第74話 地の星空は見えずとも僕は
月のない夜の薄寒に大河の黒く下るを眺む。
湯も酒も肴もなく、ただ鋼の刃を外套の下に携えて、ジキルローザは独りそんな時間を過ごしていた。春を遍く行き渡らせる強風がこの時刻にも吹いて銀髪を揺らす。灯火などありはしなかった。夜闇とは人間にとって多くの危険を潜ませるから、予測不能の不安から逃れるために家は在り町は在る。大自然に孤立することは易しいことではない。人は相互に連帯することで人間を生きている。
しかしどこにも例外はいるもので、彼女は生まれついてのそれだった。その出自からして世間一般とは違う。浅黒の肌、銀の髪、紅の瞳、抗老長寿……北の大氷原に住まうとされる少数民族はもとより人間の尋常から逸脱している。実際のところは瘴気と冷気の極みたる氷の世界に暮らせるはずもなく、山岳部の険しきに潜み暮らすだけであるが、それにしたところで多くの不思議を秘めている。
そんな中でも、彼女は特に神秘を帯びた存在だ。美貌の中心にあって妖艶に光る両の瞳……その紅色は鮮やかに過ぎて稀有の能力を持つに至っている。闇をものともしない理由はそれだ。
“魔眼”は灯る。彼女にとって大河は星空のようにして流れている。
滔々と流れる巨大な水量の表面に、中に、奥に、淡い光が星の如く瞬いて南へと運ばれていく。その明かりはただ存在を主張するばかりで周囲を照らすことがない。影を生まない。そもそも尋常の目には映らない光なのだ。謎めいて美しく、ねっとりと妖しく、そしてどこかが艶めかしい。地を流れる明滅無数の一本道には見る者を闇へ誘う何かがあった。
また風が吹きつける。そして銀の髪にも一粒の光が付着して、幽かな明度でもって在ることを示した。ジキルローザは無造作にそれを払った。儚く離れて大気に乗る。夜風も彼女の目には無色透明ではない。雪が風に吹かれて舞うが如きものだ。世界は幽光に満ちている。
手を見る。彼女が彼女である根源から湧き出でて血流に乗るものがある。肉の身にあってそれは目立つほどではないが、やはり闇に浮き立ち光ってはいるのだ。魔力と呼ぶには生々しいそれ。
命だ。
ジキルローザの霊妙なる瞳が捉える光とは命の輝きに他ならない。
草も木も、鳥も獣も、生きとし生けるものの全てに宿る光である。それは不可思議な法則により偏在するものだ。虫のそれは弱く短い。木々のそれは強くはないが長い。猛獣のそれは強いがそう長いものではない。明るさの強弱と光り続ける長短とは無関係だが、いずれにせよ消失すれば死ぬ。死んで光は器を離れる。大気に舞い水に流れて世界を巡る。あるいは再び集まって新たな命になるのかもしれない。そうでないにしろ、大海なり大氷原なりに去ってしまえばもはやその後の行方など知れたものではなかった。
この光は同じ種族にしても明度の差があって平等ではない。ジキルローザはその差異をある種の力量差だと考えていた。存在感の強弱と言ってもいいのかもしれない。運命に作用し、世界へ影響する力の差だ。それが最もはっきりとわかるのが、人における個体差である。
総じて人の光は強く、特に戦場においてそれは判別のしやすいものだった。死地にあって人はその命の最大限を発揮するものなのかもしれない。彼女はこれまでに多くを見てきた。戦闘技術の巧拙や身体能力の強弱は絶対の要素ではなかった。強者と同格の光を輸送部隊の会計士官が宿していたこともある。兵士であることも必須ではない。保護された童が兵士を上回っていたことすらあった。
理由はわからない。しかし間違いのない結論があった。敵部隊を叩くにあたっては、この光の強い者を討つことが最も効果的である。狙うべし。どこへ隠れようとも。どんな姿であろうとも。
ジキルローザの戦歴はそんな首獲りの連続であった。
