表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こちら、駒桜高校将棋部Outsiders  作者: 稲葉孝太郎
第40局 ぼくらの夏休み(2015年7月下旬)
429/686

417手目 捨神九十九の夏休み

※ここからは、捨神すてがみくん視点です。

 真夏の昼さがり。

 太陽の光で、地面がまぶしいほどだ。

 僕は念入りに日焼け対策をして、マンションを出た。

 サングラスもかけておく。目を悪くするといけないからね。

 シャツが汗ばんできたところで、一軒の自動車整備工場がみえた。

 それほど大きくはない。空色そらいろの屋根が、青空に溶けこんでいた。

 僕はゲートをくぐって、工場のなかに声をかける。

菅原すがわら先輩、いますか?」

 返事はなかった。けど、無人のはずはないよね。

 それとも、どろぼうに入られる心配がないのかな。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………あ、そこか。

 白い軽トラの下から、茶髪のいかつい青年が出てきた。

 白いつなぎを着て、右手には大きなレンチを持っていた。

「なんだ、捨神か。どうした?」

「ちょっと通りかかったので……お邪魔でした?」

「いや、ちょうど作業が終わったところだ」

 菅原先輩は、軽トラの下から這い出した。

 空いた手で、ズボンのほこりを払う。

「なんの用だ? たまたまっていうのは、もっともらしくないぜ?」

「えーと、じつは……」

 僕は、不破ふわさんのことを話した。

 最後まで聴き終えた菅原先輩は、ひとこと、

「そりゃただのノロケ話だろ」

 と言って、近くのパイプ椅子に座った。

「え? そうですか? ……ようすが変だったんですけど?」

「おまえだって、彼女ができたときは、かなり変だったぞ」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「そうでした?」

