346手目 同情、友情、愛情
※ここからは、新巻くん視点です。
「くしゅん」
感想戦の途中、兎丸は急にくしゃみをした。
ちょっとかわいいくしゃみだったから、俺は、
「女子が兎丸のことウワサしてるんじゃないかぁ」
とからかった。兎丸はマジメな顔で、
「うーん、こんな時間に僕の噂なんてするかな」
と答えた。兎丸のウワサしてる女子なんて、大勢いそうだけどな。
ま、つっこむのも野暮だ。俺はパシリと駒を打った。
兎丸は、棋譜のプリントとにらめっこする。
あごにこぶしをそえて、テーブルにひじをついた。
「……むずかしいね」
「去年の県竜王戦の決勝だもんな。御城vs丸目」
「御城先輩のチームとは当たる可能性が高いから、念入りに研究しておかないと」
県大会も近づいてきた。今やってるのは、俺と兎丸の自主研究会。
放課後ぶっとおしで、だいぶ疲れてきた。俺は椅子をうしろへ傾ける。
「ところで、今年はなんで六連のチームが出てないんだ? 魚住よりも、あっちのほうが強いんじゃないのか?」
「ああ、皆星の六連くんね。たしかに、個人戦の優勝候補は彼かな」
「中2から将棋を始めて中3で県代表って、ちょっとヤバいぜ?」
六連昴。皆星高校1年生。中3のとき、いきなりO道ブロック代表で出てきて、優勝をかっさらった強豪だ。同ブロックの魚住を負かしての出場だから、そこそこ強いんだろうな、とは予想されていた。けど、そこそこなんてレベルじゃなかった。もっとも、秋は魚住がブロック代表に返り咲いたし、早熟頭打ちタイプなのかな、とも思う。
ところが、兎丸はあんまり気にしていないみたいだった。
「皆星は層が薄いんだよ。団体戦は3人制だからね。六連くんが飛び抜けていても、魚住くんのいる黒潮高校のほうが層は厚かった、ってこと」
「さすが兎丸、冷静な分析だなッ!」
「うーん、ここをこうして……」
ガラリ
あ、ドアがひらいた。佐伯主将かな、と思ったら、全然ちがっていた。
シスター服を着た若い女性──顧問の渡邊先生だった。
「おやおや、まだ練習をなさっているのですね。もうすぐ暗くなりますよ」
校庭が赤く染まっている。もうこんな時間か。
俺は半分謝るような感じで、
「すみません、そろそろ帰ります」
と言ってから、兎丸に話しかけた。
「おーい、兎丸、渡邊先生から帰宅指示だぞ」
「こっちだと詰まないか……」
「おーい、兎丸ぅ」
兎丸はようやく顔をあげた。
「どうしたの?」
「渡邊先生が、もう帰れって」
「え? 渡邊先生が? ……あ、こんにちは」
マジかよ、今気づいたのか。
渡邊先生は笑って、
「ずいぶんと熱心に練習してらっしゃいますね。明後日から期末テストですよ」
と、やんわり釘を刺してきた。
「はい、新巻虎向、がんばって勉強します」
「それでは、消灯と戸締りを忘れないでくださいね。特に窓は確かめてください」
渡邊先生はそう言って、部屋を出て行った。
俺は片づけを始める。兎丸は、しばらく盤の前から動かなかった。
「おーい、兎丸、守衛さんが来たら困るぞ」
「……そうだね」
駒は駒箱に、盤は棚に。散らかってると、佐伯主将に怒られるからなぁ。
窓の鍵を全部チェックして、部屋を出た。守衛室へ鍵を返したあと、俺たちは校庭に出た。世界はとっくに青くなっていた。電灯がちらほらついている。俺は黒い学生カバンを肩で支えて、ゆっくりと歩き始めた。
兎丸は黙ったきりで、なにか考えごとをしているようだった。
「さっきの将棋、まだ気になるのか?」
「うん、ちょっと」
「……そっか」
俺は立ち止まった。兎丸はそれに気づかなかったらしく、俺の横を素通りする。
俺はカバンで背中を小突いた。
ふりかえった兎丸に、俺はニヤリと笑う。
「今の、中学のときによくやってたよな」
兎丸はきょとんとした。そして、今日初めて笑った。
