営の大企業。
あんまり参考になる回答じゃなかった。
「裏見さんは?」
「そうですね……数学が得意だから、それを活かしたいな、というのがあって……理学部も考えました。歩美先輩は理学部なので」
「ええ、申命館の理学部ですね。近畿圏なので、大会ではよくお会いします」
「歩美先輩、大学生活はだいじょうぶなんですか?」
「……」
なんですか、その沈黙は?
やはり歩美先輩に一人暮らしはムリだったのでは──
と、ここでスタッフの声が入る。
《対局準備が整いました。解説陣もご準備ください》
私語中止。
ちょっと緊張する。
ピポ パシリ
対局開始。
初手の2六歩が指された。
3四歩、2五歩、3三角、7六歩、2二飛。
【先手:大谷雛(T島県) 後手:桐野花(H島県)】
桐野さんのダイレクト向かい飛車。
「これは予想通りですね」
「はい、桐野さんはこれ以外の戦法をほぼなさらないので……大谷さんも予定の局面かと思います。ここは準備なさっているでしょう」
大谷さんの研究に期待かな──と思った瞬間、それはすぐに指された。
3三角成、同桂、6五角。
いやはや、序盤から忙しくなった。
姫野先輩によれば、
「あからさまな研究宣言です」
とのこと。
大谷さんだから、アドリブで指したとは思えない。
桐野さんの手が止まった。
「これは4五桂で一気に行きますか?」
「4五桂、4八銀、5五角を予想します」
この予想は当たった。
4五桂、4八銀、5五角。
大谷さんの手が速いのは当然として、桐野さんもそんなに考えていない。
どうも前例があるっぽいわね。
大谷さんは9八香で一回逃げた。
9九角成に7八銀が指される。
馬を封じ込める手だ。
私はタッチペンでタブレットをつつきながら、
「香得になりますが、先手からは4六歩があります」
とコメントした。
9八馬、4三角成、8八馬、4六歩。
よしよし、解説陣、好調。
私はひとりうなずきつつ、
「無難に収めるなら5二金左ですか?」
とたずねた。
「5二金左、3四馬、3七桂成、同銀に3二香と反撃したいところです」
うーん、いかにも姫野先輩っぽい方針。
収める気がない。
とはいえ、それよりもいい手順を私は思いつかなかった。
「じゃあ、これが第一候補で……」
パシリ
あ、ハズれた。
姫野先輩はこの手をみて、
「わたくしより過激に来ましたか……この手を短時間で選択するのは度胸がいります」
と評した。
大谷さん、ここで長考。
研究手順は5二金左だったっぽいかな、このようすだと。
「研究から外れた感じですかね?」
「読み直している可能性もあります。4二飛のぶつけ自体はありうるので、この分かれを想定していなかったとは考えにくいかと」
なるほどなるほど。
それから2分が過ぎて、私たちはちょっと手持ち無沙汰になる。
するとヘッドセットから、
《同郷の解説なので、なにか思い出話などを……》
というスタッフの声が聞こえた。
思い出話? 喫茶店で最初にバトったこと……は秘密にしたほうがよさそう。
メイド喫茶で賭け将棋をしたこと……はしゃべったらあとで殺されそう。
なんのエピソードがいいかなあ、と迷っていたら、姫野先輩から、
「県竜王戦のエピソードなどは、いかがですか?」
と振ってきた。
あッ……そっか。姫野先輩も竜王戦優勝だから解説に呼ばれてるのよね。
私は「はい」と答えたうえで、姫野先輩に順番をゆずった。
「わたくしの優勝は2011年度でした。中学3年生のときで、決勝はちょうど桐野さんでした。先後は違いますが、本局と同じように桐野さんのダイレクト向かい飛車です。わたくしは矢倉で迎え撃ち、玉頭戦を制して1手差で勝たせていただきました」
へえ、そうなんだ。
「裏見さんはいかがですか?」
「私は2014年度の優勝で、相手はソールズベリーの南海さんでした。私が後手番の矢倉で、5筋に飛車を回る展開だったのをおぼえてます。最後のほうは形勢が二転三転してたんですが、入玉模様の先手玉を討ち取れて……ラッキーだったかな、と思います」
