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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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45話 母の告白

「ねえ、お母さん……」


ある夜。スマホの画面が、リリカの手元で小さく光っていた。


「ヒガシ議員って、正しい人なの……?」


電話の向こうで、母の呼吸が静かに揺れるのがわかる。

その一拍の沈黙が、すべてを物語っている気がした。


「私、あの人の言葉が、まっすぐすぎて……

 信じたいけど、怖くて」


母はしばらく何も言わなかった。


そして、深く、長く息を吐いたあとで、

静かに、こう言った。


『……お母さん、ずっとリリカに秘密にしてたことがあるの。話してもいい?』



(当時、私は三十歳を少し越えた頃だった)


日焼け止めを塗る暇もなく、毎日汗をかきながら支援者まわりをしていた。

生まれ育った場所の地方選挙。秘書は私を含めてたったの二人。

だけど、勝てば国会議員。負ければすべてが終わる。


候補者の名前は、ここでは伏せておく。

でも、その人に私は、心底尽くしていた。


「この子に連絡して。若くて手が空いてるらしいから、バイト代出すから事務所の手伝いをお願いしてみて」


そう言われたのは、梅雨の終わり。

私の携帯電話から、その女の子に連絡を入れた。

議員の知り合いの娘で、特に疑いも持たなかった。


ところが、その子が“他党の調査員”だった。


選挙の直前――私は、逮捕された。



最初は冗談かと思った。

「確認です」と言いながら家に来た警察官の目は、冗談を言うような目じゃなかった。


取り調べ室は、思っていたよりずっと狭くて暗かった。

向かいにいる警察官のネクタイの柄が、異様に目についたのを今でも覚えている。


「議員の指示だったんです」

「私は言われた通りにしただけです」


何度もそう答えた。

でも、議員本人は――


「彼女が勝手にやった」と答えた。


私は、完全に切り捨てられた。


拘留されたのは、プレハブのような、汚れたコンクリートの部屋。

金属製のベッド、汗の染み込んだマット、歪んだ窓。


壁の時計はなかった。

昼夜の区別も曖昧で、時間の感覚がすり減っていった。


──いつ帰れるのかもわからない。


食欲はなかった。

出されたごはんを見て、涙が出そうになった。


同室だったのは、フィリピンから来た20代の女の子だった。

違法就労で拘束されたと言っていた。


英語は中学生レベルしかわからなかったけれど、

私はとにかく誰かと話したくて、必死で単語をつなげた。


彼女が手のひらを差し出してきたとき、私は泣いていた。


(娘が待っている)


そのことだけが、私を人間に引きとめていた。


一ヶ月が過ぎたころ、取り調べの男が言った。


「あなたが“私がやりました”って書いてくれれば、2週間で帰れるよ。

 でも、認めなければ……あと3ヶ月はこの生活かな」


私は迷った。

地獄のような日々。

朝の光も、空の色も、娘の声も、すべて遠くなっていくような感覚。


「帰りたい……」


心の声が、口をついて出ていた。


書いた。

“私が指示しました”と。


何度も吐き気がした。

でも、娘の寝顔を想像することで、どうにか書き終えた。


執行猶予がついて、家に帰れると知った日はホッとしたと同時に、虚しさが込み上げた。釈放された帰り道、私は泣きながらボストンバッグを丸ごと投げ捨てた。


――あの場所のにおいが染みついたものなんて、何もいらなかった。




帰宅してから、私は何ヶ月も動けなかった。


食事もとれなかった。

寝ても、悪夢ばかり見て全然眠れなかった。

リリカの前ではどうにか笑ったけれど、それ以外の時間は、

ずっとベッドの中で過去に巻き戻され続けていた。


そんなとき、一本の電話が来た。


昔の秘書仲間だった。


「ヒガシ先生のところで、人を探してる。

 過去を気にしないって言ってる。あなたを推薦したい」


冗談だと思った。

でも、事務所を訪れた私に、ヒガシ議員は言った。


「よく頑張ったね。

 議員を守った君は、誇りに値する。

 逮捕歴があったって関係ない。

 私は“君”を見ている」


その言葉に、私は堰を切ったように涙を流した。


そして、初めて思った。


(……私は、人間に戻ってもいいんだ)


その日から、私はヒガシ議員の秘書になった。

“信じてもいい人間”がいるという現実を、

自分の手で、もう一度信じたかったから。



『……だから、私はヒガシ先生を信じてる』


母の声が、再びリリカの耳に戻ってきた。


『でも、信じるかどうかは――あなた自身が決めていい。

 もう、そういう年齢になったってことだね』


スマートフォンの向こうで、母はふっと笑った。


リリカは、言葉にならない感情を喉の奥に留めながら、

小さくうなずいた。


(お母さんも……私と同じように、

 いや、それ以上に、人を信じることに傷ついてきたんだ)


「……ありがとう。話してくれて」


『うん。

 あなたの信じた道を、歩けばいいよ』


そう言った母の声は、どこまでも静かで、やさしかった。

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