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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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69話 アオイ過去編 虚無の夜、誰かの体温で埋めた穴

 あの頃の俺は、たぶん人生で一番どうしようもなかった。


 大学二年の後半。

 授業には一応出ていたし、必要最低限のレポートも出していた。単位を落とさない程度にはこなしていたから、周りから見れば「普通の大学生」に見えただろうと思う。


 でも、夜になるとすべてが崩れていた。


 誰かの部屋で、誰かのベッドで、誰かの腕の中で。

 名前を呼ばれ、頭を撫でられ、抱きしめられても、胸の奥にある冷たい穴はまったく埋まらなかった。


(触れられているのに、何も感じないな)


 そんなふうに考えている自分を、自分で見下ろしているような感覚だった。


 相手の女の子たちが悪いわけじゃない。

 みんな、普通に恋をしたいだけだったと思う。

 俺が笑えば嬉しそうにして、少し距離を詰めれば照れて、真面目な顔をすれば「優しいね」と言ってくれる。


 俺は、それに甘えていた。


「アオイって、ちゃんと話聞いてくれるから落ち着く」

「こんなふうに、人に甘えたことあんまりなかった」

「ねえ、もうちょっと一緒にいて」


 そう言われるたび、俺は腕の力を少しだけ強める。

 抱き寄せた身体はあたたかくて、匂いもして、生きている実感だけは一瞬だけ戻ってくる。


 でも、それ以上は何もない。

 心が動かない。

 兄の顔と、あの紅茶の香りが、すべての感情の先に立ちはだかっている。


(俺はただ、自分の空洞を埋めるために、誰かを利用しているだけじゃないか)


 そう気づいていながら、やめられなかった。



 ある女の子に、本気で泣かれたことがある。


「他の子と会ってるの、知ってるよ」

「私だけ見てって言えないけど……でも、そんな目で見つめないでよ」


 俺は何も言えなかった。

 謝ることも、期待を否定することもできなかった。あとはもう会わないようにするだけだ。


 綾乃のときと同じだと思った。

 俺と一緒にいることで、誰かがどんどん不安になって、壊れていく。

 俺は、その変化を止められない。


(俺と付き合ったら、また同じことになる)


 それだけははっきりしていたから、俺は「好き」という言葉を徹底して使わなかった。

 言わなければ、約束しなければ、裏切ってはいない――

 そんな幼稚な理屈にすがっていた。




 そして“最悪の夜”は、大学二年の冬に訪れた。

 兄を亡くした冬からちょうど一年経っていた。


 冷たい雨が降っていて、窓ガラスが細かく震えていた。


『今、どこ?』


 画面に表示されたのは、最近よく会っていた女の子からのメッセージだった。

 何度か一緒に夜を過ごしたことがある。よく笑うし、気遣いもできて、周りからの評判もいい子だ。


『家。これからレポート』と返そうとした指を、彼女の次の一言が止めた。


『なんか、もう限界かも。……来てくれない?』


 胸の奥が小さくざわついた。

 「限界」という言葉は一年経った今も嫌いだった。兄を思い出すからだ。


 行くべきじゃない、と頭のどこかで分かっていた。

 でも、放っておくこともできなかった。


『分かった。行くよ』


 そう返信して、俺は部屋を出た。




 彼女のマンションは大学から少し離れた場所にあった。

 エレベーターを上がり、インターホンを押すと、小さく「今開ける」と声が聞こえた。


 ドアが開いた瞬間、ふわっと香りが押し寄せてきた。


 紅茶の香りだった。


 それだけで、喉の奥がざらつくように痛んだ。

 足が一瞬だけ止まる。


「ごめん、散らかってて……今、ちょうど温かいの淹れたところ」


 彼女は気軽な調子で笑い、部屋の中へ招き入れた。

 テーブルの上にはマグカップが二つ。

 白い湯気の向こうで、琥珀色の液体が揺れている。


 鼻腔をくすぐる、あの懐かしい匂い。

 兄が亡くなったあの夜、閉ざされた部屋の前から漂ってきた香りと同じだった。


(やめてくれ)


 心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。


 彼女は俺の青ざめた顔に気づき、眉を寄せた。


「……やっぱり、何かあったよね」


 そう言って、隣に座りなおし、俺の手からカップをそっと取り上げた。

 代わりに、彼女自身の手が俺の指を包む。


 その優しさが、一番つらかった。


「いつも笑ってごまかすくせにさ。今日は全然、笑えてないよ」

「何があったか全部言えとは言わない。でも……一人で抱え込んで、どっか行っちゃいそうで怖い」


 「どっか行っちゃう」という言葉が、兄と重なった。


「……俺さ」


 掠れた声が、ようやく喉を抜けた。


「本当は、誰にも優しくする資格なんかないんだよ」


「そんなこと――」


「あるんだよ」


 思ったより強い声が出た。

 彼女が一瞬だけ目を見開く。


「俺が何してきたかも、何を見てきたかも知らないまま、『優しい人』だって思ってもらうのは楽なんだ。そう思ってもらったほうが、楽だから。……でもさ、本当はぐちゃぐちゃなんだよ」


「大事な人、一人も守れなかったくせにさ。

 抱きしめてほしいときに背中を向けて、逃げて……最後の顔もちゃんと見なかった」


 涙なんてもう出ないと思っていたのに、視界が滲んでいた。


「ごめん」


 誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。




 その夜、俺は彼女の部屋を出て、ふらふらと家まで歩いた。

 雨は止んでいたが、アスファルトはまだ濡れていた。


 部屋に戻った瞬間、足から力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。

 しばらく天井を見上げていたが、ふいに机へ向かった。


 引き出しから、無地のメモ用紙を一枚取り出す。

 ペンを握る手が震えていた。


(何やってるんだろうな)


 そう思いながらも、ペン先は勝手に動き出す。


――

もう何も感じたくなかった。

でも、目を閉じた先に浮かんだのは、

誰かの笑顔でも、未来でもなく、

ただ、紅茶の香りだった。

――


 書き終えた瞬間、胸の奥から何かがすうっと抜けた。

 楽になったわけじゃない。

 ただ、自分がどこまで壊れているのかを突きつけられただけだ。


 俺はその紙を本にはさみ、棚の奥に押し込んだ。

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