第84話 この巻物をば届けておくれ
焦げ色の木々は温もりを孕む絨毯のようにして北へと敷き詰められている。遠く天境山脈は澄明な青色に照らされていて白色の陰影も仄明るい。大自然はかくも巨大なる在り様を見る者全てに隠そうともしないくせに、いざ手に取れる間近なものをと見たならば、小鳥の宝石のような紅色の実が賑やかに散らばっていてそこはかとなく稚いのだ。
ふと、ラウリは昔を思った。十年以上も前の記憶だ。幼い彼に喜んでもらいたいばかりに土を集めてそれを背負い歩く……背と腰を労わる折に見やったものもまた、この巨大なる風景であった。
「やあ、何だか土に触りたくなっちゃうなあ」
「やればよかろうが。手伝わんけどな、儂。飽きるほどやっとるし」
ヤルッコの返答は即座にして愛想の欠片もない。切り株で拵えた椅子にむっつりと座る様はドワーフそのものだ。斧がないことが惜しまれるほどである。その手には小刀と木切れとがあって、ふくよかな鳥を彫刻している。北方の寂れた町に過ごす日々は、彼に程よく大地の匂いをまとわせたようだ。
「何か栽培してるのですか? あ、わかった、食べ物でしょう。練麺用の薬味とか」
「近いようでまるで違うの」
木彫りのそれを矯めつ眇めつしながら、日向のヤルッコはぼやく。
「お姫様は麦以外は栽培に興味がない。薬味は採集物と決めとる。花穂根、ぬるぬる茸、泥んこ芋、赤色根っこ、柔らか木の芽……言って伝わるもんじゃろか? あの森を見とってもな、どこにどんな食い物があるかと考えちまって、気忙しいくらいじゃい」
「あはは! それは土塗れになりそうですねぇ」
「やれと言われたなら嫌だとも言うがの、お姫様は放っておいたら日がな一人でそれをやっとるんじゃからして、やるしかなかろ。儂」
フウと吹いたものは溜息か、彫り屑を僅かに飛ばして、ヤルッコは木彫りの作業を止めた。ゆるゆると道具をしまっていく。
「あれでよくも離宮なんぞに籠っておれたもんよな。はよ終わらせんと、お姫様、戻らんことになるかもしれん。マルコに伝えといてくれ」
「あ、あはは……重大な情報だぁ」
どちらともなく立ち上がり、二人は屋敷の方へと歩き出した。貴族の別荘として建てられたというそれはとても古びていて、蔦草や土埃が壁面に勢力を伸ばすこと自由自在、いつかは自然の内側へと呑まれていくことを感じさせずにはおかない。北側の裏手であることを踏まえても、どうしたって次期国王の逗留する建物には見えない。
水場を経由して屋敷の南側へと回れば、砂利石も疎らな庭へと出る。庭樹は多い。特に東側の離れには大樹が枝葉を屋根にも被せていて、風に揺れる光陰も繊細神妙、濡れ縁が静かな風情を醸している。果たしてそこには素足を晒して腰かけている少女がいた。
白い衣服の清楚は十七歳の手足を柔らかく包み、結ばれないままの髪が琥珀色の濃きと淡きとを表わしていている。幼さは純なる時を経て霊妙な何かへと至ったものか……柔らかそうな頬は可愛らしく円らな瞳は美しくあるのだが、見る者の印象はそれに留まることはないだろうとラウリは思う。彼女には捉えどころのない美がある。人を敬虔にさせる畏怖すべきそれは、先刻まで眺めていたものによく似ていた。
パウリーナだ。アスリア王国第三王女は何を飾ることもなしに北の地に住まう。
「何じゃ、美味そうなもんを食べとるのぅ」
「うん、美味しい。食べてみたらいい」
「どれどれ……ほ、いい焼き加減じゃわい」
座るパウリーナの傍らには木鉢が置かれていて、中には香ばしい匂いを漂わせる平たいものが幾枚も入っている。それはラウリもよく知る焼き菓子だ。軽麦粉、卵、花蜜をかき混ぜてひと匙ずつ平たく伸ばし、石窯で焼いて作る。その形状から“小皿焼き”という名でもって庶民に親しまれているものだ。
しかしながら、今の場合は王女の食べている菓子だ。しかも彼女はラウリらにとって次期国王である。礼節の枠外にて悠々自適という風のヤルッコならばいざ知らず、ラウリとしては手を伸ばすなど躊躇われるものがあったのだが。
「美味しいよ?」
などと鉢を差し出されたなら、ここは食べないわけにはいかない。濃茶色のそれを指でつまんで拝礼一つ、口元へ運ぶ。
