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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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11話 まだ知らないままで

―4月最後の木曜日―


春の終わりを告げるように、風が少し強くなってきた。


アトリエの外では、クレマチスのつぼみがほころびはじめていた。

紫と白が入り混じる花びらは、風に揺れてまるで小さな旗のようだった。


(……もうすぐ5月かぁ)


図書館へ向かう道すがら、リリカは手帳を開いて5月の予定を確認した。

展示用のアレンジメント制作、定期装花の更新、あと……来月末の結婚式。


日々の仕事に追われるようでいて、

どこかで毎週木曜日だけは、時間が特別に感じられていた。



カフェの扉を開けた瞬間、今日もコーヒーの香りが迎えてくれる。


その香りだけで、なんとなく安心する自分に気づいて、リリカは少し微笑んだ。


「リリカちゃん、今日はね、ラベンダーのショートブレッドがあるよ」


「……わぁ、それ、ください。紅茶と一緒に」


いつも通りの会話。

でも、心は落ち着いていなかった。


彼が、もうそこにいるのを感じたから。


窓際の席。

黒髪。

ノートパソコン。

今日も、彼は何かを打ち込んでいる。


でも、前よりも画面を見る時間が短い気がした。

カップに口をつけて、周囲をゆっくりと見回すしぐさ。

それが、妙に自然で――

それでいて、誰かを探しているようにも見えた。


(……気のせい?)


紅茶の香りを吸い込みながら、そっと横目で見る。

目が合いそうで合わない距離。


けど、彼の視線が“こちらに向けられた”瞬間があった。


一瞬だけ、彼の動きが止まった。

それからまた、画面に目を戻してキーボードを叩き始めた。


でも、心が勝手にざわめいていた。



カップを置く音。

画面を閉じる手。

彼が立ち上がる気配。


リリカの手の中のカップが、そっと震える。


彼は静かに歩き、カウンターの方へ向かった。

でも、今日は――通り過ぎるときに、

ふとこちらに目をやった。


目が合った。

今度は、確かに。


リリカは、息を止めたまま、それを受け止めた。

彼は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


何も言わずに、それだけを残して、店を出ていった。



「……笑った?」


リリカは、誰にともなくつぶやいた。


まだ、名前も知らない。


ほんのわずかな変化。

でもその一歩が、胸をとんと小さく叩いた。

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