434手目 懇親会
ホテルの宴会場。
テーブルクロスのうえには、豪勢な料理と飲み物。それにおしゃれな花束。
私は入り口近くで、ノンアルコールシャンパンを手にしていた。乾杯用だ。
解説室を出たあと、そこそこ時間が経っていた。
うーん、じれったい。このおあずけを食らっている感じ。
しばらくして、内木さんが登壇した。
「お待たせいたしました。ただいまから、第10回日日杯の懇親会をおこないます。まずは主催者の囃子原グループを代表して、囃子原礼音様から、ご挨拶をたまわります」
タキシード姿の囃子原くんが、舞台のうえにあがった。
「選手諸君、おつかれさまだ。満足のいく将棋が指せただろうか。解説者をはじめとするスタッフのかたがたにも、この場で御礼もうしあげる。初日がとどこおりなく進行したのも、諸君らの活躍のおかげだ……さて、本来ならば少々スピーチをさせてもらうところだが、諸君らとしては料理が待ちきれないだろう。対局者の僕が長話をするのも、よろしくない。というわけで、失礼ながらすぐに乾杯させていただく。乾杯!」
「かんぱーい!」
グイッとひと口──変わった味がする。
シャンパンって、クリスマスのときにしか飲んだことないかも。
さてさて、それではさっそく食事を。
まずはお肉……ゆで鳥の冷菜にするか、それともレアステーキにするか。
ぜんぶは食べられないから、よく考えないとね。
あるいは中華で攻めていく手もある。
私が迷っていると、うしろから声をかけられた。
「香子ちゃーん」
ふりかえると、磯前さんが立っていた。
磯前さんはコーラを片手に、
「香子ちゃん、最後だけ観てなかったね」
と言った。
あ、はい。弁明しておく。
「序盤で形勢差があったから、大谷さんをメインで観てたの」
「じつはあたしのほうも、中盤は接近しちゃってたんだよね」
ん、そうなんだ。
残念ながら棋譜をみるチャンスがなかった。
くわしく訊くと、どうやら8六銀のあとを急ぎすぎたらしい。
磯前さんはコーラを飲んで、口もとをぬぐった。
「初日は不完全燃焼。スカッと勝った局がなかった。すみれのもぐだぐだになったし」
ちょうどそのとき、那賀さんが通りかかった。
「あ、先輩たちが、すみれのうわさをしてますじょ」
私はかるくあいさつをする。
「こんにちは、解説の裏見よ」
「ひよこ先輩からお話は聞いてますじょ」
那賀さんもT島出身なのよね。
磯前さんは、
「すみれは、なんで早囲いにしたの? 手順が正式じゃなかったよね?」
とたずねた。
那賀さんはすこし恥ずかしそうに、
「じつはあれが成立しないのを、知らなかったんですじょ」
と答えた。
ああ、そういうパターンだったのか。
わざわざ龍を作らせてたから、なにかあるのかと思っていた。
磯前さんは、
「すみれは棋歴が短いから、定跡の細かいすっぽ抜けがあるよね」
と、けっこう過激な発言。
「返す言葉もありませんじょ。ほかの選手からも狙われてる気がしますじょ」
「だろうね。みんなこっそり本気だし」
それは感じた。
お祭り気分かと思いきや、研究とかいろいろぶつけてるようにみえる。
「あ、ステーキがありますじょ」
那賀さんはお皿にお肉をよそおった。
「あっちで1年生会をやってるので、これで失礼しますじょ」
またねぇ、というわけで、また磯前さんと雑談。
「磯前さん、食べないの?」
「急いで食べなくてもよくない? この量だとたぶん余るよ?」
それもそうか、と言いたいところだけど、私はお腹が空いている。
磯前さんにはもうしわけないけど、先にいただきましょう。
那賀さんと同じようにステーキをひと切れ……ふた切れ。
いただきまーす。
「……ん、和牛だわ。霜降りで脂がのってる。磯前さんも、どう?」
「あ、ごめん、大会のときに生焼けは食べないんだ」
ぷ、プロ意識。
たしかにレアだけど、そんなに中らないでしょ、たぶん。
では、もうひと切れ……と口に運びかけたところで、大谷さんが現れた。
大谷さんの皿には、サラダとチーズが山盛り。
「裏見さん、こちらにいらっしゃいましたか。本日はご観戦、ありがとうございました」
「こちらこそ、おもしろかったわよ」
磯前さんがすぐにわりこんで、
「香子ちゃん、あたしの第5局観てくれないからさぁ」
と愚痴った。どんだけ観られたがりなんですか。
大谷さんも、
「拙僧のほうが長手数になってしまったからかもしれません」
とフォローしてくれた。
「ひよこは全勝らしいね。トップグループじゃん」
「まだ1日目が終わったばかりなので、なんとも」
磯前さんは、スポーツキャップを持ちあげた。
「3−2で言える立場じゃないけど、それは正論だよ。まだ3分の1も指してない」
むむ、磯前さんも全然あきらめてないわね。
それから私たちは、ちょっと日常的な会話に終始した。
30分ほど経ったところで、磯前さんが、
「っと、あたしは吉良と話があるから、またあとで」
と言い、その場を離れた。大谷さんも、
「拙僧も疲れましたゆえ、パーティーはお先に失礼いたします」
と言い残して、会場から出て行った。
ひとりになっちゃった。とりあえずテーブルを変えましょう。
中華のコーナーへ……んー、日本食もあるのか。
お寿司を食べたいけど、お腹がすぐいっぱいになっちゃうのよね。
こっちの麻婆豆腐を──大きなレンゲですくっていると、また声をかけられた。
捨神くんだった。お皿は持ってなくて、オレンジジュースを飲んでいた。
「裏見先輩、おつかれさまです」
「あ、おつかれさま。今日はどうだった?」
捨神くんはすこし残念そうな顔で、
「阿南くんに負けちゃいました」
と答えた。
あれ、そうなんだ。てっきり全勝してるのかと思った。
するといきなりサイドから、ひとりの少年が現れた。
ずいぶんと髪型に凝った、生意気そうな感じの子だった。
彼は捨神くんの肩にかるく腕を乗せて、
「僕、強かったでしょ?」
と、したり顔で言った──もしかして阿南くん?
