27話 メール
ある午後、ノノの工房にて。
木くずの匂いと、かすかに流れるジャズ。リリカが差し入れのレモネードを置くと、ノノがちらりと顔を上げた。
「あー、ちょうど喉乾いてた。リリカ、ナイスタイミング!」
「ふふ。冷やしてきたよ。」
ノノは一口飲んで「うまっ」と嬉しそうに笑い、そのまま何気なく呟いた。
「そういや、もうすぐ父の日なんだよな。……あれ? 母の日って、なんかした?」
リリカの指が一瞬止まる。けれど、すぐにまた動き出した。
「……ううん。何も。」
「そっか。まぁ、母の日ってタイミング逃すとそのままになっちゃうもんな~」
「……逃した、っていうより……。うちの母、ちょっと、いろいろあって……」
「うん?」
「この国に来る前、あの人のせいで全部うまくいかなくなったって……本気で思ってた時期があったの。」
「……」
「今はもう、そこまでじゃない。時間が経ったら、見え方も変わるもんだね。でも、母の日に何かしようって気持ちには……まだなれなかった。」
「そっか。……それ、ちゃんと自分の言葉で話せるの、すげぇと思う。」
「ノノって、そういうとこ、変わらないね。」
「え、褒めてんのそれ?」
「たぶんね。」
夜--
窓の外では風が木々を揺らしている。
机の上のスマホが小さく光っていた。
(……東京の母から、メールが来ていた)
開くと、日付はひと月も前。
「元気にしてますか? 急に暑くなったから、体調気をつけてね」とだけ書かれていた。
指が、何度も画面の上をなぞる。
(なんで今、気になるんだろう)
(なんで、今日は返せそうな気がするんだろう)
母の顔を思い出そうとすると、なぜか花の香りと重なった。
この国に来てから、もう一年以上。
あのとき飛び出すようにして家を出たのに、今はどこか懐かしい。
リリカは深く息を吸い、そして打ち始めた。
「元気です。お花の仕事、少しずつ慣れてきました。そっちはどうですか?」
たったそれだけ。
なのに、指が震えていた。
送信ボタンを押す直前で、いったん画面を閉じる。
(……送らなくても、誰にも怒られない)
(でも……送ったら、少し変われるかもしれない)
再び画面を開き、そっと押した。
送信済み。
静かな部屋の中で、スマホだけがほのかに灯っていた。
翌朝ーー
鳥のさえずりと、陽ざしの匂いで目を覚ます。
カーテン越しの光が、ゆっくり部屋の中を満たしていく。
枕元のスマホが、一通の通知を示していた。
(……お母さん)
ディスプレイには、いつか見慣れていた名前。
「リリカ、ありがとう。
元気そうで安心したよ。
お花、リリカにぴったりだね。
実はね、今月お母さんの誕生日なの。
まさか、誕生日プレゼントの代わりだったりして……なんて。笑」
画面を眺めるだけで、しばらく何もできなかった。
(……そんなつもりじゃ、なかったけど)
でも、なぜか。
喉の奥が熱くなって、
ぎゅっと胸の奥がしめつけられる。
リリカはスマホを伏せ、ベッドの上で膝を抱える。
(お母さん……)
心の奥で、ふわっと何かがほぐれた気がした。
涙は出なかったけど、
ひとつ、確かに前に進めたような気がしていた。