「学校で一日中そわそわしてたし、ずっとひとりごとを言ってたからな」

 うわぁ、恥ずかしいなあ。

 穴があったら入りたい。

 菅原先輩は片膝かたひざを立てて、

「ま、それが普通だろ。気にすんな。ところで、どこのだれなんだ、おまえの彼女?」

 とたずねてきた。

「アハッ、すみません、それはナイショです」

「そうか……まあ、俺も高校のときは秘密にしてたからな」

「秘密? なにをですか?」

 菅原先輩は頬をかいて、すこし照れくさそうにしながら、

「じつはな……こんど結婚することになった」

 と教えてくれた。

「あ、おめでとうございます。天堂てんどうのひとですか?」

「すまん、捨神を信頼してないわけじゃないんだが、招待状で確認してくれ」

「了解です」

 おめでたい話だね。

 僕もいつか飛瀬とびせさんと──僕の妄想をよそに、菅原先輩はスマホをみながら、

「このパンフレット、よくできてるな」

 とつぶやいた。

「なんのパンフレットですか?」

日日にちにち杯のやつだよ。おまえの写真もある」

 そっちも恥ずかしいな。

 葉山はやまさんの写真、けっこう良かったんだよね。

 芝生しばふのうえに、僕が座っているだけの写真。でも、雰囲気があった。

 こどものころの僕と、ちっとも変わらないような気がした。

「優勝できそうか?」

「アハハ、善処します」

 菅原先輩は、椅子から立ちあがった。

 レンチを工具棚にもどす。

「おまえ、紫外線にあたるとよくないんだろ? 送ってってやろうか?」

 突然のおさそいに、僕はすこしばかりとまどった。

「先輩、仕事中ですよね?」

「エンジンを馴らしたい。すこし寄るところもある」

「そうですか……菅原先輩がよければ、ぜひ」

 僕は軽トラの助手席にのりこんだ。オイルの匂いがする。

 菅原先輩の運転で、軽トラは車庫を出た。

 そのまま右折して、郊外へとむかった。

 菅原先輩は、しばらく口笛くちぶえを吹いていた。

 ちょっと調子がはずれている。

「天堂の連中は、げんきにしてるか?」

「ええ、3年生の先輩たちも、大会にはきちんと来てくれてます」

「あいつら、就職はどうするんだろうな……ま、俺が心配することじゃねぇか」

 そう言いつつも、菅原先輩はめんどうみがいいからね。

 軽トラは川沿いの土手を進む。

 その方向に、僕は心当たりがあった。

「あの、こっちは……」

「養護学校のバンが、調子悪いらしい……イヤならマンションへ先に送るぜ?」

「いえ、このままでお願いします」

 軽トラは、養護学校の校庭にすべりこんだ。

 菅原先輩は運転席をおりて、校舎のほうに消えた。

 僕はお留守番。例の思い出の場所は、角度の関係で見えなかった。

 しかたがないから、校舎をながめる。

 学校って不思議だよね。傷もくすみも、ずっとおなじような気がしてくる。

 まるで時間が、ここだけ止まっているような──


 コンコン

 

 ドアガラスを叩かれた。

 僕がふりむくと、意外な人物が立っていた。

 無精髭ぶしょうひげを生やした中年男性。上はカッターシャツだけで、ネクタイもしていない。

「さ、櫻井さくらい先生……」

 僕のピアノの先生だった。

 僕はドアガラスをおろした。

 先生は右手をあげて「よお」とあいさつした。

「げんきにしてたか?」

「先生、こんにちは……こんなところでお会いできるとは、思っていませんでした」

「それはこっちのセリフだよ。なんで軽トラの助手席にいるんだ?」

 僕は、高校の先輩とのつきあいだと答えた。

「将棋サークルのOBなんです」

「そうか、将棋をやってたんだな。どうだ、将棋は楽しいか?」

 僕はすこし言葉につまった。

「楽しい……と思います」

「ん? そのようすだと、そうでもないのか?」

「ちょっと説明がむずかしいんですけど……先生は、ピアノが楽しいですか?」

 先生は一瞬真顔になって、それから破顔一笑した。

「なるほどな、むずかしい質問だ。マジメに取り組んでることだけはわかった」

 伝わってうれしかった。

 先生は頭をかきながら、

「将棋は、どのあたりがおもしろい? 俺はやったことがないからわからん」

 とたずねてきた。

「『5月のトラ』っていう漫画は、ごぞんじですか?」

「知らん」

「ですよね。漫画は読まないとおっしゃってましたし……」

「逆に質問して悪いんだが、『完全なるチェックメイト』は観たか?」

 僕はおどろいた。

「ボビー・フィッシャーの伝記映画ですよね? 去年公開の?」

「そうだ。俺が観てると変か?」

「ちょっと意外でした。チェスに興味がおありだったんですね」

「いや、マルク・タイマノフという人物に興味があった。タイマノフは知ってるか?」

 もちろん知っていた。ロシアの有名なピアニストだ。

 僕がそう答えると、先生は深くうなずいた。

「タイマノフは、チェスプレヤーでもあった。ソ連チャンピオンにもなってる。もう50年以上前の話だ。チェスの世界がどういうものなのか、すこし見たくなった。『完全なるチェックメイト』で指していたのは、タイマノフじゃなかったけどな」

「どうでしたか?」

「俺の住む世界とは、全然ちがっていた。それでいて、どこか似ている、とも思った」

「どこがちがうと思いました?」

「ピアノには勝敗がないよな。序列はあるが、白黒つけるわけじゃない」

「じゃあ、似ているところは?」

 櫻井先生は、うーんとうなって、無精髭をなでた。

「そこがわからないんだな。正確さか? 例えば、タ、タ、タのテンポは?」

「120BPMぴったりです。モデラートとアレグロの境目ですね」

「正解だ。さぼってるわけじゃないようだな」

「今のは僕のテストですか? それとも、映画の感想ですか?」

「映画の感想だ。チェスの試合を見たとき、正確なゲームだな、と思った。でも、それは俺たちの正確さじゃない。ジュノムの第1楽章、今日の捨神くんなら、どういうテンポで弾く?」

