242手目 数学少女と将棋仮面
「これより、第10回日日杯の開催に先立ち、説明会をおこないます」
司会のおっさんは、マイクを囃子原に渡した。
囃子原は、エラそうに咳払いした。
「諸君、おはよう。囃子原礼音だ」
会場にいた面子は、一斉に私語をやめた。
このあたりは、あいつの貫禄だよな。金も出してる。
「今日はせっかくの週末に、集まってくれて感謝している。まずは挨拶を、と言いたいところだが、僕もO山の県代表。選手としてここにいる。本格的な説明は、スタッフを提供してくれた高校将棋連盟H島支部幹事、月代晶子くんに任せたい」
バカデカいポニーテールの女が出てきた。
「えー、H島支部幹事の月代です。本日はお集りいただきまして、まことにありがとうございます。これから日日杯の日程、ルール、注意事項などを説明しますが、そのまえにスタッフのメンバーを紹介させていただきます。まず、日日杯の臨時幹事として、修身高校1年生の並木通くん、おなじく1年生で七日市高校に在籍の正力安奈さん。次に、県内各ブロックの代表として……」
ふわぁ……眠い。
こんなの訊く必要ねぇんだよなぁ。
あたしの名前も入ってるし。
「師匠、席はずしていいですか?」
「トイレ?」
煙草吸ってきます……とは言えないか。喫煙コーナーには人がいる。
「そのへんぶらぶらしてきます」
「あんまり遠くへ行かないようにね」
「小学生じゃないんですから。師匠こそ、迷子にならないでくださいよ」
ポケットに手を突っ込んで、あたしはホールを出た。
100万都市の町並みが、廊下のガラス越しに一望できる。H島城のそばなんだな。
「ぶらぶらするとは言ってみたものの……やることねぇな」
「楓さん」
うわっ、びっくりした。
「早乙女か……いきなり声をかけるなよ」
「いきなり肩を叩けばいいの? 名前を呼ぶほうが安全だと思うのだけど?」
あいかわらずの屁理屈野郎だな。
「おまえは県代表だろ? 抜けてもいいのか?」
「スタッフの紹介は聞いてもしょうがないし、日日杯のスケジュールは、伊代さんからだいたい教えてもらっているわ」
「いよ? ……ああ、E媛の伊代か。先週は、あいつも来てたのか?」
「ええ、カァプの応援をしてくれたわ」
そんなことはどうでもいいだろ。
あたしは呆れつつ、飴玉を交換した。
「つっても、ここじゃすることないぜ?」
「私は、飛瀬先輩から教えてもらった証明について考えたいわ」
ん? 飛瀬のやつ、早乙女にちゃんと数学教えられたのか?
「そいつは驚きだな。おまえの数学力を下方修正する必要がある」
「きっと数学のよくできるフレンズなのね。尊敬しちゃう」
こいつ、ほんとに馬耳東風だな。
せっかくいじってやったんだから、もうちょっと反発しろよ。
「どうする? 単なる説明会っぽいし、あたしは喫茶店に寄りたいんだけど」
早乙女は、腰まであるロングの髪をふわりとさせた。
「そうね……将棋でも指さない?」
「あ? ……おまえ、ケンカ売ってるのか?」
「将棋指しがふたりいて将棋を指すと、ケンカになるの?」
こいつ……このまえあんなことがあって、よくそういう誘い方ができるな。
まあ、あれはあたしも大人げなかったが……どうしたもんか。
「盤がないだろ?」
「あるわよ」
早乙女は、制服のポケットから折り畳み式のマグネット盤をとりだした。
「それかぁ。それあんまり好きじゃないんだよなぁ」
「目隠しでもいいわ。数学的思考において、必要なのは理性だけよ」
「おまえと目隠しは、やりたくないね。こう見えても、うぬぼれちゃいない」
あたしはマグネット盤をうけとって、てきとうに座る場所をさがした。
「お、ちょうどいい。そこのソファーで……ん?」
数メートル手前で、あたしたちは足をとめた。
先客がいたからだ――特撮キャラのお面をかぶった先客が。
「……早乙女、ちょっとフロアを変えないか?」
「あら、あれって日曜朝の7時にやってる、御面ライダー幽玄じゃない?」
早乙女の声につられて、先客は顔をあげた。バカ野郎ぉ。
「なんだ? 俺に用か?」
御面ライダーは、滑舌のいい澄んだ声で、そうたずねた。
これは意外だった。見た目が変だもんな。
「もういちど訊く。俺に用か?」
「べつに……」
「御面ライダーの撮影会でもしているのですか?」
だーッ、早乙女、いちいち会話のきっかけを作るなよ。
あたしは今すぐこの場から逃げたいんだ。ジーパンに白いTシャツだし、このホテルの宿泊客には見えない。っていうか、特撮のコスプレしてる時点でヤバい。
「いや、本を読んでいるだけだ」
「本? ……私には、詰めパラを解いているようにみえますが」
早乙女の指摘に、あたしはオヤっとなった。
言われてみると、表紙にはたしかに詰めパラと書いてあった。
「おまえ……日日杯の関係者か?」
あたしは、おっかなびっくり尋ねてみた。
「俺か? 俺は将棋仮面だ」
……………………
……………………
…………………
………………
「早乙女、ここは危険だ。ホールにもどろう」
「将棋仮面? 来年の御面ライダーシリーズは、将棋がテーマなのですか?」
会話のきっかけを作るなって言ってるだろうがーッ!
