第二十七話 長女の直感
ノアたちが牡牛と対峙していた頃。
一日のスケジュールを終えたアエリアは、部屋で読書をしていた。
こうして知識を蓄えることもまた、彼女にとっては仕事のうちである。
『商業論』と記された分厚い本のページを、彼女は次々と繰る。
「……おっと、そろそろいい時間ですわね」
気が付けば、時刻は日付が変わる頃となっていた。
これ以上起きていると、流石に明日の業務に障りが出る。
アエリアは軽く背中をそらすと、ふあぁと大きなあくびをした。
そしてそのまま、ゆったりとベッドに向かって歩き出す。
だがそこで、彼女の部屋の扉が乱暴に押し開かれる。
「アエリア様、大変です!!」
「今日の執務は既に終了しましたわ」
焦った表情の秘書に、至極あっさりとした口調で告げるアエリア。
よほどのことでもない限り、頭の冴えない深夜に仕事は絶対しない。
それが彼女の順守するマイルールの一つであった。
こうして置かないと、寝る時間すら無くなってしまうためである。
しかし今回は「よほどのこと」に見事該当する事案であった。
「商会で管理する迷宮で、緊急事態が起きました」
「魔物の大移動でもありましたの? もしくは、変異種の出現?」
「それが……」
妙に口ごもる秘書。
じれったくなったアエリアは、少し強い口調で問いかける。
「どうしたって言うんですの? はっきり言いなさい」
「特別監視対象に関わる事案なのです」
特別監視対象。
それは、アエリアの弟であるノアに与えられた別称である。
ノアに関する事態は、いついかなる時でも最優先して報告するように。
アエリアはそう部下たちに厳命を下していた。
「なんですって? まさか、ノアが魔物にでも襲われましたの!?」
「いえ、迷宮に潜っているのですからそれは当たり前かと……」
「じゃあなんですの! 今すぐに言いなさい!」
ノアに関する事態と聞いて、居ても立ってもいられなくなったアエリア。
彼女は深夜にもかかわらず声を荒げると、報告を急かした。
そのただならぬ声色に秘書は冷や汗を掻きつつも、できるだけ冷静に告げる。
「ええっと。迷宮の床を破壊したそうなのです」
「はい?」
「ですから、迷宮の床を剣で破壊したそうでして」
驚きのあまり、とっさに言葉が出てこないアエリア。
迷宮の壁や床を破壊することは、現代においてはほぼ不可能だからである。
剣聖であるライザならば、かろうじて理解もできるのだが……。
まだ成長途中であるはずのノアがこれを成し遂げてしまうとは、全く予想外であった。
「驚きましたわね。まさか、ノアがそこまで出来るとは……」
「休憩所の付近で床を破ったようでして、目撃者が多数おります。すでに結構な騒ぎです」
「場所はどこですの?」
「十三番です」
「うちの管理ですわね。すぐに緘口令を敷いて事態を収拾なさい。騒ぎが大きくなると面倒ですわ」
「承知しました」
「うまく理由を付けて、迷宮への立ち入り自体を制限して構いませんわ」
その言葉を聞いて、すぐさま秘書は各所に指示を飛ばし始めた。
一方で、アエリアは何か引っかかるものを感じて思考を始める。
「しかし、ノアがそれほど目立つ行動をするのは妙ですわね……」
勢いだけで行動しているライザとは違って、ノアはそれなりに考えることができる子である。
アエリアが目を光らせている迷宮都市で、そこまで大胆な行動をとるとは考えにくかった。
現に、今までは取引にも仲介者を使うなど気を使っている様子だったのである。
「よほどの何かが迷宮内部で起きたということ……。そう言えば、例の噂はどうでしたの?」
「緋眼の牡牛、についてですか?」
「ええ。検証はできましたの?」
アエリアの問いかけに、秘書は眉を寄せて渋い顔をした。
彼は軽く息を吸うと、少しためらうように言う。
「それが、総力を挙げて調査しているのですがまだ真偽の確認が取れていません」
「あれだけ時間がありましたのに、証拠が見つかりませんの?」
「ええ、以前に行われたギルドの調査以上のことはまだ」
「ということは、逆に存在していないとは言い切れないということですわね?」
「むしろ、状況的にはいると考えた方が自然かと」
秘書の答えに、アエリアは顔を下に向けてしばし逡巡した。
やがて彼女は何かを決意したように視線を上げる。
「なるほど。そうなると、ノアは牡牛に遭遇した可能性がありますわね」
「確率的にそれは考えにくいのでは?」
「いえ、昔からあの子はそう言うことに巻き込まれやすいんですの」
そこまで言うと、アエリアはふうっと大きく息を吐いた。
そしておもむろに椅子を立ち、凛と声を張る。
「あの子がどこで騒ぎを起こしたのか、わかりますわね?」
「もちろんです」
「すぐに出かけますわ。支度をして頂戴」
「しかし、現場はダンジョンの中です。危険すぎます」
「問題ありません。あれを使いますわ」
「ダンジョンの内部でですか?」
「ええ」
そう言って、意味深な笑みを浮かべるアエリア。
彼女の言う「あれ」を動かせば、相当なコストが掛かるのだが……。
そのようなことは既に、頭にないようであった。
「待っていなさい、ノア。今すぐに行きますわ……!!」




