54話 笑顔の裏で
夜、部屋に戻ると、急に体が重くなった。
扇風機を回し、窓を少し開けると夏の湿った風が入り込む。
昼間の蝉の声はもう消えていて、代わりに遠くの祭り囃子のようなざわめきが微かに聞こえてくる。
私はベッドに腰を下ろし、靴を脱ぎ捨てるようにして横になった。
笑顔を張りつけて過ごしたせいで、頬の筋肉がまだ引きつっている気がする。
(……本当は、全然笑ってなんかいられなかったのに)
思い出すのは、昼間の光景。
アオイが美月と並び、自然に会話していた姿。
別にやましいことじゃない。わかってる。
でも、私の胸にはどうしようもない不安と嫉妬が残った。
そして、昨夜のこと。
夜道で交わしたキス。
心臓が跳ねて、世界が一瞬止まった。
けれど――彼はそれ以上何も言わなかった。
「付き合おう」でも、「好きだ」でもなく、ただ曖昧な沈黙だけ。
その曖昧さが、過去の傷を呼び起こす。
元彼もそうだった。
優しい言葉をかけ、未来を語りながら、最後にはあっさり手を離した。
必死に尽くしたのに、気づけば私は「捨てられた」側だった。
あのときの虚しさと痛みが、今も鮮明に残っている。
(……アオイも、同じ?)
心の奥で疑いが囁く。
でも同時に、彼を思い出すと胸が熱くなるのも事実。
怖いのに、惹かれてしまう。
逃げるべきなのに、目を逸らせない。
引き出しを開け、ノートの間に挟んだ小さな紙片を取り出す。
図書館の本から落ちたメモだ。
何度も眺めてきたその紙には、短い言葉だけが書かれていた。
それが何を意味するのか、私は知らない。
アオイの過去も、彼が何を抱えているのかも。
ただ、この紙が彼にとって大事なものだという直感だけがあった。
(知りたい……でも、怖い)
胸に抱きしめるようにしてメモを握りしめる。
窓の外から夜風が吹き込み、カーテンを揺らした。
夏の匂いと一緒に、不安も揺れて入り込んでくる。
私は目を閉じる。
でも浮かんでくるのはアオイの横顔ばかり。
不安と恋しさ、そのどちらも消えないまま、浅い眠りに沈んでいった。




