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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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7話 少しだけ違う朝の風景

―4月 日曜日・朝―


日曜日の朝は、なんとなく時間がゆっくり流れる気がする。


前日までに花の納品も終わり、今日は久しぶりに完全なオフ。

掃除を終えて、紅茶でも淹れようかと思ったそのとき――

ふと、キッチンに置かれた紅茶の缶が空っぽなのに気づいた。


「……買いに行かなきゃ」


外は、春らしいやわらかな陽射し。

風も穏やかで、気温もちょうどいい。

日曜の朝に出かけるなんて、ずいぶん久しぶりだった。



紅茶屋さんに立ち寄って、お気に入りのアールグレイを買ったあと、

通りの角を曲がると、自然と足が止まった。


(……カフェ、寄っていこうかな)


なんとなく、あの空気に触れたくなった。

別に、誰かに会いたいわけじゃない。

でも、あのカウンターの木の質感とか、

あの場所の音とか香りとか、

ふいに恋しくなった。


日曜日の午前中なら、たぶん……いない。

そう思って、扉に手をかけた。



チリン――。

ドアを開けた瞬間、漂ってきたのは、珈琲の香りだった。


いつもと同じなのに、どこか少し濃く感じたのは、

朝という時間のせいか、それとも気持ちのせいか。


カウンターの奥で、マスターが少し驚いたように目を細めた。


「おや、珍しいね。日曜の朝なんて」


「紅茶が切れちゃって……なんとなく、寄ってみました」


「それなら、アールグレイと……今日はスコーン焼いてあるよ。ラズベリー入り」


「じゃあ、それもください」


ふと視線を奥へやったとき――

心臓が小さく跳ねた。


(……え)


彼がいた。


窓際の席。

ノートパソコンを開いて、背筋をやや丸めて画面に向かっている。

そして今日は、眼鏡をかけていた。


(……徹夜、したのかな)


いつもはめがねをかけていなかった。

それなのに今日は、黒縁のシンプルな眼鏡。

少し眠たそうな目元と、ゆるい前髪。

パソコンに映る光が、彼の横顔を青白く照らしていた。


なんでもない姿なのに、妙に色っぽかった。


目が合う前に視線を逸らして、

リリカは静かに壁際の席に腰を下ろした。



紅茶の香りに顔を寄せながら、そっと横目で彼を見た。

キーボードを叩く指先。

考え込むときの、顎に添えられる手。

カップに口をつけて、すこし首を傾ける仕草。


……全部、知ってる。

何度か見てる。

でも、今日はそれがどこか違って見えた。


眠気のせいか、眼鏡のせいか――

余裕が少し削がれていて、無防備に見えた。


そんな姿に、リリカの胸の奥がふわっと熱を持った。


(今日、来なければよかったかも)


(……でも、来てしまった)


彼は、ふとカップを持ち上げて視線を上げた。

目が合った。


眼鏡の奥の瞳は、ぼんやりとしているのに、

その一瞬だけ、確かに“こちらを見た”ように思えた。


けれど何も言わず、彼はまた画面へ視線を戻した。



会話もなかった。

名前も知らないまま。

でもリリカの中で、今日の“偶然”は、明らかに特別だった。


日曜の朝、たまたま来ただけ。

だけど、その「たまたま」が、胸に残る。


紅茶の香りと、珈琲の匂い。

眼鏡越しのまなざし。

それらすべてが、リリカの静かな日曜日に染み込んでいた。

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