37話 触れた手の、そのあとで
―その夜、リリカの部屋。
窓の外で、風がカーテンを揺らしている。
机の上には、開いたままのノートと、読みかけの本。
けれど、どちらにも手が伸びないまま、リリカはベッドに座り込んでいた。
今日のことが、頭から離れなかった。
アオイの目。
アオイの声。
そして――アオイの手。
あのとき、カフェで、彼がそっと手を重ねてきたとき、
何も言わなかったのに、全部が伝わってきた。
(あれは……)
優しさ。
あたたかさ。
そして、きっと――少しの、寂しさ。
リリカは両手を見つめる。
触れられた側の手は、まだ少しだけ熱が残っているような気がした。
(……ごめんね)
心の中でそう呟いて、まぶたを閉じる。
本当は、言いたかった。
アオイに。
母と話したことも、シラサワに会ったことも、この国のことも、全部。
でも――言えなかった。
怖かった。
アオイの顔が曇るのが。
それに、もし、彼が何も知らないままでいられるなら。
それが“優しさ”になる気もしてしまって。
(……でも)
リリカはそっと、毛布の端を握りしめた。
「本当は、話したかったんだよ」
思わず声に出た言葉に、自分で驚いた。
(話したかった。アオイになら。……でも、話せなかった)
その“間”が生まれてしまったことに、
リリカは気づいてしまった。
たぶん、もう戻れない。
“全部を話し合える関係”には、きっと――
その瞬間、カーテンがふわりと揺れた。
まるで、その静かな事実を肯定するかのように。
リリカは目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
―深夜、リリカの部屋。
キャリーケースのジッパーを閉じたとき、時計の針はもう0時を回っていた。
着替えも、書類も、念のためのメモも入れた。
忘れ物は――たぶん、ない。
(あとは、寝るだけ……なんだけど)
布団に入ったのに、目を閉じても眠気はやってこない。
アオイの指のぬくもり。
「ノノって女の子?」と聞いたときの、あの一瞬の目の動き。
話せなかったこと。
言えなかったこと。
でも、本当は言いたかったこと。
それらが、胸の中で交差して、静かに心をざわつかせていた。
(……明日、ヒガシ議員に会うんだ)
リリカはそっと布団から出て、ノートパソコンを開いた。
気づけば、検索窓に「ヒガシ議員」と打ち込んでいた。
(さっきも調べた。何度も同じ動画を見たのに)
でも、何かを逃している気がして。
なにか、もっと大事な手がかりがある気がして。
スクロール。
スクロール。
政見放送。討論会。街頭演説。古いインタビュー映像。
やがて、目に留まったのは、
再生回数の少ない、小さなニュースサイトに埋もれていた一本の切り抜き動画だった。
「薬ではなく、“つながり”で人を救いたい。――ヒガシ議員、社会福祉モデル構想を語る」
クリック。
再生ボタンを押すと、
議員の落ち着いた声が、静かにスピーカーから流れ始めた。
『……私が考えているのは、治療や管理ではありません。
むしろ、“信頼”と“再構築”の場を国が整えること。
人は、誰かとつながることで、生きる気力を取り戻すのです――』
画面の中のヒガシ議員は、まっすぐ前を見ていた。
その目には、ただの政治家には見えない、
どこか深い想いと信念が滲んでいた。
(この人は……)
リリカは、動画を一時停止した。
そして、画面の中の静止した瞳をじっと見つめる。
(……本当に、私たちを“見て”いるのかな)
眠気は、もう完全にどこかへ消えていた。




