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こちら、駒桜高校将棋部Outsiders  作者: 稲葉孝太郎
第40局 ぼくらの夏休み(2015年7月下旬)
432/686

420手目 天野賢一の夏休み

※ここからは、天野あまの先生視点です。

「かんぱーい」

 夏の夜に、ぐいッとビールのひとくち目……いやぁ、おいしい。

 あ、升風ますかぜで数学を教えてる、天野だよ。

 将棋部の顧問と言ったほうが、わかりやすいかな。

 今日は市立いちりつで数学を担当してるかつら先生と、サシ飲み。

 数学教師同士の交流会というか、1学期の締めというか、息抜きというか。まあ、最後が本命。桂先生とは、教員の勉強会でいっしょになることが多い。僕がアラサーで桂先生が還暦だから、年齢は親子ほどある。けど、桂先生は気さくで絡みやすいひとだ。

 今日はちょっと空いていた。4人がけのテーブルがとれた。

 桂先生は冷奴を食べながら、

「夏はこれに限るのぉ」

 と言い、ご満悦。

 僕は、出されたばかりの焼き鳥を一本。

「桂先生、ここの焼き鳥はイケますよ。どうぞ」

「脂っこいもんは、もう胃が受けつけん。砂肝すなぎもだけにしとこう」

 歯が丈夫なのは、よいことだと思う。

 桂先生は、うんうんとうなずいて、

「んー、うまいな。ここは最近できたのか?」

 と訊いてきた。

「ええ、5月オープンです」

 たまたま見つけたんだよね。小テストの採点で、帰りが遅くなった週末に。

 フラッと寄っちゃって、よかったので今はちょくちょく。

 瀬戸内の幸がメインのお店で、お刺身が絶品。お酒の種類も豊富だった。とくに日本酒が多い。ビールの次は桂先生といっしょに飲み比べ。カウンターのうしろに、いろいろな銘柄がみえる。どれがいいかな。獺祭だっさいは甘すぎるから、 雁木がんぎにしようか。

 僕が迷っていると、桂先生は枝豆をつまみつつ、

「わしが常連だった店は、閉めてしまったからなあ。さすがに店主が80ではな」

 と嘆息した。

「すごいですね。80までなさってたんですか?」

「正確には77、8じゃな。わしも以前は、定年後に働きたいとは思っとらんかった。しかし、じぶんが還暦になってみると、まだまだいける気がしてきてなあ。こういうのがダメなんじゃろうな」

「さすがに60でリタイアという時代では、ないですからねぇ。桂先生も、市立で再雇用という流れなんじゃないですか?」

「非常勤になってくれとは言われとるが……なにかほかのことをしたい」

 ちょっと怖い発言。

 リタイア後に退職金を突っ込んでパーッになる、っていうケースがある。

 老後にいきなり資産運用を始めるのは、危ないからね。

「なにをなさりたいんですか?」

「決めとらん。いずれにせよ、数学を教えるくらしかできんしな」

「塾経営など?」

駒桜こまざくらの高校は、教師の質がええからなあ、ライバルが多すぎる」

 あんまり積極的じゃないのか。

 個人的には、すなおに再雇用をオススメしたいところ。

 他人の人生なので口出しはしないけど。

 話題を変えよう。

「市立の3年生は、順調ですか?」

「だいたい通るじゃろ。天野くんのところはどうなんじゃ? うちより有望じゃろ?」

 じぶんで選んだ話題だけど、訊かれるとけっこう困る。

 僕はビールをひとくち飲んでから、

「受験勉強をしっかりしているのは、辻くんくらいなんです。蔵持くらもちくんは、剣道の推薦があるのでイマイチ熱心でないというか……ほんとうは一般受験して欲しいんですが」

 と答えた。

「ありがちじゃのぉ……まぁ、行きたいところに行くのが一番じゃがな」

「うーん、そうでしょうか。スポーツ推薦一本は、どうかと思ってます」

「なぜじゃ?」

「スポーツ推薦って、そこの運動部のランクに依存するじゃないですか。これって何十年も一定だとは思えないんですよ」

 僕の考え方は、ちょっと試験一本勝負すぎるかな。

 でも、升風はいちおう進学校であって、スポーツ強豪校じゃないんだ。

 ところが、僕の考えは、桂先生の価値観とも合わないらしく、

「何十年のスパンなんぞ、考えてもわからんぞ。わしが若い頃に、日本がこうなるとは予想していなかった。天野くんだって、なぜわざわざ駒桜に帰ってきた? たしか、大学は県外じゃろ? 都会の大きな高校に就職しなかった理由はなんじゃ?」

