144手目 ラベンダー色の萩焼
「これはキツいな」
松平は、髪の毛をくしゃくしゃにする。
「もしかして、先手が一気に悪くなった?」
私は、使用人さんたちが立っている盤面全体を見渡した。
先手有利の形勢判断が、間違っていたのかしら。
「4七銀不成が、隠れた好手でしたね。5九飛に連携させるとは」
淡路さんの言う通りだった。普通なら、4七銀成として、3七の銀を回収するプランを立てたいところだからだ。私と松平も、ずっとその路線で読んでいた。
「8九飛成とされたら、ほぼ死んでるな……7九桂と打つか?」
松平の提案は、上下を同時に受ける手だった。
「咲耶さんの棋風からして、その手は指さないと思います」
淡路さんは、また違った発想をした。
「姫野先輩っぽいのは、どんな手ですか?」
「玉を引いて受けるのではないでしょうか」
玉引き? めちゃくちゃ危ないような……。
《9八玉です》
うわぁ、ほんとに玉引きで受けた。
これは一目、指したい手がある。
《8八歩》
そうそう、これよ、これ。
同玉なら8七歩と叩けるし、同金なら完全に棺桶だ。
姫野先輩が読んでないことはないと思うけど、心配になってくる。
《同金》
8七歩の叩きは許容できないから、さすがに棺桶を選択した。
以下、5六銀成、同金、8七歩、同金、8六歩、7七金まで決めたあと、一之宮さんは5六飛成とした。
「さすがの姫野先輩でも、これは受けないとツライな……ひとまず、8八歩か」
松平は、5八龍のインパクトを緩和する手を提案した。
「先受けしていけば、まだなんとかなりそうね。後手は歩がないわ」
歩が1枚でもあれば、どこかで7六歩と打って終わる将棋だ。
《8八歩》
鬼攻めの姫野先輩も、受けに回った。
《駒数がギリギリですね……5八龍》
ここで姫野先輩は、右手の人差し指を、顔のまえでピンと立てた。
《時には、正反対の思考をマネてみることも重要です……1八飛》
じ、自陣飛車ッ!?
《吉備さん好みのこの一手、どう攻めを繋ぎます?》
姫野先輩は、一之宮さんを挑発した。
たしかに、これは吉備さんが指しそうな手だ。
一之宮さんは、日傘でポンポンと手を叩きながら、にっこりと微笑んだ。
《さすがは咲耶さん、よいご友人をお持ちで……8七金》
一之宮さんは、金を放り込んだ。同金、同歩成、同玉、5七龍。
《9八玉》
後手の攻めが切れた。また先手有利に。
「もしかして、先手勝勢か?」
と松平。淡路さんは、「まだ分かりません」と言った。
「先手は、8六桂一発で詰みます」
8六桂……でも、後手の持ち駒に桂馬は……あッ!
《2四歩》
一之宮さんは、2五の桂馬を取りにきた。
《7七金》
姫野先輩、がっちりガード。
2五歩、6八銀、4七龍、6七角。
「らしくない手が続くなあ」
松平、嘆息。
私も、なんだか別人をみているようで不気味になる。
吉備さんの霊が降りてきてるとか?
《あまり慣れないことは、なさらないほうがよろしいかと。8六金》
なに、これ? いかにも駒が足りませんって感じの手なんだけど?
とりあえず理解できるのは、8五銀を助けたということだ。
姫野先輩は4六馬と引きつけて、ガチガチにする。
中盤を過ぎてるのに、男性陣と女性陣が、ほぼ明確に分かれていた。
「この勝負、まだ分かりませんよ。一手差にはしてくると思います」
「ここから一手差って、難しくない?」
「華蓮さんは、魔術師と呼ばれる終盤巧者ですから」
あんまり魔術師連呼してると、某佐伯くんが出てくるわよ。
7七金、同桂、8六桂、8九玉。
《4六龍》
かなめの龍を切った?
《その手がありましたか……同銀》
《うふふ、攻め将棋の咲耶さんならば、この手は見えておいでなのでは?》
一之宮さんは、ひと呼吸おいてから、7六銀と出た。
取ったら7八金で詰み。いきなり先手が怪しくなる。
《8一飛》
姫野先輩は、攻めつつ守る方針に切り替えた。
6七銀成、同銀、4九角。
詰めろじゃないっぽいけど、これも厳しい。
「後手玉は、ほぼ無傷だからな。このままだと押し切られるぞ」
さっきまでの楽観ムードは、どこへやら。
「とは言っても、7九桂〜8六飛成ってしたら勝ち確でしょ?」
《7九桂》
ほらほら、これで次になにか指したら、8六の桂馬を抜ける。
《7六金》
うげッ! こんな桂馬の助け方がッ!
