57話 過去の断片
日曜の朝。
窓の外では蝉が鳴き止むことなく響き、照りつける夏の日差しがアスファルトからむせ返るような熱を立ち上らせていた。
PCの画面に資料を映し、手元にはコーヒーを置いた。けれど、視線は何度も文字を滑っていくだけで、内容はまったく頭に入ってこなかった。
コーヒーを口に運んでも、深煎りの苦味は胸に広がらない。ただ喉を通っていくだけだ。
昨夜から続く胸のざわめきは、どうやっても消えてくれなかった。
扇風機の羽が唸りをあげても、胸の奥のざわめきは冷めなかった。
理由はわかっている。
――昨夜から、あの日の夢を繰り返し見ていたからだ。
夢はいつも十二月に戻る。
冷え切った空気と、白く浮かぶ自分の吐息。
窓枠には霜が張りつき、部屋には湯気の立つ紅茶の香りが満ちていた。
兄は紅茶が好きだった。
夜遅くに帰ってきても、必ずポットに湯を沸かし、茶葉を落とす。その音を聞くだけで安心したこともある。
「ただの習慣みたいなもんだよ」
そう笑う兄の横顔を、今も鮮明に覚えている。
けれど、その冬。
兄は一人で紅茶を淹れ、その香りの中で静かに息を引き取っていた。
机の上には、まだ湯気の立つカップ。けれどその隣にあるはずの遺書はなかった。
最後に彼が望んだのは、きっと大好きだった紅茶の香りに包まれて眠ること――それだけだったのかもしれない。
思い出すたび、胸の奥が引き裂かれる。
なぜなら、その日、俺は兄に言葉の刃を浴びせていたからだ。
『お前みたいなやつは、結局誰の役にも立たない』
『何をやっても中途半端で、口先ばかりだ』
今思えば、ただの苛立ちだった。
調子に乗っていた俺は、自分を大きく見せるために、兄を踏み台にした。
投げつけた言葉の直後、兄が驚いたように目を見開き、それから静かに伏せた表情だけが、何年経っても焼き付いて離れない。
そしてその夜。
兄は最後の紅茶を淹れ、香りに包まれて、この世を去った。
(俺が……殺したようなもんだ)
そう思い続けてきた。
それ以来、紅茶は俺にとって罪の象徴になった。
香りが漂うたびにあの日の光景が蘇り、胸を締めつける。
だから俺は紅茶を避け、代わりに香りの強い深煎りコーヒーを飲むようになった。
紅茶の記憶を押し流すように。
夏の蝉時雨の中にいても、俺の心は十二月の凍りついた部屋に囚われている。
冷たい空気。白い息。あの紅茶の香り。
時間だけが流れ、俺は取り残されたままだ。
あの日から、俺は決めた。
――大事な人を作ってはいけない。
――誰かを愛してはいけない。
自分の言葉で、また誰かを壊すから。
それなのに。
リリカに触れてしまった。
夏の夜の熱の中で、俺は彼女に「キスしていいか」と問いかけ、そして唇を重ねた。
胸を焦がす感覚は、罪と同時に強烈な幸福でもあった。
守るどころか、また壊してしまう未来しか見えないのに。
(繰り返すな。あの頃の俺に戻るな)
必死に自分に言い聞かせても、指先は彼女にメッセージを打ちそうになる。
メールを開いては閉じる。その動作を何度も繰り返す。
結局、一文字も送れなかった。
夏の太陽は高く昇り、窓から差し込む光は強烈だ。
だが俺の胸には、十二月の冷気が今も居座り続けている。
紅茶の香りとともに兄が消えた冬に、心だけが閉じ込められたまま。
今日もまた、曖昧な笑みを貼りつけて生きる。
リリカが決して知らない、この影を抱えながら。




