幕間話 あの者を知ろうとするなら
何でこんな目にあっているのだろう。
方々から鳥獣の鳴き声の届く鬱蒼とした森にあって、エレオノーラは泣きそうになるのを堪えていた。叫ぶわけにもいかず、中腰の姿勢のまま身動きも取れない。自分ではどうしようもない状況だった。
「だからさぁ、その邪魔っけな髪の毛切っちゃえばいいんだよ」
どうにかしてくれるべき人物は、溜息混じりにそんなことを言う。
「いいわけない! 馬鹿! 早く取りなさい!」
「めんどくさいなぁ」
「うるさい! あ、痛い痛い! もっと丁寧にして!」
「うるさいのそっちだし。魔物とか出ても知らないからね?」
「……!!」
叫び出しそうになった口を両の手で押さえて、エレオノーラは周囲の様子を確認しようとした。首を振る勢いが強すぎたために再び髪が引っ張られて涙目になる。悲鳴は堪えたものの、見れば棘草と髪の毛との絡み具合はいよいよのっぴきならない事態と成り果てていて、それを解こうとしていた者はもとより熱心でなかった試みを遂に放棄してしまった。うんざりといった風に両の手を上げたのである。
肉付きのいい丸々とした指である。その子供の背丈はエレオノーラの胸までしかない。身なりは薄汚れていて靴も履いておらず、短く刈った髪は鳥の巣のように四方八方に跳ねているが、目は大きく円らで可愛らしい。口からは憎たらしい言葉ばかりが飛び出てくるのだが。
「これもう無理。髪を結わないで森に入ったエレ姉ぇが悪い。切るしかないって」
腰の山刀を示しつつ言う。確かにエレオノーラの服装は森に分け入る格好としては間違っていたのかもしれない。男物の服にするべきだという意見を無視して、装飾の少ない普段着を着てきている。帽子は途中でとってしまった。しかし、彼女にとって髪を切る道具とは繊細な鋏であって山刀ではなかった。
「い、嫌よ。何とかしなさいよ」
「何ともなんないって言ってんの」
「なら、草の方を上手く切りなさいよ。カイは慣れてるのよね?」
「切っても取れないし、絡んだのってエレ姉ぇの考えなしが悪いんだから、そっちは切りたくない」
「どうしてよ! 私の髪なのよ!?」
他ならぬアスリア王国王女の髪だ、とは言えない。エレオノーラは自らをエレノラと名乗っていた。家名はないものの貴族の娘として認識させている。それで十分に己の頭髪の貴重さは伝わると思っていたが……返事はにべもない。
「草のが大事」
「何でよ!!」
思わず荒げた声が招いたものか、遠くないところで藪を掻き分けるような音が連続した。エレオノーラは悲鳴が込み上げたがそれを発せなかった。土の匂いのする小さな手が口を覆っている。その暖かさと力強さに黙らされて、しばし静寂の時が流れた。音は遠ざかったようだった。険を含んでも愛らしい瞳がエレオノーラを見据えている。
「確認しとく。ここがどこだかわかってる?」
「……塵夢森」
「あたり。魔境なの。オイラの言うこと守らないと死んじゃうんだからね?」
カイが頬を膨らませて言ったから、エレオノーラは頷くのだった。こうしている間も正体の知れない鳴き声は二人を包むようにして聞こえている。普通の森であってもそれは不気味なものだが、ここは尋常の森ではない。
塵夢森。アスリア王国南部に広がる魔の森だ。王国法により立ち入りを厳しく禁じられており、教会に至っては森そのものを不可触の禁忌と教えている。
エレオノーラもそれは当然のことと認識していた。その植生の濃密は人に仇為す奇怪な湿気に支えられていて、分け入ったならば外周部であっても時に人死にを出すほどの危険な場所である。この森にしか生息しない凶悪な獣や植物も多く、それらは魔物と呼ばれ恐れられている。エレオノーラも幾種類かの魔物の名を知っていた。赤色粘菌、蜥蜴凶鳥、人喰蜘蛛……どれも絵物語に語られる化物たちである。
この小さなカイの言葉は正しいのだ。この森は多くの探検家や調査団の命を飲み込んでいるともいう。人の身の屈強か否かとは無関係に死が訪れるからこその魔境だ。気付けば、エレオノーラは己が身を自ら抱き締めていた。汗ばむほどだというのに寒気に襲われていた。
「あ、まずい。風変わったし。まずい」