あたしは、早乙女の肩をひっぱった。だけど、早乙女はその場を動こうとしない。
どうする? あたしだけ逃げるか?
早乙女なら、案外数学でなんとかして……できるわけないか。
将棋仮面はソファーから腰をあげた。あたしは身構える。
「や、やるのか?」
「休憩だ」
将棋仮面は、腕時計を確認した。銀色に黒革のブランド品だった。
「まだ30分ほどあるな……おい」
将棋仮面(という名の変質者)は、あたしたちに声をかけた。
「おまえたち、将棋が指せるな」
「さあ……」
「はい、指せます」
「30分なら、目隠し将棋30秒で1局ってところか」
「早乙女、ホールへもどるぞ」
「30秒はギリギリです。20秒では?」
あたしは、早乙女の胸ぐらをつかんだ。
「早乙女ぇ! さっさとずらかるぞッ!」
「楓さん、落ち着いて。持ち時間の交渉をしているのよ」
「初対面の変質者と交渉するやつがあるかッ!」
あたしは将棋仮面をゆびさして、思いっきりにらみつけた。
すると、将棋仮面はさも平然としたようすで、
「すまない。不快にさせたのなら謝ろう。俺はウォーミングアップを必要としている」
と返してきた。
「ウォーミングアップぅ?」
「そうだ。このあと、将棋を指しに行く」
なにを言っているのか、意味が分からなかった。
混乱した拍子に、早乙女はあたしの腕をふりほどいて、一歩まえに出た。
「では、私がお相手しましょう」
「それは助かる……先後は?」
「おゆずりします」
将棋仮面は、「ふむ」と声をもらした。
「本来なら振り駒だが、スケジュールも押している。レディファーストだ」
「では、お言葉に甘えて7六歩」
「3四歩」
2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩。
こ、こいつら、マジで目隠し将棋を始めやがったッ! アホだろッ!
「このスピード、30秒でも良かっただろうに……同歩」
「同飛」
「8六歩」
同歩、同飛、3四飛、3三角、3六飛、8四飛、2六飛、2二銀。
「おさめます。8七歩」
早乙女は8七に打つかたちを選択した。
将棋仮面のほうは8四飛型か……こいつ、ただの変質者じゃないな。
いくら序盤とはいえ、目隠し将棋で符号があっさり出てくる素人はいない。
「5二玉」
この手に、早乙女は小考した。
将棋仮面は腕時計をはずして、あたしのほうに向かって投げた。
かるくキャッチする。
「20秒計ってくれ」
「チッ、あたしは秒読み係じゃないんだけどな……」
とはいえ、習性で計っちまう。
「10秒、1、2、3、4、5」
「5八玉」
「7二銀だ」
へぇ、片美濃か。最近よく見るかたちだ。
3八銀、7四歩、3六歩、7五歩、3五歩、7六歩。
あたしは、ヒューと口笛を吹いた。
「おたがいに過激だねぇ」
「楓さん、秒読みはしっかり」
「分かってるって……10秒、1、2、3、4、5、6、7」
「3七桂」
7六飛とは、取らなかったか。
振り飛党のあたしにはよく分からないけど、なにか意味があるんだろう。
将棋仮面も、こくりと首をたてに振った。
「俺のほうは動く手がないというわけか……やるな」
「あなたこそ、タダ者ではありませんね。どこかの県代表ですか?」
ん? その可能性、ぜんぜん考えなかったが、アリだぞ。大アリだ。
日日杯関係者なんじゃねぇか?
「楓さん、秒読み」
「おっと、わりぃ。15秒、16、17、18」
「8二歩」
渋い手だ。おそらくは2四飛とぶつける準備。
その代償として、後手は逃げ道が減った。
「7六飛」
「2四飛」
「2五歩……さあ、どこに逃げますか?」
「もちろん中央だ。5四飛」
細かくて、すぐには理解できないな。
7六飛は歩を払った手だが、2四飛は2五歩とわざと打たせたか?
ここで角交換をすれば、2八角がある。後手に選択肢が多い。
「7七桂」
案の定、早乙女は角交換を避けた。
数学の女王と互角に指してるこのお面野郎、何者だぁ?




