58話 いつもの木曜日
木曜日の午後、私はいつものようにカフェの扉を押した。
カラン、と軽やかなベルの音が響き、深煎りコーヒーの香りが迎えてくれる。あの香りに包まれると、ここに来たんだな、と胸の奥が少し落ち着く。
今日は少し特別な気持ちでいた。
久しぶりに、アオイさんと二人でゆっくり話せるかもしれない。最近は美月さんやノノも一緒で、賑やかなのは楽しいけれど、やっぱり彼と静かに向き合える時間を欲していた。
私はいつもの席に座り、紅茶を注文した。
カップが運ばれてきても、どこか落ち着かない。入口のベルが鳴るたびに顔を上げたけれど、現れるのは他の客ばかりだった。
(まだ来ない……)
きっと仕事が忙しいのだろう。そう思い込もうとした。
けれど、待てども待てども、彼の姿は見えなかった。
紅茶の表面に立ちのぼる湯気がゆっくりと消えていくのを眺めながら、胸の奥に不安が少しずつ広がっていく。
――この前のキス。
あれは、いったい何だったのだろう。
不意打ちのように近づいてきて、唇が触れた。
心臓が爆発しそうなほど高鳴ったのに、彼は何も言わなかった。付き合おうとも、好きだとも。
(忘れたい、なんて思ってるのかな)
(それとも、私の勘違い?)
カップを持つ手が震えた。
期待していた自分が馬鹿みたいに思えて、唇を噛んだ。
私はかつて、元彼に尽くして尽くして、最後には捨てられた。
「私がいれば幸せにできる」なんて信じて、未来を夢見て、それでも裏切られた。
あの頃の私は、自分の存在ごと否定された気がして、生きる気力を失っていた。
今のアオイさんの態度は、どこかあの頃に似ている。
甘く引き寄せるのに、手を離すのも早い。
私はまた同じ道を歩いてしまうのだろうか。
「リリカちゃん、アオイくん待ってるの?」
カウンターからシノさんが声をかけてくれた。
私は笑顔を作り「はい。連絡してないんですけど」と答える。
その笑顔は、きっと上手に貼りつけた仮面だった。
「アオイくん来ないかもな。朝からバタバタしてたみたいだから」
何気ない口調だった。
でもその言葉に胸がちくりと痛んだ。
来ない理由があるのなら、それでいいはずなのに。私は勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる。
紅茶を飲み干しても、心は冷えるばかりだった。
窓の外は夏の陽射しが強く、ガラス越しに熱気が伝わってくるのに、胸の奥は冬のように冷えている。
(会いたいのに。
でも、こんな気持ちになるくらいなら、もう関わらないほうがいいのかな)
そんな弱気な声が心の中でささやく。
けれど同時に、この前の熱が唇に残っていて、忘れられない。
席を立ち、会計を済ませると、外の光がまぶしくて目を細めた。
背中に残るのは、椅子の温もりと、彼が来なかったという事実。
歩き出す足は重く、胸の奥に小さな棘を抱えたまま、私は家路についた。
――彼が来なかった木曜日。
たったそれだけのことが、どうしようもなく私を揺らしていた。




