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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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26話 温度

―6月6日 木曜日―


図書館の帰り道。

風に揺れる初夏の葉の音が、やけに胸に響いていた。


(今日……来るのかな)


先週、彼は来なかった。

ただそれだけのことなのに、

ずっと胸の奥に残っていた“ざわざわ”が、今も消えていなかった。




カフェの扉を開けると、

そこに――アオイがいた。


いつもの窓際。

だけど今日は、彼の視線が最初からリリカをまっすぐに捕まえていた。


「……こんにちは」


「こんにちは、リリカさん」


白いのリネンシャツに、薄手のグレージュのパンツ。

飾らないけれど、さりげなく整った着こなし。

今日もかっこいいな。




席を探しているとき

アオイが少し腰を浮かせて、静かに言った。


「……隣、どうぞ」


「……うん」


それだけのやりとりなのに、

胸の奥に、温度が生まれる。




「……先週、来られなくて、ごめんなさい」


アオイの言葉は、まっすぐだった。

言い訳はなくて、ただ、シンプルに。


「仕事が長引いて。どうしても外せない打ち合わせで。

 でも、来られないってわかったとき、“あ、ちゃんと伝えたいな”って思ったんです」


リリカは、そっとカップに指を添えた。

返す言葉を探していたけれど――

そのとき、アオイがふと、テーブル越しに手を伸ばした。


リリカの指に、ごく軽く、ふれるくらいのタッチ。

一瞬で離れたその仕草が、

「伝える代わり」のように思えた。


(――あ)


言葉じゃなくて。

目線でもなくて。

その“指先のぬくもり”が、リリカの中の何かを揺らした。




「……勝手に落ち込んでました」


「……うん、そうかなって思ってた」


アオイはそう言って、目をそらさなかった。

逃げない人だと、思った。


そのままリリカを見て、微笑むでもなく、

ただ静かに、真剣に向き合っていた。


その眼差しに、リリカはふと胸がいっぱいになる。


(この人なら、もしかしたら……)


そんな考えが、風の音に紛れて、そっと芽を出しかけた。




「また、来週も来ますか?」


カップの底を見ながら、アオイが言った。


リリカは、うなずいた。

言葉にする前に、もう体が動いていた。




「よかった」


アオイがそう言って、小さく息を吐いたとき――

リリカの胸の奥が、じんわりあたたかくなっていた。


“好き”なんて、まだ言えない。

でも、今日のこの時間に、少しだけ確信した。


この人のそばは、静かで、あたたかくて、

ほんの少し――こわい。


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