戦術を駆使して戦場に一人を殺すのだ。狙うことで動揺させ、殺すことで乱し、鎮まる時を与えずに崩しきる。切っ掛けとなる一人は時に指揮官であり、時に猛者であり、時に一般兵であった。老いも若きも男も女も関係無しに、その誰もが敵部隊の要であり支柱であり象徴であった。つまりは急所だ。
かつての戦争において彼女が属したサロモン軍……その強力無比な打撃力には、そんな特別な理由があったのだ。しかしそれが唯一の理由ではないし、最大の理由でもないことを、他ならぬ彼女の魔眼が証明していた。サロモン軍において最も光を宿していたのは彼女ではない。指揮官たるサロモンである。
見惚れるばかりの輝きだった。ジキルローザはその光輝を戦場に限らず日常のどこにおいても認めることができた。美しかった。彼女はその美しさそのものに仕えたのかもしれない。彼を知って彼に従わずに生きるなど考えられなかった。魔眼は彼を見出すために存在するようにすら思えた。彼の副官として駆けた日々は黄金の価値に彩られていた。
一度は終わってしまったかに思えたその喜びは、暗黒の夜を越えて、今や更に彼女の人生を熱く輝かしいものとしている。ジキルローザは恍惚を噛み含んでそちらを見やった。第三王女親衛団駐屯地の方向だ。暗い森に僅かな灯明を揺らせて歩み来たる者がいる。足元を照らしているのだろう照明よりも遥かに優る明るさを身に宿していて、遠目にもその畏怖すべき美は明白だ。全てを透過して尽く一新するかのような青色と、高貴にして霊威甚大の力を表す紫色とに燃え立つ命の輝き……ああ、在ることの一歩一歩、その愛おしさよ。
「ここがお気に入りとは知っていましたが……月明かりもなしに凄いですね」
今の名をマルコというその人は、暗闇の中にも黒くある髪を強風に乱されながら、角灯をそっと地に置いた。そして外套の前を巻き直して閉じる。ジキルローザは咄嗟に己の外套を差し出そうとしたが眼差しで止められた。夜空の高みと深みとを結晶させたかのような瞳だ。内なる光を表していて見惚れる。
「マルコ様、まだ夜風は寒うございます。特にこの場所は……」
「ええ、風が東龍河を抜けていきますね。見渡しても暗いばかりの風景です。僕には」
ついと隣に並ばれたならその背丈はジキルローザよりも低い。首は細く、体格の薄さも察せられる。戦士としては若く未熟だ。実際、得意とする槍こそ人並み外れているものの、その他の武器の扱いについては彼よりも強い者は幾らもいる。ましてや彼の体調は未だ万全とは程遠いところにあって、回復は遅々としたものに過ぎず捗々しくない。
それでも強い。魔眼の捉えるその輝きは唯一無二にして古今無双のものである……そうジキルローザは断言できる。そしてそれは日々新たに更新されていくものであるとも。
「風に、水に、それらはありますか?」
「はい。吹かれ舞うものも水面に落ちて運ばれております」
彼は魔眼の真実を知る。当然のことだった。
「北へ行けば砂漠か氷原か。南へ行けば森か海か。世界に魔の領域は在り、人はそれらに囲まれて逃れる場所とてありはしない。命の果ての虚しさよ。果てず在ることもまた窮屈で狭苦しい」
歌うようにして、奏でるようにして、彼の声が夜に広がっていく。ジキルローザは聴きつつも心を構えた。答えなければならない言葉があった。
「ジキルローザ。命芽吹く春に命散り潜む冬を尋ねます。足りませんね?」
「……はい。年月がこのままに巡り行けば、いずれまた森は広がりましょう」
どちらともなく大河の流れ行く先へと顔を向けた。南だ。天境山脈から流れ落ちるこの大水量はアスリア王国の領土を縦に貫いて大海へと至るが、その旅路の終盤に大森林を通過する。忌まれた名をして“塵夢森”。魔女の住まう森とも、人の魂を枯らせる森とも噂される魔境だ。
「本当に……この世界というものは……!」
ジキルローザの耳に届いたその声には万感の思いが込められていたものの、特に憤怒の割合が大きい様子だった。目を向けたならば霊びの光に燃える彼がいて、その眼光は断固たる意志を帯びて時空を貫くかの如くに放たれている。ジキルローザは顔を伏せて畏まった。威儀を正した。そうすべきだった。
