68話 アオイ過去編 大学一年の冬、紅茶の香り
大学に入学した春、桜は綺麗だったのに、俺の心は不思議なくらい軽くなかった。
新生活の期待もあったはずだ。
友達もできたし、講義も興味のあるものが多かった。
けれど、胸の奥にはいつも、黒い影のような重さが居座っていた。
たぶんその影は、中学での別れや、高校で“期待される自分”を演じ続けてきた疲れの名残だろう。
それでも春のうちは、それを「まあ、そんなもんだ」と受け流せるくらいの余裕はあった。
異変が起きたのは、夏が近づく頃だった。
兄が突然、家に戻ってきた。
就職したばかりだと聞いていたのに、ある日気づいたら自分の部屋で静かにしていた。
母に聞くと「少し疲れちゃったみたいでね」とだけ言われた。
その言い方が、かえって不安を煽った。
兄は昔から優秀で、努力家で、何より落ち着いていて、誰にでも優しかった。家族の前で弱音を吐く人ではなかった。
そんな兄が仕事を辞めて戻ってきたという事実を、俺はうまく飲み込めなかった。
「大丈夫なの?」
そう聞くと、兄は小さく笑った。
「平気。ちょっと休むだけ」
その笑顔が、痛いくらい弱って見えた。
夏から秋にかけて、兄は家で過ごす時間が増えた。
本を読んだり、散歩に出かけたり、紅茶を淹れて静かに飲んだりしていた。
兄は昔から紅茶が好きだった。
家のキッチンに、兄が気に入って買った缶や茶葉が並んでいるのを、俺はずっと知っていた。
しかしその頃の俺は、素直に兄の側に寄り添うことができなかった。
(なんであの兄が、こんな状態になってるんだよ)
そんな苛立ちが、心の底に沈殿していった。
俺は大学での生活を理由に家を空ける時間を増やし、夜遅く帰る日も多くなった。
友達と騒ぐことで、ごまかしていたのかもしれない。
誰かに必要とされている感覚が欲しかったのかもしれない。
けれど家に戻って兄の姿を見るたび、胸の奥に嫌な痛みが走った。
そして、それは最悪の形で爆発した。
ある冬の夕方。
兄がリビングでぼんやりしている姿を見たとき、俺の中で何かが切れた。
「……何してんの?」
「別に。ちょっと、考えごと」
「考えごとって……仕事、また行けそうなの?」
兄は答えなかった。
その沈黙に、俺は勝手に傷ついた。
あの完璧だった兄が、こんなふうに何も言わずに俯いている。
その姿を受け入れることができなかった。
「……なんで黙るんだよ。前みたいにちゃんと話せよ」
兄は困ったように微笑んだだけだった。
何も言わないその優しさが、逆に腹立たしかった。
「そんな顔してるくらいならさ、もっとちゃんと……生きろよ」
「お前みたいなやつは、結局誰の役にも立たない」
「何をやっても中途半端で、口先ばかりだ」
言ってしまった瞬間、後悔が喉の奥にせり上がった。
けれど兄は反論せず、ただ黙って俺を見つめていた。
その沈黙が、俺には耐えられなかった。
逃げるように部屋に戻った。
謝りに行こうと思った。
本当はすぐにでも行くべきだった。
でも、素直になれなかった。
兄の落ち込んだ目を直視する勇気がなかった。
そしてその夜、部屋中に紅茶の香りがした。
母が叫んだ声が、今でも耳に残っている。
兄の部屋の前で取り乱す母を見た瞬間、心臓が一瞬止まったような気がした。
兄は、静かに横たわっていた。
ベッドのそばのマグカップに、冷めた紅茶が残っていた。
――最後に、好きだったものを飲みたかったのだろう。
それだけで十分すぎるほど伝わってきた。
遺書はなかった。
けれど、この静けさがすべてを示していた。
(俺の……せいだ)
その事実が雪より冷たく胸に落ちた。
身体が固まったように動けなかった。
手が震え、呼吸がうまくできなかった。
母を支えることさえできなかった。
兄の顔は、穏やかだった。
その穏やかさが、逆に俺を追い詰めた。
俺があんな言葉を吐いたから。
あれを最後に、兄は何も言わなかった。
俺は逃げて、謝らなかった。
取り返しのつかないものは、こんなにも簡単に壊れてしまうのか。
その日を境に、俺の中で何かが決定的に折れた。
冬が終わる頃、俺は自分でも驚くほど無感情になっていた。
大学に行っても、講義内容は頭に入らない。
ふとした瞬間に紅茶の香りを思い出して、息が詰まる。
家に帰れば母の泣き声がして、胸がぎゅっと痛む。
耐えられなかった。
全部から逃げたかった。
そして俺は――
“誰かのぬくもり”に逃げ込むようになった。
好意を向けられることが、温度だった。
抱きしめられることが、生きている実感だった。
女の子たちは俺を求めた。
俺も求められることで、自分の存在価値を確かめた。
そこに愛はなかった。
ただ、溺れていた。
兄の死から目を逸らすように。
紅茶の香りから逃げるように。