 という、矢継ぎばやな質問攻め。

「そうですね、母校だから就職しやすいってこともありましたが……」

「ハハハ、なかなか現実的な理由じゃ」

「それは否定できないです。ただ、僕は数学の教員免許なんで、選り好みしなかったら、すぐに決まったと思います。理系の教員は人手不足ですから」

「ほぉ、じゃったら、なぜそうしなかった?」

「今考えたら、あとづけに近いんですが……教師という職業を選んだ時点で、出世とかお金儲けとか、そういう価値観からハズれてしまっていると思うんですよね。だったら、いい高校で教師をすればいい、ってわけでもなく……じぶんの力が一番活かせるのは、けっきょく母校なのかな、と……」

 桂先生は、しばらく黙ってしまった。

 まわりのテーブルの談笑だけが、僕の耳に飛び込んでくる。

「あ、かっこつけすぎました?」

「いや……わしが就職したときは、適当にやっとればだいたいうまくいったからな。教師になるのは、変わりもんだけじゃったよ。今は、世の中のほうが変わっとる」

「しかし、桂先生は模範的だと、界隈でも有名ですよ」

 桂先生は、ほんとうにイヤそうな顔で、

「かーっ、だれじゃ、そんな気持ちの悪いお世辞をいうとるのは」

 と言い、ビールを一気に飲み干した。

「いえいえ、ほんとうです」

「だいたい、わしみたいな古い人間を、はんにしてはいかんぞ」

「そうですか? 桂先生は、世代のわりには考えが新しいというか……」

「そんなのは、見よう見まねでえっちらおっちらやっとるだけじゃ。このまえもな、好きな女子の志望校を教えて欲しいというやつがおったから教えてやったら、その女子が個人情報だと言いよってな。個人情報なんぞという言葉は、わしの若い頃にはなかった」

 いやいや、ダメですよ、それは。

 しかも女子のは二重にダメ。

 僕がやんわり注意しかけたところで、うしろから女性の声がした。

「桂先生、冗談抜きで個人情報保護法にひっかかりますよ」

 ふりかえると、右目を前髪で隠した女性がひとり──あれ?

「辻さん?」

「天野先生、おひさしぶりです。升風OGのつじ乙女おとめです」

 うーん、まさかの教え子と遭遇。

 これは予想していなかった。

「東京の大学だから、上京してるよね? 夏休み?」

「はい、ちょうど期末試験も終わったので、帰省しました」

 そうか……でも、居酒屋で会うのはマズい……こともないのか。

「そういえば、もう大学4年生?」

「ええ、22です。というわけで、お酒を飲んでも問題ないわけですが……桂先生、個人情報というのは、個人の人格に付随する無体的な価値です。それをむやみに他人に伝えてしまうのは、いわば人権侵害の一種だと言っても過言では……」

 桂先生は、辻さんと面識があるので、このお説教がこたえたらしく、

「うーむ、辻くん、テレビ番組の弁護士のような話し方じゃな」

 と、途中で話をさえぎった。

「弁護士ではありませんが、法曹ほうそうを目指してますので」

「ほうそう? テレビアナウンサーか?」

「いえ、法律家のことです」

 桂先生は、すこしおどろいた。

「ん、そうなのか? てっきり理系に進んだかと思ったが……」

「最後まで迷いました。升風では、理系の特進コースだったので……情報科学に興味がありましたし、リーガルテックやフィンテックもある今では、法学や経済学から入っても目的地は一緒かな、と考えたんです」