「そういえばそうだったね。僕が詰め将棋に夢中で、よく先に行っちゃってた」
「だけど高校に入ってから……いや、中3の冬からしなくなったよな。だから……」
「しなくなったね、あの事件以来」
兎丸は口もとの笑みを消した。夕風が吹く。蝉の声が細くなっていく。
「なぁ、これは俺のカン違いかもしれないから、まちがってたら俺と兎丸の仲ってことで赦してくれよ……やっぱ、魚住との決勝戦、気にしてるんだろ?」
質問しておいてなんだが、俺は緊張していた。
聞いてはいけないことのような、そんな気がしたからだ。
ところが、兎丸の返答はあっさりとしていた。
「うん、そうだね」
俺は拍子抜けしてしまった。
「だ、だよな。『気にしてない。アレは事故だ』って言ってたけど、本音は……」
「そうだね、本音はめちゃくちゃ気にしてたね。虎向にはバレてたかな」
「あ、いや……なんとなくそうかな、って」
「そっか。じゃあ、僕の演技も捨てたもんじゃなかった、と」
俺は困惑した。ここまでストレートに認めてくるとは思わなかったからだ。
逆に不安になる。でも、兎丸は、そんな俺の不安を無視した。
「ちなみに、どこでそう感じたの?」
「県大会のあと、何度か試合があっただろ。そこで、兎丸が急にヤル気をなくした……ように感じた。最初は、非公式戦だからそう見えるだけなのかな、と思ったけど……」
「虎向のそういう観察力、好きだよ。あのあと、僕はスゴくやる気がなくなった」
「大一番での負けは、捨神先輩との対局でもあったじゃないか? なんで急に……」
「それとこれとは話がちがうよ。捨神先輩には実力で負けた。だから、納得がいくんだ。でも、あの県大会は……『運が悪いひとは実力と無関係に表舞台には立てない』っていう現実を突きつけられたんだよね。だから急に冷めた」
そばの街灯がついた。薄闇のなかで、俺と兎丸を照らし出す。
「なぁ……どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ?」
「早めに言ったら納得してくれた? ……ごめんごめん、そんな顔しないでよ。虎向なら分かってくれたと思うよ。でもさ、ほかのメンバーはどうかな? 僕が『魚住は絶対に許さない』って言ったら、納得してくれたのかな? 『古谷って人が良さそうなのに、意外と根に持つタイプなんだな。見損なった』とか、影で言われるのがオチじゃない?」
俺はそこまで聞いて、どこかで似たような会話をしたような気がした。
兎丸は先を続けた。
「僕はバカだよ。あそこでゴネる手はあったんだ。魚住くんの腕で持ち駒が見えなかったから、対局妨害だ、反則だ、ってね。そりゃあ、持ち駒を見せる義務はないさ。おそらく審判は『相手の持ち駒の把握は対局者の自己責任なので、見えていたかどうかは関係ありません』って言うだろう。だけど、ミス・ジャッジもありえたし、すくなくとも御城先輩なら時計を止めてクレームをつけたよ。捨神先輩だって、半分諦めたうえで審判を呼んだかもしれない。僕は、どちらもせずに投了した。それが古谷兎丸のキャラを崩さない唯一の方法だったから。そして、投了はすべてに優先する。勝負はそこで終わったんだ」
俺はしばらくのあいだ、なにも言えなかった。
だけど、兎丸は俺にコメントを求めているように感じた。
「……さっき、『根に持ってた』って言ったよな? 今はちがうのか?」
「いい質問だね……今は持ってないよ」
「だ、だよな。やっぱり時間が解決……」
「ううん、僕、魚住くんに直接言った気がするんだよね、最近」
「……マジか?」
「多分、ね。魚住くんに電話した記録があるし、魚住くんも僕に怒られたみたいな顔をしてたから、夜中に錯乱してクレームをつけたのかも。思い出しプッツンして電凸した可能性がワンチャンかな……ねぇ、虎向」
