65話 アオイ過去編 別れ
中学三年の春。
桜が咲き、新しい学年が始まった。教室の雰囲気も変わり、受験を意識した空気が漂い始める。だがアオイにとって、その年の始まりは重苦しいものだった。
綾乃と過ごす時間は確かにあった。だが、それは以前のように笑いに満ちたものではなく、周囲の視線に怯えながら隠れるようにして交わす小さな会話になっていた。
休み時間。隣の席で綾乃がノートを開いていると、後ろの席の女子たちがわざと聞こえるように囁く。
「綾乃って地味なのに、よく九条と付き合えるよね」
「どうせすぐフラれるよ」
その声に綾乃の肩が震える。アオイは睨みつけたい衝動に駆られたが、彼女を余計に傷つける気がして、何も言えなかった。
放課後、一緒に帰る道すがら、綾乃はぽつりと呟いた。
「ねえ、アオイ君って……なんで私なんかを選んだの?」
「なんかって……そんなの、俺が綾乃を好きだからだよ」
必死に答えると、綾乃は弱々しく笑った。
「そう言ってくれるのは嬉しい。でもね、私、自分に自信がなくなるの。みんなの言葉が怖くて……」
アオイは「大丈夫だ」と繰り返した。だが、自分の言葉が綾乃の不安を消せていないことは分かっていた。
夏休み前。
帰り道、二人は公園のベンチに座っていた。夕暮れの光が差し込み、蝉の声が響いている。
綾乃が口を開いた。
「……ごめんね」
その声だけで、アオイの心臓は冷たくなった。
「何が?」
「もう、一緒にいられない」
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「どうして……?」
「アオイ君といると、すごく幸せ。でも、普通でいられなくなるの。周りが騒いで、私のことを変なふうに見る。……怖いの」
綾乃の瞳は涙で揺れていた。
「俺が守るって言っただろ」
「アオイ君は優しいよ。でも、私……強くないんだ。ごめん」
アオイは言葉を失った。
どれだけ必死に手を伸ばしても、綾乃の心はもう遠ざかっていた。
その日を境に、二人は会話をしなくなった。廊下ですれ違っても、ただ軽く会釈するだけ。
アオイは教室で笑顔を見せ続けたが、心の奥は空っぽだった。
勉強にも身が入らなくなった。机に向かっても文字が頭に入らず、成績は落ちていった。母は「お兄ちゃんを見習いなさい」と言った。兄は大学に向けて努力を続け、家でも勉強机に向かっている。アオイはその背中を見て、深い劣等感を覚えた。
(俺は……何も守れなかった。何もできなかった)
中学三年の夏。
初恋の終わりは、アオイの心に深い影を落とした。
綾乃の涙の記憶は、彼の胸に消えることなく刻まれ続けることになる。