「やあ、何とも光栄です……うわウマっ! 何これ!?」
パリリと砕ける食感はこれまでに食べたいかなる小皿焼きとも違う。粉がこぼれないようにと控えていた左手は当初の意味を失い、今はワナワナと驚きを表現するものとなった。口内から鼻に抜けるは甘い中にも薬味の効いた香り。舌に広がるは甘さと苦さが互いに他を引き立てつつも共に麦粉の滋味に半歩譲るかのような味わい。歯ごたえは硬くも薄くて小気味よく、しかも食感の異なる何某かが随所に踊る。
「二度焼きするのがコツなの。母様の真似。焼き方はまだまだ届かないけど、薬味の扱いは私の方が上だから」
そう誇らしげな笑顔を向けられては感服するよりない。ラウリはありがたさから小動物のような小口で残りを食したものだが、その隣ではヤルッコが無造作にむしゃりむしゃりと食べていた。その間、パウリーナは遠く南西の空を眺めていた。それは遥かな視線のやりように思えて、ラウリはただ小皿焼きの一枚を丁重に食べ続けたのだった。
やがて王女と老戦士が……あるいは孫と祖父とが……夕食用の食材を採集に向かう姿を見送ってから、ラウリは靴を脱いで屋敷へと上がった。空となった木鉢や水差しを厨房へと運ぶ。そして一人の美女が刃物を閃かせることも鮮やかに魚を捌いているところを目撃した。
「ああ、すいません、そこに置いておいてください。下拵えだけやってしまいますので」
手拭いを頭に巻く様もどこか勇ましく、侍女武官ヴィルマ・カントラは爽やかに言った。ラウリは否やもなく指示に従う。笑顔は崩さずとも怖気があった。ラウリの知る調理法ではああも重心は落とさないし、肘が肩の上へと持ち上がることはあり得ない。どこの戦闘技法だろうか。
「ええと、じゃあ、あっちの部屋で待たせてもらいますね」
「はい、そうしてください。巻物をお持ちしますので……ハアッ!」
背後に刃の風切る音を聞きながら、ラウリはそそくさと厨房を脱出したものである。今晩の夕食はご相伴に与る身だが、一体どのようなものを頂くことになるのか予想もつかなかった。魚ではあるのだろう。しかしどういう風に魚であるものか。薬味は添えられるのだろうが。
応接室で待つことしばし、茶具を持ち来たる様も流麗なヴィルマに対して今晩の献立を聞けるわけもないラウリであった。
「もう乾いています。どうぞ、内容を検めてください」
差し出された巻物はラウリがエルヴィより託された代物だ。ここへ訪問するなりヴィルマに預けたのは、彼女に書き記してほしいものがあったからである。
「じゃ失礼しますね……って、わあ、王女殿下も書いてくれたのですか!?」
「はい、パウリーナ様はそういう御方です。仲間外れにしてはお可哀想ですし……いけなかったでしょうか?」
「あ、いや、そんなことはないです。光栄ですし、きっと驚かせることも喜ばせることもできると思いますよ! 俄然、楽しみが増してきました!」
「はい、マルコ殿も素敵なことを考えるものですね」
ヴィルマの笑う様は華やかだ。黄金の髪が豪奢に波打つ様は舞台演劇でも中々お目にかかれるものではない。ラウリはこれも役得の一つかなと思った。卓を挟んで茶を飲む相手としては美人に過ぎるほどだ。竜の鱗に掴まる日々は美人に縁があって、しかもどの女性も色々と強力である。
「それにしても、あの小皿焼き、まさか殿下のお手作りとは驚きました。練麺以外でも凄いものですね」
「生地の練り方、寝かせ方にも工夫があります。きっとパウリーナ様の技が生きるのでしょう」
「離宮でも作られていたのですか?」
「はい、親子でお過ごしになる大切な時間でした。出来上がった後のお茶会は私の役得の一つでしたね」
その様子を思い浮かべてみたなら、ラウリは成程それも役得であると納得した。茶と菓子の美味しさに思いを馳せれば口に唾も溜まる。それにパウリーナの母はヒルトゥラ家の人間だ。その家名は商人にとって特別な響きを持つ。商家はその造船技術に、行商人はその発明品の数々に惹かれるからだ。