この一之宮さんってひと、かなり変則的な手が得意みたいだ。
《6八銀》
姫野先輩は、馬を作らせない方針。
6九角、7八金、同桂成、同銀。
あらら、8六飛成と抜くヒマがなかった。金桂交換になってしまう。
《3六角成》
一之宮さん、一時撤退。
「これは受け切ったんじゃない?」
「飛車は渡してもいいから……銀を逃げつつ固めるか?」
松平の予想通り、姫野先輩は5七銀引とした。銀3枚のお城ができる。
《そこまで連携のよい囲いではありません。7七金です》
これも続かないような手に見える。
だけど、同銀右に8五桂で、また繋がってる気がしてくる。
なんだか不思議な心地のする終盤だ。
《そろそろ決めなければ、逆転されてしまいますか》
姫野先輩は、ここで少し時間を取った。
《……4八飛ですッ!》
攻めたッ!
大柄な男性が4八へ移動した途端、空が晴れ渡った。
雲の波が、東の空へと消えていく。
芝生の緑が明るさを取り戻して、花々も輝き始めた。
《その手は……なるほど……》
一之宮さんは、しばらく盤面をみつめた。
《7七桂不成》
同銀、7六歩、8六銀、7七銀。
《1五桂ッ!》
一之宮さんの手がとまる。
《8六銀成、4九飛車、7七歩成は、一手違いですか……》
その時点で後手玉には、3一角、1二玉(同金には2三金)、2四桂、同銀、2二金、同金、同角成、同玉、2三金までの詰めろが掛かっている。ぴったり。
一之宮さんは、空を見上げた。太陽が燦々と照って、気温がふたたびあがってくる。
彼女はフッと微笑んで、パッと日傘をさした。
《長引かせることもできますが、使用人たちに申し訳ありません。投了です》
姫野先輩の勝ち。拍手ぅ。
《皆様、ありがとうございました。持ち場へお戻りください》
一之宮さんの指示で、使用人さんたちはお屋敷へ引き払った。
対局者用のリフトが、地面の穴に収納される。
私たちは、観客スタンドをおりた。淡路さんも、メイドさんふたりに手伝ってもらう。
「姫野先輩、おめでとうございます」
とりあえず祝福しておく。
「昨年、攻め急いで失敗した経験が活きました」
二の轍は踏まないってことか。えらい。
「華蓮様、姫野様、お飲物を」
セバスチャンさんは、冷えたミネラルウォーターのグラスを差し出した。
「ありがとう、セバスチャン」
一之宮さんはそれをひとくち含んでから、私たちに声をかける。
「お待たせいたしました。お屋敷のほうへ、案内させていただきます」
一之宮さんは、建物の入り口にむかう途中でも、いろいろと花の紹介をしてくれた。なかでも一番珍しかったのは、竜舌蘭という、70年に一回しか花の咲かない蘭だった。
「わたくしも、まだ見たことがありません」
さいですか。70年に一回だと、おばあちゃんになっちゃうかも。
こうして、花の観賞を終えた私たちは、玄関から入り口のホールへ入る。劇場かなにかのようで、私と松平は唖然とした。美術品も多くて、絵と彫像がちらほらみえた。
「一之宮さん、こんにちは」
大理石の銅像に寄りかかっていた少年が、私たちのほうへ声をかけた。しっかりと整えられたショートヘアに、青いバンダナを巻いている。なかなかイケメンだ。目元がクールな感じで、声も落ち着いていた。ちょっと甲高いのだけが、気になる。
少年は白い開襟シャツに紺のズボンという出で立ちで、ずいぶんと軽装だった。
一之宮さんは日傘をセバスチャンさんに手渡しながら、
「これはこれは、お待たせして、申し訳ございません」
「構わないよ。館内の美術品を見せてもらって、いい暇つぶしになったから」
少年はそう言ったあとで、風呂敷包みをさしだした。一之宮さんは笑顔になる。
「まあ、いつもありがとうございます」
「注文の品だし、代金はもらってるからね」
この子、何者? さしいれかと思ったら、商品のようだ。
実家のお菓子を配達しに来たとか?