謙遜抜きで、そうだったと思う。
途中、南海さんが勝ちになる局面はあったはずだ。
去年のことなのに、なんだか遠い昔のような気がしてくる。
パシリ
っと、指した。
私は、
「同馬かな、という気もしましたが……」
とコメントした。
「5二金左に4二馬と入る予定では?」
……あ、そういうことか。
歩を拾っておこうという手だ。
姫野先輩の予想は正解で、5二金左、4二馬と進んだ。
以下、同銀、4五歩で先手の駒損が解消。
桐野さんは3三馬と撤退した。
私は解説用のタブレット盤に2一飛と下ろした。
【参考図】
「これがありませんか?」
「以下、6二玉、5四桂、7二玉、4二桂成、同金、4四銀ですね」
「3二馬で飛車に当てられちゃいますけど、1一飛成で指せると思います」
むしろ後手のほうが悩ましいんじゃないかな、とすら思う。
攻めるには馬を出ないといけない。けど、そこで1二龍が金当たり。
先手も攻め筋には困らない展開になりそう。
大谷さんは結局、3分ほど考えて2一飛と下ろした。
6二玉、5四桂、7二玉、4二桂成、同金、4四銀。
解説の予想通りに進む。
3二馬、1一飛成、7六馬、1二龍、4一歩、5三銀成。
いやぁ、桐野さん、厳しくなったのでは。
これはパッと見、先手有利だ。
「先手良くなったかな、と思うんですが……」
「寄り切りの流れやもしれません。研究手順にハマったように見えます」
むむむ、そうなると逆転は難しそう。
ひとまず解説に努める。
「取れないのは当然として、どう受けるかですね」
「5一香は粘りがあると思います。もうひとつ挙げるとすれば7五馬でしょうか」
どっちもありそう。
「……打つ順番の問題な気もしますね。最終的にはどこかで5一香を入れるんじゃないでしょうか。例えば7五馬、5六香、5一香とか」
「裏見さんのおっしゃる通りかもしれません。そこで5一香ならば合流します」
桐野さんが指したのは、それから1分後のことだった。
7五馬。
大谷さんは5六香とすえる。
ここで5一香──じゃなくて、8二玉が指された。
「これは?」
「玉が浅いと受けにくい、と見た手だと思います……が、これは4四歩があります」
ですね。4四歩〜4三歩成がある。
ただ、王様を深く囲わないと危ない、という説明にも一理あると思った。
本譜も4四歩と進む。
3五角が飛び出した。
ここで私は桐野さんの方針を理解した。
「単に5一香はジリ貧なので、攻めを絡めてるみたいです」
姫野先輩は同意しつつも、
「5七角成、同銀、同馬、5八歩ならば4七桂で頓死します。しかし、大谷さん相手にこの頓死筋が成立するとは思えません」
それもそうだ。
桐野さんとしては、とりあえず食いついていく作戦なのだろう。
以下、4三歩成、5一香、4二成銀、同歩、5一香成、同金と進んだ。
んー、角と馬が利いてる感じはする。
大谷さんがこの鉄条網をどうくぐり抜けるか、お手並み拝見。
……………………
……………………
…………………
………………指しませんね。
ここは雑談タイム。
私はすこし話題を考えて、
「双方1敗しているので、どちらかは2番手グループから脱落しますね。トップグループは全勝中です。戦前予想では女子のほうが接戦でしたけど、8回戦まで終わってみると、男子のほうが団子になっています」
とコメントした。
「女子は前半の組み合わせに偏りがあったからかもしれません。後半で差は詰まるのではないでしょうか。逆に男子は後半で差がつくように見えます。六連さんは頭ひとつ抜けていますけれども」
吉良くんと囃子原くんに勝ってたもんなあ。
あれはスゴかった。
パシリ
カラい。大谷さん、この局は絶対落とさないという意志を感じる。
6四馬、5六香。
後手に歩がないことを見越した攻めだ。
桐野さんは6二金と逃げる。
4二と。と金が生還。
桐野さんは4五桂で反撃に出た。
5二と、7二金、5五金。
完封コース。
私は、
「同馬と切るしかない……ですよね」
と確認を入れた。