行商時代のラウリがよくお世話になったのはヒルトゥラ家由来の爪切り鋏だ。軽く小さく高価で便利、言うことなしである。思い出も多い。白透練の収益がキコ村の各家庭に還元された証であったし、マルコとアクセリが互いに互いを注目する切っ掛けともなったと聞いていた。人生何がどう次へと繋がっていくかわからないものだ。
「親衛団の皆々はいかがな様子でしたか? 難しい位置に駐屯しているようですが」
「ああ、皆元気でしたよ。あれやこれや気配りの必要な場所ですけど、何せ団長があの人ですからね。やることが多ければ多いほどに張り切るのだと思います」
「アーネル殿か……彼ならば確かにそうかもしれませんね。いつも不敵に笑っている印象です」
「ですよねぇ……あ、けど、今回は面白い顔を見たんですよ。焦って涙目、口も開けないという」
「何と! それは想像を絶しますね……その口ぶりから察するに深刻な事件ではないようですが」
「物凄く辛い料理を食べる機会がありまして……これがもう赤だし緑だし、逃げ場のない辛みでもって迫る火を噴くような一品で……」
ラウリは舌に蘇る熱を吐息で冷まし、昔日の戦いを振り返った。
巻物を受け取るべく王都に近い仮設駐屯地を訪れた日のことだ。アクセリの天幕にはエルヴィの他にオイヴァも待っていて、この面子で集まることも稀であると宴席が設けられた。ハッキネン護衛団時代を懐かしみながらの楽しい一時であった。アクセリ所蔵の酒も、オイヴァが市場で購入してきた大魚も美味かった。しかしソレが卓上に現れた時に全ての味が吹き飛ばされたのである。
練麺の食感は良かった。しかし絡められた液体が常軌を逸していた。野菜だろうと思われる赤色と緑色のブツ切りがドロリとした中に浮きつ沈みつする様子は一種異様な迫力があり、鼻に突き刺さるような刺激臭とも相まって、軽はずみには手を伸ばせるものではなかった。しかしエルヴィはにこやかにそれを薦める。その表情には善意しかなかった。ラウリらは期せずして同時に挑んだものである。
そして、辛さとは限度を超えると熱く痛いのだと知るに至った。
咳き込むことは止められなかったが、しかしラウリはそれを嚥下した。酒を呷ったのは酔いが醒めたからではなく液体を欲したからだった。見ればオイヴァも同様で、視線を交わした刹那に多くの了解を共有したようにラウリは思う。エルヴィは笑顔でそれを食べていた。少し辛いですね、と聞こえた気もする。退けない戦いが始まっていた。
ところが、だ。一人だけ退いた者がいたのだ。アクセリである。逃げたと言ってもいい。吐き出しこそしなかったものの頬を膨らませ目に涙すら浮かべ、珍妙奇怪な挙動を見せること数瞬、転げるようにして天幕の外へと脱していった。追うことはできなかった。戦場は天幕の内であって外ではなかった。
「アーネル団長は……辛い食べ物が苦手のようです」
「それは意外な弱点ですね」
可笑しそうにする様も名舞台の一場面のようだ。それに毒気を抜かれたわけでもないが、不思議な清涼感を覚えて、ラウリは部屋を見渡してみた。南面して日差しの暖かな応接室は清浄な空気に包まれている。整理整頓は当然として、隅々まで掃除が行き届いていることは疑いようもない。それでいて堅苦しくも押し付けがましくもなく、長く過ごしたくなるのはどうしてだろうか……ラウリは飾り棚にその答えがあるように思った。
幾枚かの絵が飾られている。拙い筆づかいながら、色彩の奔放さには描き手の雄大な心象風景を垣間見るようだ。幾体かの木彫の小動物が飾られている。一般的な彫像に比べると何とも素っ気ない姿勢や仕草だが、力強くも丁寧な仕上がりは思わず手で触れてみたくなる。
「……ここの暮らしは穏やかです。マルコ殿の配慮に感謝するばかりです」
その声には万感が込められていたから、ラウリは軽はずみな返事はせずにヴィルマを見やった。美麗な騎士がそこにいる。長いまつ毛に飾られて緑色の瞳が澄み切った光を灯している。
「父からヘルレヴィ領城へ巻物が届きました。動員がかかったようです」
パウリーナとヴィルマがここに隠れ住んでいることを知る者はごく少数である。第三王女は三千兵力に守護されてヘルレヴィ領城奥深くに閉じ籠っている、というのが公に知られているところのものだ。その情報管理は徹底されていて、町民に紛れた諜報員はラウリも総数を知らないほどであり、そのラウリ自身もここへ来るために今また行商人を装ったほどだ。
