243手目 襲いかかる狼
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5一角」
角の展開?
こういう将棋のとき、秒読み係だと損なんだよな。
深く読めない。
「そう来ましたか……」
早乙女は髪をなでて、ホテルの外を見やった。私も視線を追う。
午前の光にみちたH市が、静かにひろがっていた。
「10秒、1、2、3、4、5」
「6八銀」
「7五歩」
なんだその手は?
同飛なら8四角、7六飛、3三桂から中央に殺到する気か?
「同飛、8四角、8五飛は7六歩がありますね……では、単に8六飛で」
「8三銀」
「9六歩」
このタイミングで端歩?
「いい手だ」
将棋仮面は、早乙女の手を褒めた。
「9七角と覗くつもりだな。7三桂」
「見破られても、この手は止まりませんよ。9七角」
今度は、早乙女が5三の地点を狙っている。
次に8五桂、同桂、同飛で角道がひらく。
「楓さん、秒読み」
「分かってるって。10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「3三銀」
ムリヤリ中央を厚くしに来た。受けに回ってるな。
早乙女の攻めは強烈だぜぇ。変態お面野郎に受け切れるか。
「10秒、1、2、3、4、5、6」
「8五桂」
「同桂」
「同飛」
ここで、将棋仮面はお面のひたいに指をあてた。
「少々強引にいくか……8四銀」
ヒュー、後手の角筋が止まったぞ。こいつの善悪はどうなんだ。
3三にも出られないし、大渋滞だ。
「その手は後悔させたくなりますね。8六飛」
7六桂、7七歩、6八桂成、同金、4四銀。
将棋仮面は、桂銀交換を成功させた――が、これは先手ペースだ。
2〜3筋がガラ空き。
「10秒、1、2、3、4」
「2四桂」
3一金、2三桂、4二金、3一桂成。
「悪いが、そう簡単には勝たせん。2七歩」
将棋仮面は、いやらしいところに歩を垂らした。
これは直感的に手抜けない。手抜くと2八歩成。
「10秒、1、2、3」
「同銀」
やっぱり取ったな。
「7三角……これで俺の角は活きた」
早乙女は、また髪をなでた。手癖が悪い。
「強い手です……3八金」
3五銀、3二桂成、3三桂、4二成桂、同玉、3四歩。
「ん? 飛車の位置を変えにきたか?」
将棋仮面は、この手に若干考え込んだ。
「取るしかないと思いますよ。どうしますか、将棋仮面さん?」
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「同飛」
「3六歩」
銀取りに当てた? 4四銀で意味ないだろ?
一方、将棋仮面は心から感心したようすだった。
「なるほど、そういうことか。3四歩はいい手だった」
3四歩と3六歩がセットなのか?
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5二玉」
なにぃッ!? 銀を見捨てたうえに成桂も取らないのかッ!?
意味わかんねぇぞッ!
「唯一、踏ん張りの利く手ですね。追い込みます。3五歩」
「同飛」
早乙女は、まるで空中に盤があるかのように、サッと手をひるがえした。
「7四銀」
……………………
……………………
…………………
………………
そうかッ! ここに金駒を打つスペースがあるのかッ!
3六歩に4四銀と逃げたら、7四金と打たれるところだった。
しかもこの手順は、飛車が3四にいないと成立しない。3四歩は好打だ。
「その手は読んである。6二玉」
くッ、将棋仮面の5二玉は、この受けを用意するためだったか。
3一玉なら崩壊してた。レベルが高過ぎる。
「では、遠慮なく……7三銀成」
角を取り切った。
「同銀」
「4六角」
痛打。これはさすがに分かる。後手の7〜8筋は崩壊寸前。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「3四飛」
早乙女は3二成桂と追撃した。
「ひとまず、角道を止めるか……6四銀打」
「3三成桂」
同飛、8五桂、8四銀、7四金。
決まったッ! 将棋指しの勘からして、これは寄りだ。
将棋仮面も嘆息した。
「普通の非公式戦なら、投了している局面だ……9四桂」
「次の手で投了しますか? 5六飛」
将棋仮面は、お面の位置をうえにずらした。
かたちのよいアゴがのぞいた。肌も綺麗だ。十代にちがいない。
「赤き狼と指している時点で、この対局は普通じゃない」
「そのアダ名、あんまり好きではないのですけれど」
「通り名とは、そんなものだ……6五銀打」
徹底抗戦? これは6四角から切るだろ。
ところが、早乙女はすぐには指さなかった。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「4五桂」
挟撃形か。これでもいい。
狙いはおそらく、3三桂成じゃなくて6四角〜5三飛成だ。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「7四銀」
早乙女は6四角と切って、同歩に7三銀、同銀とさせてから飛車を突っ込んだ。
「さあ、どうしますか? そろそろ30分経過しますが」
「大山康晴の名言をおぼえているか?」
「……『助からないと思っても、助かっている』と?」
仁王立ちになった将棋仮面は、深くうなずいた。
「そう、助からないと思っても、助かっていることがある……7一玉」
なに……? いや、ここしか逃げ場所がないのは分かる……が、7三桂成で?
あるいは、7三桂不成でもいいと思うし、7三龍でもいいような気がしてくる。
それとも、飛車を取りにいく3三桂成か?
