375手目 越知夢子・磯前好江〔編〕
はーい、というわけでダンス教室から移動してまいりました、太平洋でーす。
瀬戸内海とちがって、島もなにも見えないね。あたりまえか。
ここはK知県T佐市にあるドラゴンビーチ。有名な海水浴場。
泳ぐのにはまだ早いから、釣り客しかいない。
広々とした砂浜に波が打ち寄せる。あたしたちはそれを遠目に見ながら、コンクリートでできた駐車場にたたずんでいた。潮風にスカートがなびく。いかんいかん、あとで髪をちゃんと洗わないと。
時刻は3時過ぎ。このあたりで待ち合わせのはずなんだけど――
「あのぉ、さっきからここにいるんですが……」
「うわぁッ!?」
いきなり声をかけられて、あたしはびっくりした。
首から下げたカメラをかかえて、サッと飛びのく。
ふりかえると、白いワンピースを着た少女が立っていた。
前髪がすこし目にかかった、ちょっと薄幸そうな少女だった。
ゆ、幽霊? ……って、そんなわけないか。
自信なさげなその顔を、あたしは選手名簿で目にしたおぼえがあった。
「お、越知夢子さん?」
「はい、清海高校1年の越知です……私、そんなに存在感なかったですか?」
あ、はい……というわけにもいかず。
ほんとに気づかなかった。
犬井くんは笑って、
「まあまあ、夢子ちゃん、とりあえず写真でも一枚」
と、うまいぐあいに話をそらした。
カメラマン役のあたしは、ひとまずレンズカバーをとった。
「海をバックにするのがいいかな」
あたしたちは駐車場をはなれて、浜辺におりた。
波打ち際に位置どりをしてもらう。水平線を背景に、肩まで伸びた髪がなびく。
「髪に手をあててぇ」
「こうですか?」
越知さんは、流れる髪に右手をそえた。はにかむような上目づかいになる。
あれ……けっこういい素材なのでは。思春期らしい憂いがあっていい。
パシャ パシャ
「ありがとうございました」
「なんか照れます……ところで、日日杯の取材なんですよね?」
あたしはすぐにカメラをタオルでくるんだ。防砂対策。
一眼レフカメラを海に持っていくの、ほんとはあまりよくない。
カメラは専用のバッグにしまって、メモ帳をとりだす。
「はい……まずは将棋を始めたきっかけなどから」
「中学1年生のとき、磯前先輩に教えてもらいました」
「同窓なんですか?」
「中学はいっしょなんです。先輩は水産高校へ進学したので、そこで別々に」
そっかそっか、磯前さんは普通科じゃないんだよね。水産科だ。
「磯前先輩に教えてもらったきっかけは?」
「私、存在感がないのであんまり友だちがいなくて……卓ゲー部ならいいかな、と思って入ったら、そこで先輩と出会いました。最初は海外の卓ゲーで遊んでいたんですけど、先輩が将棋を指していたので、なにかな、と」
ふむふむ、どうやら中学のときは将棋部がなくて、卓ゲー部で統一されていたらしい。そういうのってあるよね。学生が少ないと、複数のクラブがまとめられちゃう。
「ふだんの練習も磯前先輩と?」
「いえ、さすがにお邪魔できないので、スマホのアプリでよく指してます」
「ランダム対戦?」
「そうですね。四国の将棋界でも、私はほかの選手とのつながりが薄いほうです。高校でも将棋部と卓ゲー部の両方に所属していて、参加している時間も半々です」
K知は複数趣味のひとが多いのか。
「それで将棋が強いってすごいですね。趣味は卓ゲー?」
「趣味……将棋もふくめた卓ゲー全般です。とくに将棋ってわけじゃないんです」
「卓ゲー全般……H島の六連くんと遊んだことあります?」
「ありますッ! 六連くん、すっごく強いので、なかなか勝てないんですよぉ」
越知さんのテンションがあがってきた。
じぶんのテリトリーだと饒舌になるタイプか。食いつきがすごい。
「彼に勝ったことあります?」
越知さんは自慢げに「あります」と答えた。
へぇ、そうなんだ。運が絡むゲームで百戦百勝はないから、あたりまえと言えばあたりまえかもしれない。ただ、越知さんの反応をみるかぎり、六連くんに勝ったのはすごいことだと認識されているっぽかった。
「気になる選手はいますか?」
「んー……とりたててライバルはいないんです」
みんなあんまり名指ししたがらないね。まあしょうがないか。
あたしはオフレコでもいいから、と断って、だれかいないかと尋ねた。
「ほんとうにいないですよ」
「あたしは県代表どころか市代表ですらないけど、たとえば自分より実力がひとつうえの選手をライバルにして目指すとか、そういうことはないんですか?」
越知さんは的確な反論をしてくる。
「卓ゲーで一番大事なことってなんだと思いますか?」
「……勝つこと?」