呼びかけられた俺は、子犬みたいにびくりとした。
あたりにはだれもいない。こんなときに限って。
「虎向は、僕がこういうタイプの男でがっかりした?」
俺はまた沈黙した。下手な答えは言えない……完璧な回答を……そこまで考えて、俺は兎丸の顔をみた。なんだか悲しそうな顔をしている。その瞬間、俺は今考えていたことがまちがいだと気づいた。兎丸が聞きたいのは、とりつくろった感想じゃないはずだ。
「まあ……ちょっと予想してた……かもしれない」
「どのあたりで?」
「兎丸は、小学生のころからほんときっちりしてただろ。そういう性格なんだろうなって思ってた。兎丸の家に遊びに行ったときも、部屋が女の子みたいにきれいで、俺と全然ちがう感じだったし……だけど、どこか……」
「作ったような印象を受けた?」
俺はうなずいた。
「兎丸の家って、父さんも母さんも教師なんだよな……兎丸の両親を悪く言うわけじゃないけど、小学生の俺にはちょっと怖かった。中学に上がったら、兎丸は俺を家に入れてくれなかったよな。いつも学校か俺の家で遊んでて……」
「僕の家には、漫画もゲームもなにもないからね」
「あ、うん……今もそうなのか?」
「もちろん。僕、捨神先輩のことをうらやましく思うことがあるよ。高校生でマンション住まいなんて、最高じゃないか。いろいろ噂はあるけど、ね」
うらやましく思うことがある──断言しなかったところに、俺は兎丸のためらいを感じた。そう、捨神先輩がマンションで一人暮らしなことを、みんなうらやましがっている。でも、変じゃないか。高校生が、しかもマンションで一人暮らしだなんて。両親が仕事でいない、というのなら分かる。だけど、捨神先輩の口から、両親の話が出たことは一度もない。箕辺会長と葛城副会長ですら、この件については何も知らないらしい。もしかして孤児なんじゃないか、っていうひともいるけど、だったらお金はどこから出てるんだ。
だから、いろんなウワサがたつ。そのなかで、俺が一番ありそうだと思ったウワサ──有名人の隠し子なんじゃないか、っていう憶測。捨神先輩は、かなりの美少年だ。父親も母親も有名な俳優かなにかで、マスコミから隠すために──いや、ゲスの勘ぐりだ。
兎丸は、しょうがなさそうに笑った。
「ほら、でもさ、親は選べないから。それに恨んでるわけじゃないよ。この話は、ここでおしまい。ところで、虎向はなにか言おうとしてなかった、最初?」
「え……あ、ああ……」
俺は、言いかけのセリフを思い出した。「だけど高校に入ってから……いや、中3の冬からしなくなったよな。だから……」どうする? 続きを言うか? さっきと状況がちがいすぎる……いや、迷うこともない。
「兎丸の背中をカバンで小突いたの、ひさしぶりだ……うれしかったぜ。それだけだ」
兎丸もほほえんだ。
「僕もうれしかったよ」
おたがいに見つめ合う。そして、俺から破顔してしまった。
「アッハッハ、やめやめ、こんなことしてるからデキてるってウワサが立つんだぞ」
「え? そうなの? 僕と虎向が?」
「とくに兎丸は女っ気がないからなぁ。エロい話もしないし」
兎丸はなぜか自信ありげに腕を組んだ。
「古谷兎丸は清潔男子なんだよ……まあ、女の子には興味あるけどね」
「……マジ?」
「その反応は、どういう意味?」
「いや……ほんとにないのかと思ってた」
「僕の演技、やっぱりまんざらじゃないね。気になる子にはアプローチかけてるよ」
「アプローチ!?」
「と言っても、反応うすいから、嫌われてるかも」
「ちょちょちょ、どこのどいつだッ!?」
「ハハハ、それは秘密だよ、推理したまえ、新巻虎向くん」
ちくしょー! 友情より愛情かッ! さっきまでの同情は、ぜんぶ撤回ダァ!




