36話 嫉妬
木曜日--
雨上がりの午後。カフェには深煎りの香りと、低くかかった音楽だけが満ちていた。
リリカは、窓の外の濡れた石畳をぼんやりと眺めながら紅茶をひとくちすする。
その向かいでアオイがカップを置いた。
「……明日、出かけるんだって?」
「うん。東京に。
母に会うのと、もう一人――会う人がいるの」
アオイが少しだけ視線を動かした。
「……ひとりで?」
「ノノっていう人と一緒。
高校の時の先輩で、偶然この国で再会して……いろいろ、助けてもらってる」
アオイの目がふと動く。
「……ノノって、女の子?」
リリカは少し笑って首を横に振った。
「ううん。男の人。年上で、木工職人してるの。
ほんとに、頼れる先輩って感じ」
その瞬間、アオイの手がほんの少し、テーブルの上で動いた。
カップから離れた指先が、そっとリリカの手に近づいてくる。
最初は、ただ触れるだけ。
けれど次第に、アオイの手がリリカの手に、静かに、そして絡むように重なった。
リリカは驚いて顔を上げた。
アオイは、何も言わずに微笑んでいる。
その笑みには、ほんの少しだけ、拗ねたような色が混ざっていた。
「……気をつけて。東京」
その言葉は変わらずやさしいけれど、
つないだ手からは、静かな感情が伝わってくる。
“行ってほしくない”なんて、言わない。
“誰かを疑ってる”とも、言わない。
けれどリリカは、アオイの指のぬくもりから、
そのすべてを感じ取っていた。
「……ありがとう」
ふたりの手は、まだそのまま、テーブルの上に重なっている。
言葉では交わせない想いだけが、そこにあった。
リリカが席を立ったあと、
残されたコーヒーの香りと、
彼女の体温がほんの少しだけ残った椅子だけが、静かにそこにあった。
俺はカップを持ったまま、しばらく動けずにいた。
(……ノノ、か)
高校の頃の先輩。
偶然この国で再会して、頼れる存在で――
“男”。
笑うところじゃないのに、喉の奥がかすかに鳴った。
(女の子だったら、何も思わなかったんだろうか)
いや、きっと思っていた。
でも、男だとわかった瞬間、
ほんの少し、喉の奥がざらついたのは確かだ。
自分でも情けないとは思う。
けど、どうしようもなかった。
リリカの手に触れたとき、
あれは慰めてもらいたかったんじゃない。
つなぎとめたいわけでもない。
ただ――
いまこの瞬間、
彼女が自分の手の中にいてくれると、信じたかった。
(信じるって、怖い)
少しでも気を緩めれば、
彼女は遠くへ行ってしまう気がする。
その「遠く」は、東京の距離のことじゃない。
心の話だ。
彼女は今、何かを探してる。
俺の知らないことを、見つめようとしてる。
(俺は――たぶん、置いていかれる側なんだろう)
そう思っても、追いかける資格は、まだない。
コーヒーが冷めていた。
俺は、深煎りの苦味を舌で感じながら、
目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
その日の夜--
デスクトップの前に座り、もう30分が経つ。
コードは書いている。けれど、どこか浮いていた。
カーソルは画面上を動いているが、指は記号を並べているだけで、意味が追いついていない。
(……ダメだな)
アオイは小さくため息をついて、椅子の背にもたれた。
昼間、リリカの手をそっと取ったあの感触が、指先にまだ残っている気がする。
あれは――何だったんだろう。
慰めたかった?
違う。
優しさを見せたかった?
それも違う。
(……寂しかったんだ、俺が)
彼女が誰かを信じて頼ろうとしてるのが、
その「誰か」が、自分じゃなかったことが、
思ったよりもずっと、胸に残っていた。
ノノ。
高校の先輩。
男。
“偶然再会した”――その言葉が、頭の奥にこびりついて離れない。
(信頼してる人なら、それでいい)
理屈では、そう思える。
でも、心のどこかで、わからない衝動が這っている。
嫉妬?
独占欲?
そんな感情を抱く自分が嫌で、キーボードに目を落とす。
しかしカーソルは、空白のままだった。
「……集中できない」
小さく呟いて、コーヒーを淹れに立ち上がる。
深煎りの豆。
彼女の紅茶の香りとは違う、苦くて、強い香り。
けれど今夜は、この香りさえも、何かを誤魔化すためのものに感じた。
(……東京に、行くんだな。先輩と一緒に。)
アオイは手にしたマグを見つめたまま、
自分の中の“整理できていない感情”を、ただ静かに見つめていた。