「7三龍には7二金打、7四龍、8三角、6四龍、4六桂がありますか……7三桂不成」
「6二金」
単に上がった? 5一龍で? 6一金打とはできないから、はじけないぞ。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5一龍」
「7二玉」
スッと、フロアの空気が変わった。
さすがの早乙女も、くちびるをむすんだ。
「受け駒なしで対応……? そのようなことが可能なのですか?」
「可能かどうかは、やってみなけりゃ分からない」
「……3三桂成です」
7三玉、8四銀、同玉、6二龍、7三銀、7二龍、8五金。
ん? 後手陣の金銀が3枚になった?
8六歩、同桂、同角、8三桂、9五桂、9四歩、8三桂成、同銀。
こ、これ、受かってねぇかッ!? すくなくとも即寄りはないぞッ!
「秒読みだ」
将棋仮面の催促に、あたしは舌打ちした。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「7六桂」
同金、8五歩、7四玉、8四金、同銀直、7六歩。
早乙女は、歩突きで後手陣にせまった。
うしろは龍が押さえてるから、これでも痛いはずだ。
「その龍には退いてもらう。6六桂」
ッ!?
「恐れていた手が来ましたか……同歩」
「5四角」
7二の龍と7六角出を同時にみてやがる。これは痛い。
「10秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「龍を捨てます。8四歩」
7二角、7五歩、8四玉、7四歩。
にゅ、入玉は阻止したか? 龍を捨てたのは好判断だった気がする。
先手の持ち駒は豊富だ。
「そろそろ反撃させてもらおう。4九銀」
「……同玉」
「8九飛だ」
王手角――また入玉模様になってきた。あたしは動揺する。
あそこから盛り返すか、普通? 受けが尋常じゃねぇ。
「楓さん、落ち着いて。まだ私のほうがいいわ」
「俺も同意しよう」
将棋仮面は、形勢が不利なことをあっさり認めた。
そして、最寄りのエレベーターまで歩いた。
「どうしました? 逃亡ですか?」
「悪いが、もう時間だ。30分経った」
「あら……指し掛けに?」
将棋仮面は、黙ってエレベーターのボタンを押した。
高級ホテルだけあって、あっさり上階まで昇ってくる。
「この局面で指しかけにしないか?」
「有利なほうが封じることもないでしょう。5九銀です」
エレベーターのドアがひらいた。
将棋仮面は、ひとさし指と中指で、敬礼のようなポーズをとった。
「5九銀だな。では、また会おう」
ドアが閉じた。あたしは大きく息をつく。
「ふぃぃ……つかれた」
「楓さん、ご苦労さま」
「最後、ゆずってやることなかったんじゃないか? 封じ手って言っても無制限だぜ?」
早乙女――赤き狼は、ゆるやかに髪をなでた。
「さあ……また会えるともかぎらないから……」
「ま、そりゃそうだが……おまえのアダ名を知ってたし、将棋関係者なんじゃ……」
そのとき、会場ホールのとびらがひらいた。
場所:H島ロイヤルホテルの廊下
先手:早乙女 素子
後手:将棋仮面
戦型:横歩取り後手8四飛型
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲3八銀 △7四歩 ▲3六歩 △7五歩 ▲3五歩 △7六歩
▲3七桂 △8二歩 ▲7六飛 △2四飛 ▲2五歩 △5四飛
▲7七桂 △5一角 ▲6八銀 △7五歩 ▲8六飛 △8三銀
▲9六歩 △7三桂 ▲9七角 △3三銀 ▲8五桂 △同 桂
▲同 飛 △8四銀 ▲8六飛 △7六桂 ▲7七歩 △6八桂成
▲同 金 △4四銀 ▲2四桂 △3一金 ▲2三桂 △4二金
▲3一桂成 △2七歩 ▲同 銀 △7三角 ▲3八金 △3五銀
▲3二桂成 △3三桂 ▲4二成桂 △同 玉 ▲3四歩 △同 飛
▲3六歩 △5二玉 ▲3五歩 △同 飛 ▲7四銀 △6二玉
▲7三銀成 △同 銀 ▲4六角 △3四飛 ▲3二成桂 △6四銀打
▲3三成桂 △同 飛 ▲8五桂 △8四銀 ▲7四金 △9四桂
▲5六飛 △6五銀打 ▲4五桂 △7四銀 ▲6四角 △同 歩
▲7三銀 △同 銀 ▲5三飛成 △7一玉 ▲7三桂不成△6二金
▲5一龍 △7二玉 ▲3三桂成 △7三玉 ▲8四銀 △同 玉
▲6二龍 △7三銀 ▲7二龍 △8五金 ▲8六歩 △同 桂
▲同 角 △8三桂 ▲9五桂 △9四歩 ▲8三桂成 △同 銀
▲7六桂 △同 金 ▲8五歩 △7四玉 ▲8四金 △同銀直
▲7六歩 △6六桂 ▲同 歩 △5四角 ▲8四歩 △7二角
▲7五歩 △8四玉 ▲7四歩 △4九銀 ▲同 玉 △8九飛
▲5九銀
まで139手で指し掛け




