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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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17話 木の香り

春の気配が工房に届き始めた頃、タクミの手元は見違えるほどに落ち着いてきた。

あの初日、木片すらまともに握れなかった少年が、今ではヤスリの当て方や木目の見極めにまで気を配るようになっていた。


「……いい線してきたな」


ある日、ノノがふとつぶやいた。

タクミは少し驚いた顔でノノを見た。


「え、今の……褒めてくれたんですか?」


「ほめてねえ。事実を言っただけだ」


「ふふ……嬉しい」


タクミの笑顔は、最初の頃とは別人のようだった。硬かった表情に柔らかさが戻り、喋る言葉にも冗談が混ざるようになった。


「俺、今まで“できた”って言われたこと、ほとんどなくて。やる前に“無理だ”って言われるのが普通だったんで……不思議な感じです」


「木は、人を評価しねえからな。やった分だけ返ってくるだけだ」


「……木の方が、人間より誠実ですね」


「そうかもな」




週に一度の休みには、タクミが工房の掃除を買って出るようになった。

棚の整理、木くずの片付け、工具の並べ直し……どれも彼なりの丁寧さでこなしていた。


「なんでそんなに丁寧にやるんだ」


「……俺、こういう“ちゃんとした場所”にいられるの、初めてなんです。

壊したくないんです。……ここだけは」


ノノは黙って、黙認という形でそれを受け入れた。


ある日、タクミが小さな木箱を作り終えた後、そっと箱の中に手紙を入れていたのをノノは見た。

宛名は書かれていない。けれど、それはきっと、まだ会えていない“誰か”への贈り物なのだろうと思った。




春の終わり、工房でちょっとした催しが開かれた。地元の子どもたちと一緒に木のコースターを作る体験会だった。

ノノはいつも通り淡々と準備をしていたが、タクミは緊張した面持ちで、小さな子どもたちの前に立った。


「タクミくん、できそう?」


「え、あ、はい。……多分」


最初はぎこちなかったが、子どもたちの好奇心に触れていくうちに、タクミは徐々に笑顔を見せ始めた。

「これね、木目っていって、年輪なんだよ」

「ヤスリはこうやって……手を切らないように気をつけてね」


終わる頃には、彼のまわりには笑顔の子どもたちが集まっていた。


「お兄ちゃん、すごーい!」


「また会いたい!」


タクミはその声を受けて、照れ臭そうに目を細めた。


「……俺、生まれて初めて“また来てね”って言われました」


そう言って笑った彼の横顔を、ノノは静かに見つめていた。


「……俺、本当に、変われる気がしてきたんです。

ノノさんが、信じてくれたから」


「俺は何もしてねえよ。勝手に変わったのはお前だ」


「でも……一人じゃ、たぶんできなかった」


ノノはコーヒーのカップを片手に、ただ静かにうなずいた。




それから数週間、ふたりの関係はささやかな“日常”へと溶け込んでいった。

昼休みのコーヒー、削った木片の見せ合い、帰り際の短い会話。


タクミは時折、紙に何かを書いては木箱にしまっていた。


「それ、手紙?」


「……うん。自分宛。

今日頑張れたこととか、できたこととか、覚えておきたいから」


「いいじゃねえか。

続けてみろ。手で書いたことは、いつか本当になる」


「……うん」


その日は少し肌寒く、ふたりは湯気の立つコーヒーを手に、木くずの中で静かに並んで座っていた。


タクミがぽつりと言った。


「この工房の匂い、好きです。……木の匂い、安心します」


ノノは、その言葉を深く頷いて受け止めた。


その時のタクミは、確かに“戻ってきた”ように見えた。

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