「法律と理系がなぜ繋がるんじゃ? 老人にはまったく見えてこんぞ」

「話せば長くなりますが……そのまえに、天野先生、お元気そうでなによりです」

「いやあ、辻さんも元気そうでなによりだよ。えーと、よければそこの席を……っていうのはマズいか。セクハラになる?」

「いえ、大丈夫です」

 辻さんは、僕の左どなり、通路側の椅子に着席。

 彼女と話すのは3年ぶり……いや、一回会ったかな。でも、だいぶ印象がちがった。

 今日着ているものも、薄紫のブラウスに黒のデニム。おとなっぽいチョイスだ。

「辻さん、すっかりおとなびたね」

「それはセクハラです」

「あ、ごめん……でも、高校生のときの印象が強くて」

「もう高校生ではないので」

 んー、辻さん、昔からこういう感じなんだよね。

 将棋部の主将をつとめていたときも、けっこう飄々としていた。

 弟の辻くんとは、タイプが異なってて……っと、店員さんが来た。

「こちら、相席ですか?」

 辻さんは手慣れた調子で、

「あ、すみません、知り合いなので、一時的に……ビールで」

 と注文をいれた。

 桂先生は、

「辻くん、けっこう飲むのかね?」

 とたずねて、辻さんは、

「まあ、人並みには」

 と答えた。

 ビールがすぐに運ばれてきて、3人で乾杯。

 僕が、

「辻さんの未来を祝福して」

 と言うと、辻さんは、

「先生方のご健康を祈って」

 と返してくれた。

「法律家になる方法を、僕は知らないんだけど、なんか試験があるんだよね?」

「司法試験です」

「そのまえに専門の……えーと……ロースクール?」

「いえ、私はロースクールには行きません。去年、予備試験に合格して、今年、本試験に合格する予定です。そのあと11月から司法修習へ行く、というのが最短になります」

 んー、どういうことなのか、よくわからない。

 ただ、辻さんからはけっこうな自信を感じた

 この自信の強さは、高校のときから変わっていないのかもしれない。

 桂先生は、なんでも率直に言うタイプだから、

「いいのか、帰郷なんかしとって?」

 とたずねた。

「今は9月の合格発表待ちです。今年は日日にちにち杯があるので、観戦も兼ねて帰省しました。一般客になっちゃいますけど」

 そっか、日日杯があるのか。

 僕も、むかしは観に行ったなあ。

 桂先生も懐かしそうに、

「10年くらいまえに観に行って、それっきりじゃな」

 とつぶやいた。

 辻さんは耳ざとく、

「今年はいかがですか?」

 とたずねた。

 桂先生はジョッキ片手に、タメ息をつく。

「ああいう青春の場をみると、じぶんの老いが感じられて悲しくなる」

 と答えた。

 なんとなく、しんみりした空気が流れる。

 辻さんはジョッキをあげた。

「まあそうおっしゃらずに……桂先生の今後のご活躍にも、乾杯」


 30分後──

 

「おーい、天野ぉ、桂ぁ、私の酒が飲めないのぉ?」

 桂先生は助けを求めるような目で、

「あ、天野くん、どうなっとるんじゃ、これは?」

 とたずねてきた。それはこっちが訊きたいくらいです。

 さ、さっきから、辻さんのようすがおかしい。

 目が座ってる。もしかして、辻さん、酒乱だった?

 辻さんは僕のネクタイをひっぱって、

「まだ飲めるわよねぇ?」

 と、おちょこにむりやり注いできた。

 僕がどうしたものか迷っていると、飲み屋の玄関がひらく。

 弟の辻くんがあらわれた。

「すみません、僕に似た女子大生が、このへんに……ああッ! 姉さん、いたッ!」

 弟の登場に、辻さんはいきなり立ち上がって、

竜馬りょうま、あんた、なに勝手に彼女作ってるのよ? どこのだれと付き合ってるの? ここで白状しなさい。今からその女のハウスに突撃ィ! 捜査ッ! 逮捕ッ! 拘留ッ!」

 と絡んだ。

 辻くん、大いに困惑。

「彼女いないのに彼女の話で詰められるとか、意味がわからなさすぎる……天野先生、なんとかしてください。元担任でしょう」

「いやいや、ここは辻くんがお持ち帰りしてくれないか。家族だろう」

「いいから飲めぇ! 3人とも起訴するわよッ! つじ乙女おとめ検事、弟の彼女の逮捕状を請求しますッ! 捜査班、突撃ィ!」

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