止める暇もあらばこそ、カイは山刀で躊躇いもなく髪を切断し始めた。強引で速い。そこに焦りが見られたから、エレオノーラは何を抵抗することもできなかった。
「走らず急いで。絶対に手を離しちゃ駄目だ」
「わ、わかったわ」
雨が降ったでもなしにぬかるむ地面を踏みしめ、藪に隠れた起伏の激しさを越えていく。控え目にしつつも小奇麗であったはずの服はもう見る影もない。乱雑に切られた髪のこともある。エレオノーラは込み上げてきた熱さが涙となることを止めなかった。
手を引くカイがちらりと振り向いて、何も言わずに繋いだ手の握力を強めた。エレオノーラは小さくて柔らかいその手の熱さが嬉しかった。汚くて洗練されていない手である。本来ならば触りもしないはずの手だ。それがしかし闇夜の灯明のように貴重で掛け替えのないものであるとわかっていた。何より、彼女はこの小生意気が好きだった。今の彼女にとって唯一心許せる相手だった。
息が乱れるほどに動いたからだろうか、エレオノーラは体が温まることを感じていた。疲労したはずの体がむしろ軽快に動く。素朴な喜びが湧いたものだが、彼女を先導する者はまさにそこで移動を止めたのである。倒木を椅子にして座った。手は離さなかったから二人の肩が並んだ。
「よかった。狙われたわけじゃなかったみたい」
「どういう……こと?」
「魔女だよ魔女。この森の奥にいて魂を啜る化物さ。エレ姉ぇが会いたがってる人」
「そ、そんなことをするの? 私たちのことがわかるの? わかっていてそんな……」
「普通じゃないことができるって期待してお願いに行くんじゃないの? 普通じゃないってのは、別にいい意味だけじゃないんだ。魔女に会えたら願いが叶うとか、絵物語の悲劇のお姫様じゃなし、そんなこと望み薄だよ。森に入る前に言ったでしょ? わけもなく殺される方がよっぽど想像しやすいんだけど」
話を大きくしたり、脅したりする相手ではなかった。周囲の人間が誰一人として信用できない中で、このカイだけは嘘偽りのない表情と言葉とで接してくれた……エレオノーラはそうわかっているから、堪らなかった。涙が零れた。声を立てずに泣いた。
「気が済んだならさ……今からでも引き返す? そしたら貰ったお金も返すし」
半分だけど、と付け加えられてむしろ涙が増えた。金銭を惜しんでのことではない。自分たちがここでこうしていることの理由を改めて思い知ったからだった。息巻く気持ちも萎えた今、エレオノーラは心に生じた後悔を消せないばかりか、それが強まり広がっていくことを感じていた。怖気づいてもいたが、カイを巻き込んだことが悔やまれてきたのだ。
今も手を握るこの小さな案内人は、エレオノーラが暮らしていた屋敷の雑用係である。正規に雇用されているわけではなく、使用人の嫌がる雑役を行ってはその都度駄賃を貰っていたようだ。糞尿の汲み取り、廃材の分別、排水溝の掃除……エレオノーラがカイと出会ったのは早朝の花壇においてである。不寝番をしていたのだ。夜を通して集められた粘虫の数たるや、空にも届く悲鳴を誘発したほどであった。
初めは忌み嫌っていた。泥まみれで働く者など視界に入れようとも思わなかった。エレオノーラは泥のついたものが嫌いである。汚れてしまえば価値は失われるのだ。人も、物も、最も美しい状態とは一度も汚れていない期間であると信じていた。汚れを落とした後ではそこへ戻れないのだと考えていた。
けれども、カイは綺麗だった。その笑顔は眩しいほどだった。
訳もわからないままに過ごすことを余儀なくされていた屋敷……王都ではない寂れた町の、壁に囲われた小世界のようなそこで、カイだけが唯一人の“本当”であった。エレオノーラの周りにいる他の者たちは、誰も彼もが上品で洗練されてはいたが、笑顔も言葉も何もかもが上辺だけのものだった。偽りなのだ、それらは。
エレオノーラは自分が捕らわれているとすぐに気付いたものだ。悪夢のようだった。王族であるはずの自分が、父王とも勇者とも引き離されて、城でもない辺鄙な場所に軟禁されている。何を言ったところで取り合ってもらえず、それどころか折に触れ意味のわからない不気味なことを言われるのだ。
父王は死んだ。勇者は死んだ。自分には夫と子供がいる。
