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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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31話 動揺

木曜日--


店内は、ほどよく静かだった。

窓辺の席には、いつものように深煎りの香りと、アオイの姿。


リリカが席につくと、アオイは穏やかに微笑んだ。


「こんにちは。……今日は、ちょっと風が涼しいね」


「うん。いつもより少し過ごしやすいかも。」


カップに手を添えながら、ふたりはしばし静かな時間を過ごす。


やがてアオイが、ふと問いかけた。


「……お母さん、喜んでくれた?」


リリカの指先が、カップの取っ手を撫でるように動いた。


(お母さんは……確かに、喜んでくれた。でも)

(なんで言ったらいいんだろ……)



「……うん。喜んでた、よ。……たぶん」


アオイの目が、一瞬だけ動いた。

だが、それ以上何も言わず、カップを持ち上げる。


「そっか」


そのひと言は、やさしくもあり、どこか寂しげでもあった。


リリカは、何か言いかけて、口を閉じた。


(うまく言葉にできない)

(まだ、自分の中でも整理がついていない)


だから、ただ紅茶をすする。

その香りさえ、今日は少しだけ遠く感じた。


アオイが、ふと視線を外しながら呟いた。


「……返事に迷うときって、答えがひとつじゃないときだよね」


リリカは驚いて、アオイを見た。


アオイはいつものように、まっすぐにリリカを見つめ返していた。

でも、そこに詮索の色はない。ただ、受け止める目だった。


「……無理に話さなくてもいいよ」


「……ありがとう」


そう答えながら、リリカは紅茶を見つめたまま、言葉を飲み込んだ。


(ほんとは、もっと話したいことがあったのに)


(お母さんのこと、ヒガシ先生のこと、

 そして、この国の“本当の姿”のことも……)


でも、それをこの人に話してしまったら、

何かが壊れてしまいそうな気がした。


アオイの目が、まっすぐでやさしすぎるから。


「……ごめんね、うまく言えなくて」


リリカがぽつりと呟くと、アオイは微笑んだ。


「それは、“うまく言いたい”って思ってる証拠だから、いいと思う」


リリカは驚いて顔を上げた。


アオイは、まるでそれ以上聞かないと決めているように、

ゆっくりとカップを傾けた。


その仕草さえ、いつもより遠くに感じられた。


(どうして、今こんなふうに動揺してるんだろう)


(アオイさんは、何も変わっていないのに……)


(変わったのは――私の方)


外では風が窓を叩いた。

カップの中の紅茶がわずかに揺れた。


リリカはもう一度、口を開こうとした。

けれど、喉の奥で言葉がほどけてしまった。


結局、何も言えないまま。


アオイが、静かに言った。


「……話したくなったらでいいよ。

それまでは、ここでコーヒー飲んでるだけでいい」


その言葉が、優しすぎて、

リリカは紅茶に視線を落としたまま、小さくうなずいた。


(……何も知らない人のやさしさって、

 こんなに痛いものだったんだ)


夜--


カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。

机の上には、未完成のままのアレンジメントと、開かれたままのスケッチブック。

でもリリカの手は、どこにも届かず、ただ膝を抱えていた。


(……今日は、何も話せなかった)


(お母さんのことも、この国のことも……

 アオイさんには、何も言えなかった)


ソファに背を預けると、静かに冷たい夜の気配が背中にしみた。


(本当は……話したかった)


(あの人の前だと、なんでも話せる気がしてた。

でも、今日……そうじゃなくなってることに、気づいてしまった)


リリカは、自分の胸に手を当てる。

そこにあるのは、寂しさか、怖さか、わからない。


(“言えないことがある関係”が、始まってしまった)


(私が選んだわけじゃないのに……気づいたら、もう、始まってた)


スマホの画面を開いてみる。

アオイの連絡先。

開くだけで、少しだけ指先があたたかくなる。


でも、文字は打てなかった。


(何を送ればいい?)


(「ありがとう」? ……「ごめん」? それとも――)


指が止まり、やがて、画面を閉じる。


ふと、部屋の片隅に置かれた紅茶の空き缶に目がとまる。アオイさんが教えてくれたブランドのもの。


(あの人の優しさが、

 今は……少しだけ、こわい)


小さく、息を吸い込んでから、目を閉じた。


(ちゃんと向き合えるまで、

 私はきっと、まだ時間がかかる)

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