表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

70/72

68話 アオイ過去編 大学一年の冬、紅茶の香り

 大学に入学した春、桜は綺麗だったのに、俺の心は不思議なくらい軽くなかった。


 新生活の期待もあったはずだ。

 友達もできたし、講義も興味のあるものが多かった。

 けれど、胸の奥にはいつも、黒い影のような重さが居座っていた。


 たぶんその影は、中学での別れや、高校で“期待される自分”を演じ続けてきた疲れの名残だろう。

 それでも春のうちは、それを「まあ、そんなもんだ」と受け流せるくらいの余裕はあった。


 異変が起きたのは、夏が近づく頃だった。




 兄が突然、家に戻ってきた。


 就職したばかりだと聞いていたのに、ある日気づいたら自分の部屋で静かにしていた。

 母に聞くと「少し疲れちゃったみたいでね」とだけ言われた。


 その言い方が、かえって不安を煽った。


 兄は昔から優秀で、努力家で、何より落ち着いていて、誰にでも優しかった。家族の前で弱音を吐く人ではなかった。

 そんな兄が仕事を辞めて戻ってきたという事実を、俺はうまく飲み込めなかった。


「大丈夫なの?」

 そう聞くと、兄は小さく笑った。


「平気。ちょっと休むだけ」


 その笑顔が、痛いくらい弱って見えた。




 夏から秋にかけて、兄は家で過ごす時間が増えた。

 本を読んだり、散歩に出かけたり、紅茶を淹れて静かに飲んだりしていた。


 兄は昔から紅茶が好きだった。

 家のキッチンに、兄が気に入って買った缶や茶葉が並んでいるのを、俺はずっと知っていた。


 しかしその頃の俺は、素直に兄の側に寄り添うことができなかった。


(なんであの兄が、こんな状態になってるんだよ)


 そんな苛立ちが、心の底に沈殿していった。


 俺は大学での生活を理由に家を空ける時間を増やし、夜遅く帰る日も多くなった。


 友達と騒ぐことで、ごまかしていたのかもしれない。

 誰かに必要とされている感覚が欲しかったのかもしれない。


 けれど家に戻って兄の姿を見るたび、胸の奥に嫌な痛みが走った。




 そして、それは最悪の形で爆発した。


 ある冬の夕方。

 兄がリビングでぼんやりしている姿を見たとき、俺の中で何かが切れた。


「……何してんの?」


「別に。ちょっと、考えごと」


「考えごとって……仕事、また行けそうなの?」


 兄は答えなかった。


 その沈黙に、俺は勝手に傷ついた。

 あの完璧だった兄が、こんなふうに何も言わずに俯いている。

 その姿を受け入れることができなかった。


「……なんで黙るんだよ。前みたいにちゃんと話せよ」


 兄は困ったように微笑んだだけだった。

 何も言わないその優しさが、逆に腹立たしかった。


「そんな顔してるくらいならさ、もっとちゃんと……生きろよ」


「お前みたいなやつは、結局誰の役にも立たない」

「何をやっても中途半端で、口先ばかりだ」


 言ってしまった瞬間、後悔が喉の奥にせり上がった。

 けれど兄は反論せず、ただ黙って俺を見つめていた。


 その沈黙が、俺には耐えられなかった。


 逃げるように部屋に戻った。


 謝りに行こうと思った。

 本当はすぐにでも行くべきだった。


 でも、素直になれなかった。

 兄の落ち込んだ目を直視する勇気がなかった。




 そしてその夜、部屋中に紅茶の香りがした。


 母が叫んだ声が、今でも耳に残っている。

 兄の部屋の前で取り乱す母を見た瞬間、心臓が一瞬止まったような気がした。


 兄は、静かに横たわっていた。

 ベッドのそばのマグカップに、冷めた紅茶が残っていた。


 ――最後に、好きだったものを飲みたかったのだろう。


 それだけで十分すぎるほど伝わってきた。


 遺書はなかった。

 けれど、この静けさがすべてを示していた。


(俺の……せいだ)


 その事実が雪より冷たく胸に落ちた。


 身体が固まったように動けなかった。

 手が震え、呼吸がうまくできなかった。

 母を支えることさえできなかった。


 兄の顔は、穏やかだった。

 その穏やかさが、逆に俺を追い詰めた。


 俺があんな言葉を吐いたから。

 あれを最後に、兄は何も言わなかった。

 俺は逃げて、謝らなかった。


 取り返しのつかないものは、こんなにも簡単に壊れてしまうのか。


 その日を境に、俺の中で何かが決定的に折れた。




 冬が終わる頃、俺は自分でも驚くほど無感情になっていた。


 大学に行っても、講義内容は頭に入らない。

 ふとした瞬間に紅茶の香りを思い出して、息が詰まる。

 家に帰れば母の泣き声がして、胸がぎゅっと痛む。


 耐えられなかった。

 全部から逃げたかった。


 そして俺は――

 “誰かのぬくもり”に逃げ込むようになった。


 好意を向けられることが、温度だった。

 抱きしめられることが、生きている実感だった。


 女の子たちは俺を求めた。

 俺も求められることで、自分の存在価値を確かめた。


 そこに愛はなかった。

 ただ、溺れていた。


 兄の死から目を逸らすように。

 紅茶の香りから逃げるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