一之宮さんは、その場で風呂敷をといた。小さな木の箱が出てくる。蓋を開けると、湯のみがひとつ現れた。ラベンダー色のざらざらした表面に、雪のような白い釉薬が垂れている。なんだかファンタジーのようなアイテムだ。
「これはまた、美しいものをお造りで」
「今年に入ってから、一番出来がよかったかな」
ん? もしかして、この子の作品?
私が首を伸ばしていると、一之宮さんは私たちにも見せてくれた。
「手ざわりも、確かめてください」
姫野先輩がまず受け取って、いかにもそれらしい形で湯のみを確認した。
「さすがは萩尾さん、手にしっとりと吸い付くようです」
次に、私の番。
「……」
「どうですか?」
どうですか、って言われても――私は、少年の質問に困った。
「ところどころ、釉薬にヒビが入ってるんですね」
「それは貫入と言って、萩焼の特徴なんです」
萩焼?
「Y口のひとですか?」
「ええ、萩尾って言います。高校1年生です」
リムジンのなかで聞いた名前だ。私も自己紹介をする。
それから湯のみを、淡路さん、松平の順で回した。
見聞が終わると、いよいよ宿泊所へ案内されることに。どうやら個室のようだ。
「裏見様でございますね?」
メイド服を着た女性に声をかけられた。
「あ、はい」
「お部屋まで案内させていただきます」
姫野先輩と松平も、べつべつの使用人に声をかけられていた。
「では、のちほど」
「またあとでな」
私はいったん分かれて、2階へと案内される。赤い絨毯の廊下を進むと、一番奥のとびらのまえで止まった。
「こちらでございます」
メイドさんが鍵を開けて、部屋のなかへ。これまた、洋風ホテルみたいで凄い。テレビに個室シャワーもついていた。メイドさんは私に鍵を預けて、一礼。
「1階に大浴場と遊戯室がございますので、ご自由にお使いください」
私はお礼を言って、メイドさんを見送った。
荷物を整理して……どうしましょ。屋外観戦で汗をかいたから、シャワーを浴びたい。でも、さっき、大浴場があるって言ってたわよね。もしかして、温泉?
……………………
……………………
…………………
………………
とりあえず、入れるものは入っておきましょうか。
我ながら、貧乏くさいけど、うん。
私は着替えとタオルを持って、部屋をあとにした。
場所:一之宮邸の花園
先手:姫野 咲耶
後手:一之宮 華蓮
戦型:矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩 ▲6七金右 △5二金
▲7七銀 △3三銀 ▲7九角 △3一角 ▲3六歩 △4四歩
▲3七銀 △6四角 ▲6八角 △4三金右 ▲7九玉 △3一玉
▲8八玉 △2二玉 ▲1六歩 △8五歩 ▲2六歩 △7三銀
▲4六銀 △7五歩 ▲同 歩 △4五歩 ▲3七銀 △7五角
▲7六歩 △6四角 ▲4八飛 △7四銀 ▲4六歩 △同 歩
▲1七桂 △8六歩 ▲同 銀 △7三桂 ▲2五桂 △8五銀
▲7五銀 △同 角 ▲同 歩 △4七歩成 ▲同 飛 △5八銀
▲9五角 △8六歩 ▲7三角成 △8七歩成 ▲同 玉 △4七銀不成
▲8二馬 △5九飛 ▲9八玉 △8八歩 ▲同 金 △5六銀成
▲同 金 △8七歩 ▲同 金 △8六歩 ▲7七金 △5六飛成
▲8八歩 △5八龍 ▲1八飛 △8七金 ▲同 金 △同歩成
▲同 玉 △5七龍 ▲9八玉 △2四歩 ▲7七金 △2五歩
▲6八銀 △4七龍 ▲6七角 △8六金 ▲4六馬 △7七金
▲同 桂 △8六桂 ▲8九玉 △4六龍 ▲同 銀 △7六銀
▲8一飛 △6七銀成 ▲同 銀 △4九角 ▲7九桂 △7六金
▲6八銀 △6九角 ▲7八金 △同桂成 ▲同 銀 △3六角成
▲5七銀引 △7七金 ▲同銀右 △8五桂 ▲4八飛 △7七桂不成
▲同 銀 △7六歩 ▲8六銀 △7七銀 ▲1五桂
まで125手で姫野の勝ち