何一つとして理解できなかった。それをさも真実であるかのように語る者たちに囲まれて生きることは覚めない悪夢そのものだった。いや、実際に悪い魔法がかけられているのかもしれない。エレオノーラはそう思い至ったから、屋敷を脱け出したのだ。王都を目指さず、魔の森へ向かって……そこに隠れ住むという魔女に会うために。
命懸けであることは薄々わかっていた。失敗の不安も感じないではなかった。それでも期待がとても大きかったから、今、エレオノーラはここにいる。強い衝動が彼女を突き動かしている。
カイに案内を頼んだことには理由があった。この小さな勤労者が稼ぐために森へ入っていると聞いていたからだ。珍しい植物を採取することで時に思わぬ収入があるという。違法な行為ではあった。しかしそれをしないではカイは生きていけず、この際はそれをしていたこと自体がエレオノーラにとって幸運のように思えた。可愛いカイに導かれて魔女に会い、魔法でもってこの奇妙な現実を覆す……エレオノーラはそんな筋書きを当然のように夢見ていた。そうなるべきだと考えていた。つい今し方までは。
「いい歳してめそめそしないでよ。まったくもう」
「と、歳の話はしないで。本当はもっと若いのよ」
それが悪夢の最たるところだった。エレオノーラは己の胸と足とを見下ろして遣る瀬無い思いを歯噛みした。特に違和感があるわけではない。しかし三十代と言われて否定できない体なのだ。それは彼女にとって極めて理不尽なことだった。受け入れ難いことだった。
エレオノーラは己を十代であると認識していた。周囲の言うような年齢であることなど信じられなかった。自分の記憶については霞がかかったように曖昧なところがあり、それは疲れているからなどと仮面の笑顔に慰められもしたが、そんなことよりも何よりも忌避感ばかりが強かった。ただただ、あってはならないことを押し付けられていると感じていた。
何かが間違っているのだ。そうであるならば正されなくてはならない。自分と世界との間に横たわる気持ちの悪い認識の齟齬は、世界の側が変わることで整うべきだ。エレオノーラはそう確信していたし、その気持ちは今も揺らいでいない。
しかしその方法については迷いが生まれていた。かくも苦労するとは考えていなかったからだ。泥に汚れることも、髪を切ることも、死の気配に怯えることも、彼女の想像の外だった。ましてやカイもいる。心強い以上に不安だった。魔女への道行きを強引に頼み込んだ自分は、もしかしたらとんでもない危険をこの小さな友人に強いたのかもしれない……そう思うとエレオノーラは身が竦むのだった。
「老いを認められないって悲しいよね。オイラと同じくらいなのに」
そんなエレオノーラの思いを知ってか知らずか、カイは首を振りつつ溜息混じりに言う。
「……それ、どういう意味で言っているのかしら?」
「そのまんまだけど。年相応の元気で生きようって意味」
「わ、私は三十代なんかじゃないの!」
「十代に見ろって方が無理だと思うんだけど」
「貴女にだけは言われたくないわ! 色々と!」
エレオノーラは自分でも不思議な文句をつけたものだと思った。何が嘘で何が真かもわからない中にあって、こうして魔境の倒木に腰掛けている自分たちは物珍しい存在であろうとも。
カイは自称三十歳の女性なのだ。
本当ならば小人族である。それは絵物語に登場する存在であり、ドワーフやエルフと同様のものだ。この世界には風変わりな存在として生きる少数民族がいないではないが、それにしたところで肌の色や目の色が異なるくらいのもので、子供の見た目をした大人などいやしない。少なくともエレオノーラは聞いたことがない。
「そんなこと言われても、実際、三十年から生きてるからね。前の戦争だって体験してるし」
本気で言っているのか冗談で言っているのかはわからないが、嘘であることは間違いない。そしてそんな嘘であれカイが言ったのならばさして不快ではなかった。エレオノーラは聞き流すつもりでいたが、しかし、その言葉が耳に飛び込んできて心を強く揺さぶったのである。
「魔人の火刑だって見物したし」
