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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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66話 アオイ過去編 逃避


 綾乃と別れたあと、アオイの机の上には参考書が開かれることはほとんどなくなった。

 以前は兄と競うように勉強し、母に褒められることもあった。だが今は、鉛筆を握っても数分で放り出してしまう。ノートの白いページを前にしても、何も頭に入らない。


「お兄ちゃんを見習いなさい」

 母の口癖は変わらなかった。兄はすでに難関大学への合格を決めており、親戚からも近所からも「立派なお兄さん」と言われていた。

 そのたびにアオイの胸に暗い影が落ちる。努力すれば報われる、そう信じていた。だが大切な人を守れずに失った今、努力の意味など感じられなかった。


 成績は急落した。先生に呼び出され「このままではまずいぞ」と言われても、心には響かなかった。

 どうせ俺は兄みたいにはなれない――そう思い込むことで、何もかもから逃げた。


 放課後は、自然と似たような仲間とつるむようになった。

「九条、一緒に行こうぜ」

 ゲーセンでゲームに熱中し、カラオケで夜遅くまで歌い、ファストフード店でポテトをつまみながら馬鹿話に笑い合う。

 その瞬間だけは、綾乃の涙や兄との比較を忘れられる気がした。


 けれど、心の底では常に虚しさが広がっていた。

 笑い疲れて家に帰る夜道、街灯の下でふと思い出すのは綾乃の笑顔だった。何気ない会話、並んで歩いた放課後、ぎこちなく交わしたキス。

「普通でいたい」と泣きながら言った彼女の言葉が、耳にこびりついて離れなかった。


 仲間と過ごす時間は楽しかった。けれど、それは綾乃の不在を誤魔化すための騒ぎにすぎない。

 本当は、彼女と一緒に過ごした静かな日常のほうが、ずっと特別だったのだと気づいていた。


 兄の姿はますます眩しかった。夜遅くまで机に向かい、参考書を積み上げ、合格を勝ち取った兄の背中。

 母は誇らしげに話す。

「お兄ちゃんは立派ね。アオイも頑張ればできる子なんだから」

 頑張れば――その言葉に、アオイの心は冷え切っていった。


(俺にはもう、頑張る理由なんてない)


 学校では「モテる九条」として女子から声をかけられることも多かった。だが、アオイは曖昧に笑って流した。

 新しい恋をする気にはなれなかった。綾乃の存在が大きすぎて、誰かを本気で好きになることなど考えられなかった。

 そのうえ「俺が一緒にいることで、また誰かを傷つけるんじゃないか」という恐れもあった。


 だからこそ、遊びに没頭した。恋を避け、勉強から逃げ、ただ仲間と時間を潰す。

 家に帰れば、兄の机に並ぶ参考書と母の笑顔。

 その対比が、ますます自分を小さく見せつけた。


 中学卒業が近づいたころ、進路調査票に書いたのは「近所の誰でも入れる高校」の名前だった。

 先生に「本当にこれでいいのか」と問われても、アオイは首を横に振らなかった。

 いい大学に行く兄と違い、彼にはもう未来を思い描く気力はなかった。


 ――あの頃のアオイにとって、毎日はただ「逃げ続けるための時間」だった。

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