16話 木くずの香り
木を削るときの音には、どこか心を撫でられるような静けさがある。
シャリ、シャリ、とかんなの刃が木肌をなぞるたび、削られた薄い木くずがくるんと丸まって落ちていく。工房の空気には、いつも削りたてのヒノキの香りが漂っていた。
その朝、ノノはいつもと同じように早くから作業台に立ち、注文を受けていた小物入れの仕上げをしていた。使っているのは樫の木。硬くて反発も強いが、仕上がったときの手触りには独特の重厚さがある。
「ノノさん、今大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、ノノの工房の大家さんだ。世話好きで困っている人を放って置けない人だ。
「この前話した子ですが今日からよろしくお願いします」
ノノは顔を上げずに頷いた。
「見とけばいいんですね」
ノノは時々、行き場のない子をこうやって預かっている代わりにただ同然でこの工房を貸してもらっている。特に何か教えるわけでもなく手伝わせるでもなく。
「うん、無理に話しかけなくていいから」
そう言って、彼女は入り口の方を手招きした。
しばらくして、扉がきいっと開き、ひとりの少年が足を引きずるようにして入ってきた。年の頃は十七、八。髪はやや伸び放題で、目元はくすんでいる。肩はすぼめられ、工房の空気に溶け込むよりも逃げ込んできたという風情だった。
「タクミっていうの。ちょっと人と話すの苦手みたいだから、無理はさせないでね」
彼女が言い終わると、タクミはちらりとノノを見た。視線がぶつかるとすぐに逸らした。
「……そこ、空いてる。使え」
ノノはそう言って、隣の作業台を顎で示した。
タクミは一瞬だけ逡巡したが、ゆっくりと歩を進め、指定された台の前に立った。椅子を引く音がぎこちない。座るときも、まるで音を立てないように注意しているようだった。
数分の沈黙が流れた。タクミは手元の木片をただじっと見つめている。手を動かすでもなく、誰かを待つでもなく、ただ、そこにいることを許されているかを確かめているようだった。
ノノはちらりと横目でタクミを見ると、再び黙々と作業を再開した。
その日は、ほとんど言葉を交わすことなく過ぎた。
翌日も、タクミは工房に現れた。やはり無言でノノの隣に座り、無言のまま木を見つめていた。
「道具は、持ってるか?」
ノノがふいに声をかけると、タクミはびくっと肩をすくめた。
「……いえ。貸してもらいました」
「刃物は研いどけ。切れん道具は事故のもとだ」
「……はい」
その日の昼休み、ノノがコーヒーを淹れていると、タクミがぽつりと話しかけた。
「……ノノさんって、ずっとここで働いてるんですか?」
「3年目だ。前は別の工房にいたけどな」
「……こういう仕事って、好きですか?」
ノノは少しだけ考えてから、短く答えた。
「好きだよ。黙ってても、木はちゃんと応えてくれるからな」
タクミはその言葉に、ほんの一瞬、表情を緩めた。
「……それ、いいな」
その言葉の中に、どこか“うらやましさ”のようなものが混じっていた。
それから、タクミは少しずつ手を動かすようになった。
最初はのこぎりの使い方もおぼつかなかったが、ノノが何も言わずにそっと見せてやると、それを真似て繰り返す。木目の方向、刃の入り方、力の加減……どれもぎこちないが、真剣だった。
「その木、柔らかいから気をつけろ。すぐ割れる」
「……これ、ヒノキですか?」
「よく見てるな。正解」
「……家にあった。古い箪笥、ヒノキの匂いがした」
「いい匂いだよな。湿気にも強い」
ふたりの間に、少しずつ会話が増えていった。
ある日、作業を終えて帰ろうとしたタクミが、工房の出口でふと立ち止まった。
「……ノノさん」
「ん?」
「俺、ここ来るまで……木なんて、ただの“物”だと思ってました。でも、違うんですね」
ノノは何も言わずにタクミを見た。
「削ってると、音がするじゃないですか。あれ、なんか……落ち着くんですよね。俺、音が苦手だったのに」
「木の音は、怒鳴らねえからな」
タクミは、ふと目を伏せた。ほんの一瞬、唇が揺れていた。
「……それ、俺が言いたかったかも」
ノノはなにも答えなかった。ただ、そのまま黙って、工具箱をしまいはじめた。
タクミが工房に来るようになって、三週間が経った。
彼の手元の動きは、ずいぶんと滑らかになっていた。ノノはそれを見ながら、どこかで安心していた。
この子はまだ“戻ってこれる”——そんな気がした。
けれどその頃から、タクミの様子に、わずかな翳りが見え始めていた。
朝、目の下に濃いクマをつけてくることが増えた。
指の動きに時々、力が入らない日もあった。
深く削りすぎた木片を、そっと自分のカバンに隠す姿を、ノノは見逃さなかった。
そして、ある日の夕方ことだった。
タクミの手が、木を削る刃物を落とした。
「危ないぞ。手、見せてみろ」
ノノが声をかけると、タクミはおびえたように首を横に振った。
「大丈夫……、なんでもないんで……」
そう言って、タクミは急いで片付け、カバンを背負い、工房を出ていった。
その背中には、どこか“終わり”のような匂いが漂っていた。