「この暑い日に、ピアノ協奏曲ですか? ……冷たい水が流れる川辺で、くつろぐようなイメージ……でしょうか……最後は指揮者次第かな、という気もしますが……」

「そう、ようするにその日のメンバーの気分だ。アトモスフェーラってやつだよ。ピアノはバイオリンの気分をうかがわないといけない。バイオリンもピアノの気分をうかがってくる。おたがいになにを考えているのか、その瞬間に判断しないといけない点で、チェスと協奏曲は似ているのかもしれん。だが、チェスはあいての気分に配慮したりはしない。求められているのは、あくまでもあいての敗北だ。俺はそう感じた」

 先生はおどけた表情で、ジュノムの最初の数節を、エアピアノで弾いてみせた。

 それは、僕が想定していたよりも、すこし速いテンポだった。

「俺にはこっちのほうがお似合いだ。勝負ごとに向いていない。きみは、どうして白黒つける世界が好きなんだ? 敗者は必要か? これは皮肉じゃないぞ。純粋な好奇心だ」

「純粋な好奇心にはトゲがあるんですよ、先生」

 僕の回答に、先生は真剣なまなざしを返した。

「すまん、ちょっとふざけすぎた。謝る」

 先生は、じゃあ失礼するよ、と言って、その場を去ろうとした。

 僕は引きとめた。

「失礼な質問かもしれませんが……先生は、じぶんの才能を疑ったことがありますか?」

「おいおい、それは愚問だよ。俺はじぶんに才能があると思ったことはない」

「それは、天才にはかなわない、っていう意味ですよね。そうではなくて……もっと根本的にダメだと感じたことはありますか?」

 先生は、じっと僕の眼をみつめた。

 怒らせてしまったのだろうか。そうではないと思う。

 先生の視線は、どこか憐れみをともなうものだった。

「ある、と答えるほうが、謙虚なんだろうが……俺はないな。さっきも言ったとおり、じぶんが天才だと思ったことはない。音楽の世界の天才なんて、10代で決まるものだ。俺はそのなかに入っていなかった。だが、音楽で食っていく、という才能について、疑ったことはない。現にそれで生活している」

「……そうですか」

「捨神くん、今のはきみ自身の悩みか? ……それとも知り合いの?」

 僕は、答えたものか迷った。

 そもそも、本心ではピアノの話ですらなかった。

「僕の友だちに……いえ、友だちっていうほどの仲じゃないんですが、そういうことで悩んでるんじゃないかな、っていう子がいて……」

「それはその子が解決する問題だ。悩みは共有できない……きみなら分かるだろう?」

 僕は無意識のうちに、うなずいていた。

 それから沈黙が続き、菅原先輩の登場で、ようやく静けさがやぶれた。

「おーい、捨神、待たせたな……ん?」

 菅原先輩は先生を見て、心持ち視線をするどくした。

「すみません、どなたですか?」

 僕は、あわてて先生を紹介した。

 菅原先輩は帽子をはずして、

「捨神が通ってる高校のOBの、菅原です」

 とあいさつした。

 先生もあいさつをして、頭をかいた。

「邪魔して悪かった……ところで、この車は整備したてだね。きみがやったのか?」

 菅原先輩は、オヤッという表情を浮かべた。

「そうですけど……どうしてわかりました? 外装は古いまんまですが?」

「エンジンの音だよ。機械の音が、ぴったり合ってた」

「車に詳しいんですね。こいつはスロットルの全閉に苦労して……」

「そういう話はわからない。ただ、音を聴くのが仕事でね……じゃ、捨神くん、またな。ピアノの練習をさぼるなよ」

 先生は僕たちに背を向けた。

 3歩ほど進んだところで、顔だけこちらにむけた。

「悩みは共有できない。だが、遠巻きに支えることはできる。きみなら、これも分かってるはずだ。ごく稀にオーケストラで、全体の息がぴったり合うことがある。その車みたいにな。じゃあ、白黒をはっきりつける世界でも、それは可能なのか? 敗者が調和することがあるのか? どう思う? いや、今は答えなくていい。こんど教えてくれ。俺も勉強になる。きみはもう、俺の手の届かないところへ行ってるよ。ほんとうだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=390035255&size=88
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