人間の先頭に立つ者の壮絶がそこにあった。
ジキルローザの知る限り、彼こそは最も世界に影響する者である。社会に規定されたあらゆる価値とは無関係に、ただその光輝のみを己の資格として、誰も知らない未来を獲得しようと戦っている。それは革新の最先鋒だ。時代を切り拓く剣の刃先だ。旧来を穿ち破る槍の穂先だ。今、歴史とは彼の踏破した道程として記され続けているに違いない。
「ミカザインの技をもってしても、叶わないのですね」
彼から発し彼を包んでいた烈火とも見紛う光彩が鎮まった。ジキルローザが顔を上げたならば、そこには常の思慮深い彼がいて静かに彼女を見つめている。
「老師は先の数万を嬉々として煮ておりました。当面はそれで足りましょうが……」
「あんなことは二度とやりません。やらせもしません。それに北の砂漠のこともあります。あちらはどうしようもないのでしょう?」
「はい。老師の魔法は森にいてこそのもの。砂漠では」
彼はため息を吐いた。北東を見やった横顔には物憂げな色が混じっている。ジキルローザもまたその視線を追い、憂う。王国北東には魔境“死灰砂漠”が存在する。その瘴気の気配は北東辺境の民には無視できない脅威として感じられていたに違いない。彼が幼少期を過ごしたキコ村とはそこにある。
ジキルローザは察していた。マルコ・ハハトとして生きる彼は、その運命の凄まじさとは裏腹にして、己の故郷である村へ甘い慕情を抱いている。麦実り馬遊ぶ風景の中に過ごした日々を宝物のように考えている。そこで育っていながらなお憧れるものがあるのかもしれない。かつてには見られなかったその心情は、ジキルローザにとって際立ち気付きやすいものだ。
家族……いや、母親ではないだろうか?
彼を産んだ女性については、産後の肥立ちが悪く、長く臥せった末に亡くなったとジキルローザは聞いている。彼が九歳の頃だ。そしてその一年後に彼は十歳にして戦場に初陣を飾ったという。そこに母への服喪と除喪を感じるのは偏った憶測だろうか……ジキルローザはそんなことを思う。
だから、彼の口から「喪に服する」という言葉が出て小さく驚くこととなった。
「四候六伯による決定ですよ。先程ユリハルシラ候より連絡が届いたので、伝えておこうと思ったのですが」
「失礼いたしました。しかし、国主の喪ですか……次代の王も定まらぬままに」
「状況が状況ですからね。向こう三年間は戦端を開かず、喪の明けた期日に会戦をもって南北の正統性を競うと決まりました。この約定を破れば中立である二候と敵対することになり、王都の財産も差し押さえられます。まあ、何よりも国軍が敵軍となることが大きいですね。国王の喪を破る勢力は賊軍ということです」
淡々と説明しつつも、その目には揺らめく炎の煌めきがある。
「国葬は王墓を鎮護するロンカイネン候が主催し、王位継承権者は一律それに出席しないことも決まりました。臣下の越権とも見える決定ですが、これは南北両陣営どちらにとってもやむにやまれぬものです。あちらは第一王女も第二王女も出席させられない事情があり、こちらは離宮炎上の経緯を思えば第三王女を出席させたくない……ふふ、報われませんね、あの王も」
彼がしめやかに微笑んだから、ジキルローザもまた死んだ男のことを思った。アスリア国王ヴィルヘルム。かつての戦争においては亡国の危機を招いた男であり、此度の戦争においては何をなすでもなく病臥していた男だ。歴史はこの男を褒めそやしはすまい。王国においても帝国においても戦争に弱い王が評価されることは少ないからだ。ジキルローザもまた高い評価などつけようはずもない。しかし帝国とは異なり少数民族を保護した男ではあったし、復興を指揮してそれを成功させた男でもあると理解していた。
