21話 木屑の音が止まる夜
夜の工房は、木の香りに満ちていた。
換気扇の音と、かすかなカンナの音だけが、静かに響いている。
ノノは黙々と木を削っていた。
柔らかく、白い木くずがふわりと舞う。
光の下で、まるで雪のようだった。
(……なんで、聞くかな)
不意に、リリカの顔が浮かぶ。
「ノノって、どうしてこの国に来たの?」
あのときは、笑ってごまかした。
「のんびり暮らしたかったんだよ」って。
でも、そのあと、彼女は少しだけ寂しそうな顔をした。
あれは、俺の中の“何か”を引きずり出そうとしてたのかもしれない。
やめてくれよ、って思いながら――
でも、ほんの少しだけ、救われた気もした。
カンナの手が止まった。
木を撫でるようにして、目を伏せる。
真っ直ぐに削られた断面が、やけに白くて眩しかった。
(あいつと……最後に話したのは、いつだったっけ)
タクミの顔が浮かぶ。
最後に見たときよりも、ずっと幼い笑顔で。
「ノノさんって、なんか……ちゃんと“大人”って感じがするんですよね」
あれが、最初だったな。
ガキみたいなこと言ってたなぁ。
あの日の夕焼けが、急に胸に戻ってきた。
工房の入口に差し込む光と、削りかけの木の香り。
やけに懐いてきたタクミの笑顔――
(なんで……思い出すんだよ)
口の中が、苦かった。
ドアの外で、かすかに風の音が鳴った。
今は春。けど、あのときの夏の匂いがした気がした。
その瞬間だった。
――コン、コン。
控えめなノックの音に、ノノは小さく舌打ちした。
「……こんな時間に来るやつなんて、一人しかいねぇ」
予感は当たった。
開けた扉の向こうに立っていたのは、
整ったスーツと神経質そうな目つきをした青年――シラサワだった。
「よぉ、夜中に木くずの香りってのも悪くねぇな。ちょっと飲めるか?」
「……勝手にしろ。どうせ、また何か妙な空気持って来ただけだろ」
そう言いつつ、ノノは奥の戸棚からグラスを二つ取り出す。
一つは、自分用の分厚い焼酎グラス。もう一つは、彼専用の薄手のロックグラス。
シラサワは当然のようにそれを受け取り、腰を落ち着けた。
「お前の工房、落ち着くんだよな。
たぶん、この国で唯一、“本物の匂い”がする場所だ」
「皮肉か?」
「いや、本気だよ。俺たちが設計した“再生プログラム”ってやつ。お前だけは違うからな。」
「他を人形みたいに言うなよ」
シラサワは苦笑した。
「それは何より。……で? 何しに来た」
ノノの声は低いが、完全に怒っているわけではない。
この距離感は、もう何度も飲み交わしてきた中で培われたものだった。
「様子見さ。……ってのは建前で、今日はお前の“顔色”を見に来た。
例の子――タクミの記録が、最近やけに調べられててな。誰かが掘り返してる」
ノノの指が、ぴくりと止まる。
「……誰が」
「それはまだ掴めてない。ただ、データベースのアクセスログに不自然な動きがある」
「ふぅん……俺が冤罪だったと、ようやく誰かが気づき始めたか。遅ぇよ。タクミはもう、戻らないし」
沈黙が落ちた。
ふたりの間には、グラスを置く音と、木材の香りだけが残った。
しばらくして、シラサワがぽつりと言った。
「……あの夜、お前を暁ノ国から拾ったのは、たぶん俺のわがままだ。
本当なら、あそこで“終わってた”のかもしれない。
でも……お前の目、まだ死んでなかったんだよな」
「そりゃどうも。……で、今はどう見える?」
「今か?」
シラサワは少しだけ笑った。そして、グラスを傾けながら呟く。
「――“再生の失敗例”には、到底見えないよ」
ノノは鼻で笑い、テーブルの隅に転がった木片を指先で弾いた。
「皮肉も上手くなったな、観察者さんよ」
「俺は観察者じゃない。……もう少しだけ、深く関わってるつもりさ」
それは、ほとんど告白のようでもあった。
ノノは何も言わなかった。
ただ、グラスをもう一度満たし、ぽつりと呟いた。
「……なぁ、シラサワ。
“見られてる”ってわかってて、俺はこの町で生きてていいのか?」
その問いに、シラサワは真っ直ぐノノの目を見返した。
「お前が嫌じゃなければな。生きていてほしいと思ってる奴もいる。
……俺もその一人だよ」
それは、どこか痛みのある言葉だった。
(たぶんこの男もまた、“何か”を背負ってここに来てる)
ノノはそう思いながら、もう一度だけ酒を口に運んだ。
工房に満ちる木の香りは、
不思議とその夜、いつもよりもあたたかかった