「そのゲームの趣旨において勝つことだと思います。卓ゲーの種類にもよりますが、特定のプレイヤーに勝利することが最善とはかぎらないんですよ。葉山先輩は、ドイツ発祥のカタンってゲームで遊んだことありますか?」
あるある。六角形のタイルを組み合わせた島で、都市開発をするゲームだね。
サイコロを振って街を拡張しながら、ほかのプレイヤーを妨害するんだよ。市立将棋部の福留さんが持ってきたから、いっしょに遊んだこともある。あのときは遊子ちゃんが一番うまかったかな。あたしは残念ながら4位だった記憶。
あたしがゲームの内容を知っていたから、越知さんは先を続けた。
「カタンで勝つためには、特定のだれかに勝つんじゃなくて、全体の流れのなかで最善のポジショニングをしないといけないんです。今回の日日杯は総当たり戦ですから、特定のプレイヤーをマークする意味はありません。すくなくとも私はそう思っています」
なるほどねぇ、越知さん、理詰めだなぁ。
あたしはメモを終えて、あたりを見回した。
「ところで、磯前さんといっしょじゃないんですか?」
「先輩はすこし遅れるとかで……あッ、来ましたよ」
遠くからバイクの排気音が聞こえた。
ふりかえると、海道沿いを一台の大型バイクが疾走している。
そのバイクはあたしたちの正面で止まった。
黒いバイクスーツの乗り手がヘルメットを脱ぐと、ボーイッシュな少女の顔が現れた。ここからでもよく日焼けしているのがわかる。
越知さんは手を振って合図する。
「磯前せんぱーいッ! こちらでーすッ!」
磯前さんはバイクを駐車場におろしながら、手を振ってあいさつを返した。
磯前さんは駐輪して、釣り道具を持ったままこちらのほうへ歩いてくる。
「ちわ、磯前だよ……犬井、ひさしぶりじゃん」
「おひさしぶり」
「なんか吉良と揉めたらしいじゃないか。内容は教えてもらえなかったけどさ」
おっとっと、危ない。
犬井くんはあたしを紹介して話をそらした。
「こちらは今回のパートナーの葉山光さんだよ」
「あ、葉山です。よろしくお願いします」
「よろしく。H島の駒桜から来たってほんと?」
「はい」
「もしかして裏見香子と知り合いだったりする?」
「おなじ高校です」
磯前さんはちょっとおどろいたらしく、
「あ、そうなんだ、世間は狭いな。帰ったらよろしく伝えといて」
と言って、そのまま浜辺へすたすたと歩いて行く。
あたしはうしろを追っかけながら声をかけた。
「今から釣りですか?」
「そうだよ」
波が打ち寄せる砂浜に、磯前さんは折りたたみ式の椅子をひらいた。
釣り竿の入ったバッグを開けると、手入れのされた竿が太陽に輝く。
シロートがみても高級そう。
「失礼かもしれないですけど、釣り竿って高いんですよね? おいくら円ですか?」
「これは有名ブランドの中堅で、ブランクス部分が10万ちょっと」
10万ッ!?
あたしが驚いていると、磯前さんはそこまで高いものではない、と答えた。
「高いのはもっとするよ」
「ふつうの釣り竿となにがちがうんですか?」
磯前さんは準備をしながら、ひとつひとつ説明してくれた。
「まず、釣り竿全体はタックルっていうんだ。タックルのうち、釣り糸を巻くリールとか仕掛けの餌を除いた部分をロッドって呼ぶ。で、このロッドの本体、つまり棒状の部分がブランクス。ブランクスもひとつの素材からできているわけじゃなくて、芯にシートが巻いてある」
「シート?」
「たとえばあたしのブランクスには、カーボンシートが巻かれてる」
あたしはよく観察してみる。わからん。
「……芯が骨で、シートが皮膚ってことですか?」
「いい発想だね。半分正解。芯は骨に近い。それを保護するのがシートで、このシートには繊維と樹脂が入っている。骨をおおう筋肉とか脂肪に近い。そして、この芯とシートにどういう素材をどれくらいの割合で使うかによって、値段がとうぜん変わってくる。あたしのはカーボン繊維にエポキシ樹脂で、一番オーソドックスなやつ」
なるほどなるほど、金属を棒状に切り出しているのかと思ったら、違うんだね。
磯前さんは、ブランクスにくっついているリングをゆびさした。
「この釣り糸を通して行く穴はガイド。この数と素材も、ロッドによってちがう。あたしのロッドの場合、先端のトップガイドから手元のバットガイドまで8個のガイドリングがついていて、これは心持ち多め。もっとついてるのもあるけどね。さらに、この糸を通すリングの素材も製品によって異なる」
あたしは、糸を通すリングのひとつを観察した。
「やっぱりカーボンですか?」
「正確にはシリコンカーバイト。シリコンに炭素を配合してる。このシリコンカーバイトが一般的なハイクオリティモデルかな。最近はセラミックもあるけど。あと……」
磯前さんは糸を巻くパーツをとりだし。なんだっけ、リール?