「はい、同馬、同香に5七桂成と殺到する順しか残されていません」
本譜もその通りに進んだ。
同馬、同香、5七桂成、同銀、同角成、5八歩。
桂馬はさっき手放したから、4七桂の頓死はない。
桐野さんは泣く泣く3五馬と撤退する。
5三角、4四香、4六歩。
私は、
「うまい中合いが出ました。同香と吊り上げることで、馬消しを強制する手です」
と狙いを解説した。
回避はできないと思う。それこそ香車を打った意味がなくなる。
同香、4八歩、4七歩、6一と(詰めろ)、4八歩成、6八玉。
「4七香成としますか? 7七玉と逃げてくれれば、5三馬、同香成、4四角で成香を抜けますけど……」
「うっかり狙いとしてはアリですが、冷静に3五角成とされて負けかと」
ですね、はい。
大谷さんも時間を残してるし、頓死はなさそう。
まだ10分ある。
「5二歩と打っても3五角成、同歩、5二香成ですし……あ、投げました?」
カメラに対局者たちの後頭部が映った。
「以上、75手で先手の大谷さんの勝ちです。姫野先輩、ご感想は?」
「大谷さんの研究が実った一局でした。立ち合いでぶつかった後、土俵の外までそのまま寄り切ったかたちでの終局です。桐野さんとしては、立ち合いで回しを取られてしまい、終始苦しい展開になったのが悔やまれます」
相撲風の解説。
終局が早かったから、すぐにはインタビュータイムにならなかった。
ほかの対局をちらほら観つつ、感想戦が終わるのを待った。
15分ほどして、ようやく大谷さんのマイクが入る。
《もしもし、大谷です。感想戦が長引き、失礼いたしました》
「あ、おつかれさま」
《裏見さん、おつかれさまです》
「本局は研究手順?」
《準備はして参りましたが、7五馬のあたりからは手将棋になりました》
んー、どこまで本音なのかしら。
もうちょっと研究していそうではあったけど。
とりあえず姫野先輩にゆずる。
「姫野です。おつかれさまです。わたくしから特に質問はありません。序盤からほころびのない将棋で、素晴らしかったと思います。本日の最終局もがんばってください」
《ありがとうございます》
次は桐野さん。
《もしもし、お花ですぅ》
「おつかれさま」
《あ、香子ちゃんなのですぅ。ちょっと恥ずかしい将棋でしたぁ》
「研究にハマっちゃった感じね」
《4二飛があんまりよくなかったのですぅ。5二金左でしたぁ。あと7五馬も疑問で、すなおに5一香と打っといたほうが良かったのですぅ》
なるほど、解説でもそこは問題になっていた。
「姫野先輩、なにかコメントがあれば」
「桐野さんは戦法が決まっているので、狙い撃ちされないように気をつけてください」
《はぁい、気をつけまぁす》
こうして9回戦は終了。
女子はもう一局あるけど、男子はこれで終わりなのよね。
捨神くんたち、どうなったのかしら?
場所:第10回日日杯 2日目 女子の部 9回戦
先手:大谷 雛
後手:桐野 花
戦型:後手ダイレクト向かい飛車
▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲7六歩 △2二飛
▲3三角成 △同 桂 ▲6五角 △4五桂 ▲4八銀 △5五角
▲9八香 △9九角成 ▲7八銀 △9八馬 ▲4三角成 △8八馬
▲4六歩 △4二飛 ▲5三馬 △5二金左 ▲4二馬 △同 銀
▲4五歩 △3三馬 ▲2一飛 △6二玉 ▲5四桂 △7二玉
▲4二桂成 △同 金 ▲4四銀 △3二馬 ▲1一飛成 △7六馬
▲1二龍 △4一歩 ▲5三銀成 △7五馬 ▲5六香 △8二玉
▲4四歩 △3五角 ▲4三歩成 △5一香 ▲4二成銀 △同 歩
▲5一香成 △同 金 ▲6六金 △6四馬 ▲5六香 △6二金
▲4二と △4五桂 ▲5二と △7二金 ▲5五金 △同 馬
▲同 香 △5七桂成 ▲同 銀 △同角成 ▲5八歩 △3五馬
▲5三角 △4四香 ▲4六歩 △同 香 ▲4八歩 △4七歩
▲6一と △4八歩成 ▲6八玉
まで75手で大谷の勝ち