そんな厳戒態勢にあって、マルコに関わりのない巻物がヴィルマへ連絡されることは重大事だった。ヴィルマの父の素性を思えばラウリにはその内容が推理できた。カントラ家とはロンカイネン侯爵領内に小さな領地を与えられた騎士の家である。
「アハマニエミ侯爵領で不穏な空気が高まっているようです。ロンカイネン侯は軍備を増強し、領境の防衛を強化しようとしています。この事態を……マルコ殿は把握していますね?」
ラウリとしては頷くよりなかった。積極的に聞かせようとは思わないが、嘘偽りをもって誤魔化していい相手ではない。
「……どうも南部では事前協定を破棄しての徹底抗戦へと舵が切られたみたいなんです」
「混乱しているとは聞いていましたが……しかしそれは……」
「ええ、アハマニエミ侯が健在であれば起こりえないことです。マルコは最悪の事態を想定してますよ……」
ラウリはそれ以上のことを言うつもりはなかったし、ヴィルマもまたそれだけで強い衝撃を受けているようだった。言葉は途絶し、それは気づまりのするものだったから、ラウリはお茶をゆっくりと何度も啜った。南の窓の方を見る。素朴で平和そのものの風景がそこにはある。しかしその向こうには……同じ空で繋がる南の先には、弓張原を中心として広く争いの続く現実があるのだ。
「この国は……どうなるのでしょうか?」
それは不安の声だったろうか。ラウリはヴィルマへと振り返り、そこで真っ直ぐな眼差しに迎えられた。次期国王に側仕える者の顔にはさざ波立つ何物とてなく、ただ真摯な問いだけがそこにある。
「変わります。いえ、もう変わり続けていますね。マルコが変えています。これまでもこれからも」
ラウリもまた本音でもって言葉を発していた。日々に実感しているものがあった。この内乱の三年間に限った話ではない。マルコと出会ってから今日に至るまで、ラウリは常に変化を感じ続けてきたのだ。小さく始まったように思えたそれは、一つの出来事を経るごとに際限なく大きくなっていき、今や王国全土へと影響力を発揮している。国を変えている。変え続けている。
いや、あるいはもう、世界すら変えようとしているのかもしれない。ラウリにはそう思われた。何故ならば彼は竜だ。地に伏せることなどはとうにやめて、巨大なる翼でもって大地を打ち、大気を巻き、大空を力強く羽ばたいている。どうして世界が既存既成のままにいられるだろうか。
「これまでにない……新しい何かが始まるのだと思います」
ラウリは己の手の平を見た。掴みたいものを掴んでいる手だ。もう虚空へと伸ばす必要のないものだ。しかしマルコはどうなのだろうかと思う。あの日小さく伸ばされていた手は……無力を嘆いていた彼の手は、今、どこまで遠く遥かな先へと届いているのだろうか。
「……そうですね。きっと新しい何かが……素晴らしい何かが現実のものとなって、パウリーナ様はその世界を生きるのですね。マルコ殿と共に」
「ええ、きっとそうです。何しろマルコですから、甘く優しいばかりってことはないと思いますけど……それでも素晴らしい何かが始まりますよ、きっと!」
どちらからともなく、南を見ていた。
世界は激しく焼かれながら、新しい時代へと、誰も経験したことのない未来へと加速しているに違いない。今は南か。次は西か。この北の地はそれらを眺望する位置にある。人の世の高みにある。アスリア王国の次代の王は、既にしてここより大陸を睥睨するに至っているのではないだろうか。
老人のぼやき声が聞こえてきた。少女の素っ気ない返答もまた澄明に響く。
ラウリは大切な巻物に手を添えた。俄かに、そのひと巻きが歴史そのものである気がしたからだ。羊皮紙の滑らかさに乗って僅かに熱が感じられた。それに触れることのできる今を貴く思う。
北は静謐にして飾らず暖かく在り。争乱の南からやってきたラウリは、次いで西へと向かう。
宝物の一巻きを手に……マルコの創る時代の最先端であるところの、西の地へと。




