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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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18話 夜のにおい

異変に気づいたのは、夏の終わりだった。


ある日、タクミが作業台に立ったまま、数分間まったく動かなくなった。

小刀を握りしめた手に力が入りすぎて、削りかけの木片がヒビを入れていた。


「……おい。どうした」


「え……あ、ごめんなさい」


すぐに笑ってごまかそうとしたが、目の奥が泳いでいた。

その日、タクミは早めに帰った。


次の日も、その次の日も、タクミは工房に来た。

ただ、遅刻が増え、道具の扱いが荒くなった。


集中できていない。

口数が減り、時折、焦点の合っていない目をしている。


ノノは黙って観察していた。




ある晩、ノノは外から戻る途中、工房の裏手でしゃがみ込む影を見つけた。

懐かしい革のスニーカー。痩せた肩。かすかに震える背中。


「……タクミ」


呼ぶと、びくりと反応した。


「ノノ、さん……」


目が赤く、手が震えていた。

手のひらには小さなビニールと、焦げたライター。


一瞬、ノノの脳裏が真っ白になった。


「……戻ったのか」


タクミは、唇を噛んでうつむいた。


「……ごめんなさい。やめたはずだったのに。

夢を見て、怖くて、……身体が勝手に……」


「どこで手に入れた」


「言えない」


ノノはしばらく黙っていた。

足元に木の枝が落ちていた。彼はそれを拾い、ゆっくりと折った。


「薬に手を出すのは、お前の選択だった。

けど戻ってきたのも、お前の選択だ」


「でも……全部、壊れるかも」


「壊すな。俺が直してやるとは言わねえ。けど、壊すな。

この場所は、お前の手で作ってきた場所だ」


タクミは何度も頷いた。

「やめなきゃって、またやってしまって後悔する夢ばかり見る。でもやめれなくて…。」

「……もう、使わない。絶対、もう、やらない」


その言葉が、必死だった。だからこそ、脆さも滲んでいた。




翌日、タクミはいつもの時間より早く工房に来ていた。

掃除をし、道具を丁寧に並べ、ノノが来たときにはすでに作業を始めていた。


「昨日のことは……」


「話すな。忘れたことにはしねえが、話すな。

今は、目の前の木だけ見てろ」


「……はい」




数日間は、何事もなかったかのように過ぎた。


だが、あるとき――子ども向けワークショップの準備中、タクミが小箱を落としたとき、ノノの目に何かが映った。


床に転がったのは、紙くずのようなものと、薄いビニール。

タクミは瞬時にそれを拾い上げ、ポケットにしまった。


ノノは何も言わなかった。


けれど、確信はあった。

「まだ、抜けていない」


夜、ノノは工房に一人で残った。

タクミの使っていた引き出しをそっと開ける。


奥の布の下に、古びたタバコの箱。

中には折られたストローと、溶かした痕跡のある小さなスプーン。


彼はそれを見つめて、目を閉じた。


木の香りの中に、わずかに混じった異臭。

甘く焦げたような、夜のにおい。




その夜、タクミに何も言わなかった。

ノノは一晩、工房で木を削り続けた。


朝方、タクミが現れた。やけに明るい声だった。


「ノノさん、コーヒー、作っておきましたよ」


ノノは頷きながら、カップを手に取った。


「……ここ、辞めるか」


タクミの手が止まった。


「え?」


「今のままじゃ、ここもお前も壊れる」


「……俺、本気でやり直したいんです。

ここ以外に、居場所がないんです」


「だったら、自分の手で、その場所を守れ。

このままだと、俺も守れなくなる」


タクミは震えていた。


「……わかりました。

全部、捨てます。持ってるもの、今夜、処分します」


「……付き添う」


「いや、自分で、やります。自分の手で」


その夜、ノノは待った。

けれど、タクミは現れなかった。


携帯は繋がらず、工房にも戻らない。






※この作品はフィクションであり、実在の団体・人物・事件とは一切関係ありません。違法薬物の使用を助長する意図は一切なく、問題提起や心理描写を目的とした表現です。

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