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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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51話 夏の夜に重なる影

唇が離れた瞬間、生ぬるい夜気が間に入り込む。

 触れたのはほんの数秒――それなのに、体の奥にまだ熱が残っている。


 ……やってしまった。


 我慢するつもりだった。

 ノノと笑っていたリリカを見ても、言葉にせずやり過ごすつもりだったのに。

 帰り道、無意識に距離を詰め、あのまま引き返せなくなった。


 横を歩くリリカは、いつも通りの歩幅を保っている。

 顔は少し伏せ気味で、視線は前。

 ――何を考えているのか、わからない。


「……ごめん」


 口から出たのは、それだけだった。

 恋人になろうとか、好きだとか、そういう言葉は出せない。

 出してしまえば、自分の中の何かが壊れる気がして。

 


「……ううん」


 短い返事。

 それ以上、会話は続かない。


 気まずい。

 でも、手を伸ばせば、また触れられる距離にいる。

 この近さが、やけに残酷に感じた。


 家の前まで送っていくと、彼女はいつも通り「ありがとう」と言って鍵を取り出す。

 俺も、軽く頷いて背を向けた。

 ただ、その仕草に、さっきまでの熱はもうどこにもなかった。



 夜風が、まだ熱を帯びていた。

 リリカはアオイと別れて、玄関のドアを閉めた瞬間、外の虫の声が一気に遠ざかる。

 部屋の中は静かすぎて、心臓の音だけがやけに響いていた。


 キス。

 あの距離感、あの目。

 ほんの数秒前まで隣を歩いていた彼の温度が、まだ皮膚の奥に残っている気がする。


 なのに——。

 「付き合おう」という言葉はなかった。

 求める仕草はあっても、未来を示す言葉は、やっぱりなかった。


 ソファに腰を落とし、膝を抱える。

 ふと、胸の奥に、あの頃の自分が蘇る。

 ——以前付き合ってた彼と過ごした、あの数年間。

 私は必死に尽くした。笑顔を絶やさず、相手のために時間もお金も心も差し出した。

 それなのに、突然の別れ。理由は曖昧で、でも本質的には“もう必要ない”ということだった。

 捨てられた——そう感じた。


 あの頃の彼は、未来の話をよくした。

 「結婚したら」「一緒にどこどこに住もう」「子供ができたら」——そんな甘い夢を並べながら、その裏で私を都合よく使っていた。

 あのときは夢を見せられていることに気づけなかったけれど、今はもう、少しはわかる。

 希望に満ちた未来を語ることと、本当にそこへ連れていくつもりがあることは、まったく別物だと。


 アオイは——。

 似ている部分がある。

 視線の強さ、甘さと鋭さの混ざった空気、距離を一気に詰めてくるあの感覚。

 でも、アオイさんは元彼のように嘘を散りばめて夢を語る人じゃない。

 むしろ、必要以上のことを言わない。

 その沈黙が、誠実さに思える瞬間もあれば、不安を煽る瞬間もある。


 (大丈夫……なのかな)

 心の中で呟くけれど、その答えは出ない。

 出ないまま、時計の秒針だけが進んでいく。


 窓を開けると、夜の匂いが入り込んだ。

 遠くの花火の音が、小さく響く。

 もし、あのまま「付き合おう」と言われていたら、私は——迷わず頷いていたかもしれない。

 でも今は、ただ胸の奥で、期待と警戒がせめぎ合っている。


 そして、眠れぬまま、蝉の声がまた遠くから聞こえ始めた。

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