リールには糸が巻かれていて、磯前さんはそれをゆびさした。
「スピニングリール。別売りで2万5000円。これも高いほうじゃないよ」
うむむむ、もしかしてすごくお金のかかる趣味なのでは。
いや、もしかしてもなにもそうか。
磯前さんは手際よく糸をガイドに通して結び、しかけを作った。
メタルな青い小魚の模型を先につける。
「これは……ルアーってやつですか?」
「ソルト系のリップ付ミノーっていうタイプだね。ソルトは塩、つまり海釣用で、リップ付きっていうのは、ルアーの口の部分に突起があるだろう、このこと。ここに水流を受けて動きを出す。ミノーっていうのは淡水の小魚をminnowって呼ぶところからきてる」
へぇ、これはおもしろい。
ソルト系のリップ付ミノーっていう呼び方で、種類を完全に特定できるわけか。
「っと、思わず釣り談義しちゃったね。で、インタビューは?」
「あ、はい、それでは……将棋を始めたきっかけを教えてください」
「始めたきっかけ……ごめん、おぼえてない」
うーん、この返答、ひとりくらいいるかなぁと予想してたけど、まさか磯前さんとは。
「まったく?」
「いつのまにか指してた気がする」
「釣りとどっちが先でした?」
「釣り。おやじの影響で保育園のときからしてる」
なるほど……フィッシングのほうが本趣味ってオチ?
あたしは遠回しに聞いてみる。
「釣りがお好きなんですね」
「海が好きなんだよね。水産高校に通ってる理由もそれだし」
あたしは、海のどこが好きなのか、と尋ねた。
「そういう質問ってむずかしいな……じぶんがちっぽけな存在になれることかな」
「じぶんがちっぽけに……? それってむしろ鬱入りません?」
「鬱病はそうかもしれないけど、メンタル的な落ち込みの原因って、じぶんの力量に限界が見えちゃってるときじゃない? どうやっても成績があがらないとか、スポーツで活躍できないとか、そういうさ。こういう自然を前にすると、人間自体がちっぽけな存在だから、どうでもよくなるよね」
磯前さんはそう言って、キャスティングのかまえをとった。
じっと海面をにらみ、流れるようにルアーを放る。
数十メートル先まで飛んで、とっても小さな波紋がみえた。
すこしだけルアーが沈むのを待って、リールを巻き始める。緩急自在。
「インタビュー、続けてもいいよ」
「邪魔になりません?」
「全然。あるていどなら将棋もできるし」
えぇ、それはすごい。とはいえ、質問はのこり1個しかなかった。
「気になってる選手とか、います?」
磯前さんの目の色が、すこしだけ変わった気がした。
魚がかかったのかな、と思ったけど、すこしちがう。
「……優勝したいよね、やっぱり」
キターッ! こういうコメントを待ってました。
「優勝、狙ってますか?」
「謙遜するのは趣味じゃないから正直に言うけど、狙える位置だと思う」
これには越知さんが賛嘆して、
「さすがですねぇ、磯前先輩。私も先輩の優勝、アリだと思ってます」
とコメントした。
「ま、ふたを開けてのお楽しみだね……で、次の質問は?」
「今ので最後です」
その瞬間、釣り竿が大きくしなった。かかったみたい。
磯前さんは腕を引きながら、平然とした顔で、
「へぇ、吉良のときはもうひとつあったって聞いたけど?」
と言った。ぎくり。
あたしは正直に答える。
「あれは、昼休憩のときに犬井くんと相談しまして……一時的に撤回します。追加の質問がある場合は、全選手にあとでアンケを送ります」
「なるほど、平等にね」
磯前さんは体を左右に揺らしつつ、どんどんリールを回す。
白く砕けた波間から、腹がちょっぴり金色に光る魚があらわれた。
磯前さんは器用に手元へ引いて、あたしにみせた。
「沖アジ」
「サイズ的には? 大物?」
「まあまあじゃないかな」
磯前さんはルアーをはずして、魚をクーラーボックスに入れた。
「あとで食べるんですか?」
「フライにする。裏見もあたしの釣った魚、食べたことあるよ」
「瀬戸内海で隔てられてるのに、けっこう親しいんですね」
「まあ、恋愛相談*をされるくらいの仲かな」
……………………
……………………
…………………
………………なぬぅ!?
「そそそそ、そのお話、ぜひ」
「ん? それって仕事の範疇?」
磯前さんはそう皮肉って、ルアーをもういちどキャストした。
あたしは赤くなる。
「あ、いえ、その……今のは完全な野次馬根性で……」
磯前さんはそれを聞いて、はじめて微笑んだ。
「そうそう、日日杯もそういうノリでいきたいよね。肩肘張らずに、勝った負けたは二の次でさ……だけど緊張する。磯前好江も、まだまだ青春してるってことかな」
*215手目 磯前好江、恋愛相談を釣り上げる
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