捨神くんは笑って、
「強かったよ。序盤でこっちから定跡外しをしないほうがよかったね」
と答えた。
阿南くんは前髪をかきあげて、
「いやいや、定跡で来られても僕の勝ちさ」
と言った。
このひと、友だちいなさそう。
阿南くんは捨神くんの肩から腕をどけた。
私のほうを見てくる。
「お姉さんは、どちらのかたですか?」
「私は裏見、解説で来てるの」
「ああ、H島のひとですね。僕は阿南是靖、四国最強の高校生将棋指しです」
ほんとぉ? それって吉良くんじゃないの?
そういえば、吉良くんはどうなったのかしら。
私はふたりに訊いてみた。
すると阿南くんが答えてくれた。
「吉良は六連に負けましたよ。ただ六連も石鉄に負けちゃったんですよね。あ、石鉄はご存知です?」
「温田さんの彼氏でしょ?」
「お姉さん、的確な表現を知ってますね。で、石鉄は礼音に負けてます」
ここで捨神くんが、
「そうなんです。男子で全勝中なのは礼音くんだけなんです」
と付け加えた。
「吉良くんが六連くんに負けたのは、抜け番のときに観たわ」
そう言った途端、となりから当人が現れた。
私はしまったと思ったけど、あとの祭り。
吉良くんはあいかわらず晴れなさそうな顔で、
「はい、負けましたよ、負けました」
と答えた。
まあまあ、拗ねないで。
「まだ初日でしょ」
私がなぐさめると、吉良くんは、
「男子は後半戦がキツいんですよ。俺なんか3日目と最終日は葦原→今朝丸→香宗我部→囃子原→捨神→石鉄ですからね」
と答えた。捨神くんも、
「そうだね、僕は3日目が石鉄くん、六連くん、囃子原くん、米子くんで、最終日が吉良くんと香宗我部先輩だから、全敗してもおかしくないよ」
と言った。
うーん、香宗我部くんには勝てるんじゃないかしら。
あんまり強いってうわさは聞かないし。
でもほかのメンツがキツいのは事実だった──っと。
こういう話はやめやめ。オンとオフははっきりさせましょう。
私は吉良くんに、
「なにか食べないの?」
とたずねた。吉良くんは、
「1日に取るカロリーと栄養はきっちり決めてます」
と返した。
えぇ……ってわけでもないか。ダンサーだし。
「そうね、ダンスは体型がだいじだから」
私は同調したつもりだった。ところが吉良くんは、これにも渋い顔をした。
「まあ、そうなんですが……俺はそういう風潮もあんまり好きじゃないんですよね」
「どうして? ダンスに見た目はだいじでしょ?」
「鑑賞する側からみれば、そうですよね。だけどダンサーは、栄養失調になるケースが多いんです。とくに女子はカルシウム不足とか。やっぱり痩せすぎなんですよ。もちろん肥満なら逆の負担がかかるんですが、やたらと細くなる必要はないはずです」
なるほど、そうかもしれない。
私はなんとなく納得した──瞬間、いきなり銅鑼のような音が鳴った。
あたりが静まり返る。
舞台上に、囃子原くんの姿があった。
「さて、お楽しみのところ恐縮だが、ここでひとつ余興に入らせてもらおう」
あ、パーティーによくあるイベントタイムだ。
ビンゴゲームかしら。景品が豪華だといいなあ。
「今回はとびきりのゲストに来ていただいた……ご紹介しよう」
会場が暗くなった。
天井からスポットライトが2つ出て、あたりを舞う。
そして、ある人物のところで重なった。
「よい子のみんな、食べ過ぎはいかんぞ……と、そのまえにCM」




