45話 母の告白
「ねえ、お母さん……」
ある夜。スマホの画面が、リリカの手元で小さく光っていた。
「ヒガシ議員って、正しい人なの……?」
電話の向こうで、母の呼吸が静かに揺れるのがわかる。
その一拍の沈黙が、すべてを物語っている気がした。
「私、あの人の言葉が、まっすぐすぎて……
信じたいけど、怖くて」
母はしばらく何も言わなかった。
そして、深く、長く息を吐いたあとで、
静かに、こう言った。
『……お母さん、ずっとリリカに秘密にしてたことがあるの。話してもいい?』
*
(当時、私は三十歳を少し越えた頃だった)
日焼け止めを塗る暇もなく、毎日汗をかきながら支援者まわりをしていた。
生まれ育った場所の地方選挙。秘書は私を含めてたったの二人。
だけど、勝てば国会議員。負ければすべてが終わる。
候補者の名前は、ここでは伏せておく。
でも、その人に私は、心底尽くしていた。
「この子に連絡して。若くて手が空いてるらしいから、バイト代出すから事務所の手伝いをお願いしてみて」
そう言われたのは、梅雨の終わり。
私の携帯電話から、その女の子に連絡を入れた。
議員の知り合いの娘で、特に疑いも持たなかった。
ところが、その子が“他党の調査員”だった。
選挙の直前――私は、逮捕された。
*
最初は冗談かと思った。
「確認です」と言いながら家に来た警察官の目は、冗談を言うような目じゃなかった。
取り調べ室は、思っていたよりずっと狭くて暗かった。
向かいにいる警察官のネクタイの柄が、異様に目についたのを今でも覚えている。
「議員の指示だったんです」
「私は言われた通りにしただけです」
何度もそう答えた。
でも、議員本人は――
「彼女が勝手にやった」と答えた。
私は、完全に切り捨てられた。
拘留されたのは、プレハブのような、汚れたコンクリートの部屋。
金属製のベッド、汗の染み込んだマット、歪んだ窓。
壁の時計はなかった。
昼夜の区別も曖昧で、時間の感覚がすり減っていった。
──いつ帰れるのかもわからない。
食欲はなかった。
出されたごはんを見て、涙が出そうになった。
同室だったのは、フィリピンから来た20代の女の子だった。
違法就労で拘束されたと言っていた。
英語は中学生レベルしかわからなかったけれど、
私はとにかく誰かと話したくて、必死で単語をつなげた。
彼女が手のひらを差し出してきたとき、私は泣いていた。
(娘が待っている)
そのことだけが、私を人間に引きとめていた。
一ヶ月が過ぎたころ、取り調べの男が言った。
「あなたが“私がやりました”って書いてくれれば、2週間で帰れるよ。
でも、認めなければ……あと3ヶ月はこの生活かな」
私は迷った。
地獄のような日々。
朝の光も、空の色も、娘の声も、すべて遠くなっていくような感覚。
「帰りたい……」
心の声が、口をついて出ていた。
書いた。
“私が指示しました”と。
何度も吐き気がした。
でも、娘の寝顔を想像することで、どうにか書き終えた。
執行猶予がついて、家に帰れると知った日はホッとしたと同時に、虚しさが込み上げた。釈放された帰り道、私は泣きながらボストンバッグを丸ごと投げ捨てた。
――あの場所のにおいが染みついたものなんて、何もいらなかった。
帰宅してから、私は何ヶ月も動けなかった。
食事もとれなかった。
寝ても、悪夢ばかり見て全然眠れなかった。
リリカの前ではどうにか笑ったけれど、それ以外の時間は、
ずっとベッドの中で過去に巻き戻され続けていた。
そんなとき、一本の電話が来た。
昔の秘書仲間だった。
「ヒガシ先生のところで、人を探してる。
過去を気にしないって言ってる。あなたを推薦したい」
冗談だと思った。
でも、事務所を訪れた私に、ヒガシ議員は言った。
「よく頑張ったね。
議員を守った君は、誇りに値する。
逮捕歴があったって関係ない。
私は“君”を見ている」
その言葉に、私は堰を切ったように涙を流した。
そして、初めて思った。
(……私は、人間に戻ってもいいんだ)
その日から、私はヒガシ議員の秘書になった。
“信じてもいい人間”がいるという現実を、
自分の手で、もう一度信じたかったから。
*
『……だから、私はヒガシ先生を信じてる』
母の声が、再びリリカの耳に戻ってきた。
『でも、信じるかどうかは――あなた自身が決めていい。
もう、そういう年齢になったってことだね』
スマートフォンの向こうで、母はふっと笑った。
リリカは、言葉にならない感情を喉の奥に留めながら、
小さくうなずいた。
(お母さんも……私と同じように、
いや、それ以上に、人を信じることに傷ついてきたんだ)
「……ありがとう。話してくれて」
『うん。
あなたの信じた道を、歩けばいいよ』
そう言った母の声は、どこまでも静かで、やさしかった。