だから、同情しないわけでもなかった。少なくとも実の娘に毒を盛られて死ぬことがお似合いだとは思わなかった。使われていたのは尋常の毒ではない。落魂の魔薬とでも言うべきか。心でも体でもなく、命そのものに作用してそれを溶かし散らす霊薬だ。教会の秘匿技術による生成物と見て間違いない。
その存在を初めに察知したのはジキルローザである。東龍河に大火計が成った後、彼女は彼の元へ参じるべく塵夢森を出た。情報収集のため王都に立ち寄った夜のこと、城の奥まった場所から空へ流れていく光を見た。それは不自然な輝きだった。生はそのように命を溢さず、死はそのように命を千切らない。似た現象を起こすものとしては、彼女の師たる人物が用いる魔法があるきりだった。
用意したのはベックだろう。ジキルローザは肥満体の聖職者が奇跡調査室と関係することも知っていれば、魔法のように口の回る男が実のところ大変な焦燥感をもって動いていることもまた知っている。あり得る話だった。直接にそれを用いていたという第二王女は、果たして自らの行いを理解していたものだろうか……理解していたのだろうとマルコは言っていた。霊薬の扱いの難しさを思えば道理である。しかしその動機についてはジキルローザの想像の及ぶところではなかった。
いや違う、と彼女は口の端を歪めた。詳細はわからなくとも想像できるところはあった。熱狂的信仰だ。無形の神への抽象的なそれとは異なり、有形の、目に見える誰かへの愛着と確信……その人が世界に存在することを寿ぐだけでなく、その人が世界へ影響する光景を崇拝し、積極的にそれを推進しようとしたのではないだろうか。
人が自分のためにできることなど高が知れている。困難を前にして折り合いがついてしまうからだ。多くの偉大は自分以外の誰か、あるいは何かのために行われる。際限のない超克と邁進がそこには生じるからだ。ジキルローザはそう考えるし、己がその熱狂を胸に生きていることを自覚している。
改めてマルコを見た。夜を髪として風に晒し、宿命を瞳の色に宿して世界を広く遠く見据えている。命の光は彼において人の最大を示していて、それはもはやかつての勇者をも凌ぐ。そう、勇者とはまさに光り輝く者であった。その性質においてジキルローザは嫌っていたが。
「戦いは三年後ですか」
尋ねたならば、まず笑みが返された。彼の特別な笑みだ。見る者に勝利を確信させる。
「ええ。しかも一度きりの会戦では終わらせません。あちらにもその覚悟があると確認できました。内乱は期待以上に激しいものとなりそうです」
笑い声が鈴の音のように響いた。その清澄さは嵐の前の青空か、それとも変革の先触れを表しているものか。ジキルローザは判断できないままに拝し聴くのだ。わかる必要はなかった。その他の万事とはそもそもの価値が違う。得難さを理解していればそれでいい。それで彼女は戦える。
知っているからだ。どんなにか光を放つ者であれ、死は突如としてそれを途絶させるのだと。
命の光の強弱は光り続ける時間の長短とは無関係である。人は人でしかないのだから死は避けられない。つまりは殺せるのだ。他ならぬ彼女が得意としている行為だ。歴史もそれを証明している。偉人とはむしろ長く輝けない傾向にすらある。
護らなければならない。彼が諦めない限り、死を受け入れない限り、ジキルローザは全身全霊をもって彼を守護するのだ。そして彼の征く先へと同道する。今度こそは。
「お勝ち下さい。全てはマルコ様の望むままに……」
思いを込めて言った。
「そうします。きっと、そのためにこそ……僕は再び在るのでしょう」
月はなくとも天には無数の星が瞬き、誰に見えずとも地には命の光が明滅する。しかし、ジキルローザの紅の瞳は天地何れの美にも心を動かされはしない。彼だ。ただ彼の輝きのみが魂を震わせる。
風が吹きつける。
しかし世界は二人を凍えさせることなどできはしなかった。