胃の腑が跳ねたのではないだろうか。エレオノーラはその衝撃に震えた。突然のことであり、また、原因不明のことであった。思考も乱れていた。耳ばかりが外の世界を捉えていた。
「世の中って割といい加減だよね。魔法が使えるわけでもないのに魔人だもん。しかも残酷だ。人一人を皆で殺しておいて夜通しのお祭だもん。オイラは街の掃除とか落とし物探しとかでちょっとしたお金になったけど。エレ姉ぇはあれを見た?」
吐き気が酷く答えられなかった。目眩がするほどに気持ちが悪かった。下を向けば体の中身が全部流れ出てしまう気がして、エレオノーラは上を向いた。霞む視界に映ったのは濃緑の鬱蒼だ。木々の枝葉が幾重にも層となっていて空を覗くことは叶わない。
「見たことなんて……ないわ」
涙は乾いていた。今の苦しさにはむしろ涙の熱さが望ましく思われた。
「そんな……気持ちの悪いもの……」
喉の奥から声だけを絞り出して、エレオノーラは遂に限界を超えた。嘔吐したのだ。吐き出されて泥に飛び散ったそれらは彼女の衣服を汚した。口の端から垂れて首元に入ったものもある。わけがわからなかった。わからないままに吐き終えて、息を荒げた。背中をさすられていた。泣きたくなるほどに暖かく優しい感触だった。
「私だけで魔女に会えるかしら?」
落ちつくなりすぐの発言だった。カイの円らな目がより大きく見開かれた。その顔立ちはやはり愛らしいとエレオノーラは思う。こちらは偽名であちらは年齢不詳と、互いに正直とは言えない間柄であろうに、そこには不思議な居心地の良さがあってエレオノーラを和ませる。依存しかねないほどだった。
しかし許されない。この小さなカイが傷つき倒れるところなど見たくない。
エレオノーラの思いは眼差しに表れてでもいたものか、カイは頬を赤らめたり鼻の穴や頬を膨らませたりと様々に表情を変化させて、それで最後には満面の笑みを見せたのである。
「無理だね。この森で長生きするにはオイラが必要だ。そうでなくとも、エレ姉ぇじゃ今夜の寝床も食べ物も用意できないだろ?」
「それは……そうだけれど」
「それなのに諦めないんだね? 魔女に会わなくちゃ、もう、年を取ることもできないんだね?」
「そう……なのかもしれない。けれど年齢の話はやめて」
「あはは、エレ姉ぇのこだわりだね」
カイの笑顔は花が咲いたかのようだったから、エレオノーラは怒るふりしかできないで、それで最後にはつられて笑ったのである。恐ろしい危険の漂う魔の森の中で、二人は、それぞれに泥を蹴飛ばしながら笑い声を発したのだ。声を潜めることすらが楽しかった。不思議な元気が湧いてきていた。
「うん、じゃあ、三日間頑張ってみよう。持ってきてる食糧の分だよ。それで魔女が見つからなくとも、オイラは貰ったお金の分は働いたことになるしね」
「……そうね、わかったわ。お願いするわね」
「まっかせて。あ、でも、オイラの言うことはちゃんと守ってね?」
「わかってるわよ」
本当かなぁ、などと顔を覗き込んでくる無邪気な顔へもう一度怒ったふりをしてみせて、エレオノーラは冒険を再開する。塵夢森に魔女を求めて……その者の使うという魔法の力を望んで。
それはアスリア国に国葬が行われた年の翌年、夏の盛りのことである。
王国南部パルヴィラ伯爵領の外れの町に軟禁されていた第一王女エレオノーラは、俄かにその姿を晦ませ、大人数による探索が行われたにも関わらず見つかることがなかった。翌年も、その翌年も、彼女は尋常の世界から消失して何ら音沙汰もなかったのだ。
森の外では三年の月日が内乱を武力闘争へと進ませていく。
しかしエレオノーラは現われない。大河を受け入れて人間を排する魔の森は、風に無限の葉を蠢かせ、歴史が再び戦いの季節を迎える様子を超然と眺めやるばかりである。森に抱かれた彼女たちもそのようであるものか……エレオノーラも、カイも……塵夢森の魔女ミカザインも。
さても、王都の西に軍旗は上がる。戦だ。刀剣をもってする大量の命のやり取りだ。貴族には権威を、騎士には名誉を、兵士には報酬を、それぞれに試され与えられるために争う大祭だ。王国に名立たる旗が幾つも天を衝く中で、それはやはり掲げられた。掲げられないわけがなかった。
赤色に炎の凄まじさを表わして……火刑戦旗は掲げられたのである。




