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第71話 共に働く君へ感謝と祝福を

 窓辺へ寄せた寝台に身を横たえて、ダニエルは昼下がりの一時を独り過ごしていた。微風に髪が揺らされ襟元がくすぐられる。清らかな白色の寝具は光を跳ね返して些か眩しいものの、その明るさといい布越しに伝わる暖かさといい、清新な印象があってダニエルには好ましかった。


 雪白花の鉢植えを見やる。窓の縁に置かれたそれは、綺麗に整えられた一室において少々の違和を放つものだ。葉は一部が破れ、折れた茎もあり、花も乱れている。使用人が誤って落下させたからだ。本来ならば下げられ捨てられるはずだったそれをダニエルは望み、鉢を変えて床暮らしの供としている。感傷にしては安っぽく、酔狂にしては童じみている……ダニエルはそう思いつつも、日に何度もそれを見る。


 力強いのだ。元の形に戻ることはなくとも、破れた葉を日に向け、残る茎を伸ばし、花弁の欠けた花を咲かせ続けている。形を変えた生は以前とは別物として美しい。そこには悲壮感など微塵もない。ただ逞しさがあるばかりだ。


 ついと手を伸ばし、傍らの卓から取ったものがある。幾つも並ぶ巻物の内の一つだ。既に巻きも緩み平らかになりつつあるそれを読むべく、ダニエルは上半身を起こした。萎えきった体でもそれくらいはできる。もはや馬上に身を置くことは叶わなくとも、自分にはまだできることがある。ダニエルの目は羊皮紙の上の几帳面な文章を読むというよりは眺める。内容はとうの昔に心身に染み渡っている。


 扉を叩く音がした。高い位置で、やや加減を知らない叩き方。ダニエルが応えたならば即座に入室してくる偉丈夫こそ、この屋敷の主にして伯爵領を治めるところのレオ・サルマントであった。


「おお、随分と調子が良さそうではないか」

「はい。閣下のご厚情を賜りまして、日差しにそぞろ歩きを誘われるほどまでに」

「重畳。しかし無理はいかん」


 大きなその手で鷹揚に振られた。ダニエルは寝台から降りて威儀を正そうと動いたのだが、それは無用とのことらしい。サルマント伯は寝台脇の椅子に腰掛けた。その振る舞いは型破りのようでいていつも親しげだ。ダニエルを見る目にも真っ直ぐな好意がある。


「春は近い。卿の帰還もまた然り。焦ることはないのだ」

「閣下にはご迷惑をお掛けするばかりですが……」

「何が迷惑なものか。許されるものならばこのまま長く住まって欲しい程だぞ。しかしユリハルシラ侯にしろハハト将軍にしろ、卿ほどの者を私の話し相手なぞに放ってはおかんようだ。そら、卿宛てだ」


 愉快そうに渡してきた巻物にはユリハルシラ家の印章による蝋封が施されている。ダニエルは半身のみでも礼を示し、許可を得てすぐにそれを開いた。サルマント伯が自ら手渡した動機を察したからである。


「……侯爵は何と?」

「いえ、これは侯爵閣下からのものではありません。ご子息のルーカス様からです。私との再会を待ち望んでいただいているようです」

「ふむ、そうか。卿は彼の相談衆でもあったな」


 期待されていたものがわかるだけに、ダニエルは苦笑いを浮かべるよりなかった。ユリハルシラ侯からの正規の連絡がサルマント伯へ届いていないはずもない。それでもなおダニエルへの巻物へ興味を示してしまった理由……それは、彼が早期の決戦を求めているからに他ならない。


 北部勢力にて兵権を有する者の内、最も好戦的な姿勢を見せているのはサルマント伯である。それを彼の性格が原因とするのは些か酷だとダニエルは思う。前線領主としての重責が内乱の長期化を忌避させているのだ。行禍原の先にはエベリア帝国が今も存在していて不気味な沈黙を保っている。いざ事あらばその侵攻の矢面に立つのはいつだってサルマント領であり、ペテリウス領である。


「これは私の判断に過ぎませんが……」


 ルーカスからの巻物を脇へやり、ダニエルは言葉を紡ぎ出した。


「龍将軍は……マルコは、帝国の内情について見切っているのだと思います。少なくとも内乱の決着がつくまでの時間を確保したと考えているのではないでしょうか。無論、万一の時のための策も用意しているようですが」


 チラリと、以前送られてきた巻物へ目をやる。サルマント伯も視線を同じくしたようだ。それはユリハルシラ候より届いたものである。


「先の決戦において“火撃”の内の百騎は行禍原の中間拠点に回り込み、王国軍の敗残兵を糾合して徹底的な追撃戦を行いました。その戦果は帝国軍にとってとどめとも言えるものでした」

「うむ。我が領軍との演習のために来ておる者たちだな。ハハト将軍の先見の明には恐れ入るばかりだが、あれほどの騎兵を指揮しているのならばと納得もさせられたぞ」

「彼らはどの軍よりも苛烈に帝国兵を追討しましたが、しかしどの軍よりも早々と行禍原から帰還したのです。その意味するところは、もはやこれ以上探したところで皇帝を討てはしない、という判断に他なりません」


 ダニエルが言外に伝えるところのものを、サルマント伯は過たず理解しているようだ。眼光も鋭く先を促している。


「それにも関わらずの沈黙……これは帝国において帝室の権威に問題が生じているからだと思われます。国の総力を挙げての大侵攻作戦は、その規模に応じて莫大となった被害によって、帝国の国体を揺るがせにしているのです。これは放置することが却って正しいでしょう。明確な脅威なき状況は内部の結束を緩ませます。畢竟、帝国もまた見えない内乱を戦っているようなものではないでしょうか?」


 粛々と言葉を重ねたならば、聞くサルマント伯はいつしか両目を閉じて腕組みをしていた。その姿は重々しく厳しい。ダニエルは見られぬことを幸いに笑みを漏らした。万を超える将兵の命を預かり、敵国を眼前にして後背に国を護持する者の威風……それはユリハルシラ侯によく似ていた。差異として覗く果敢さが、あるいは年齢というものかもしれないと思う。


「……何年後になるか」

「最短でも二十年後には。最長においては大陸の在り様が変わっていましょう」

「大陸の……か」

「マルコがいます。世界が再び繰り返すことなど」


 サルマント伯は目を見開き、ダニエルはその二つ瞳へと己の信念を投射した。大言壮語を吐いたつもりもなければ、信じたい未来を語ったわけでもなかった。心底からそうとしか思えないことを、ただ言葉にしただけである。


 静かな時が流れた。幾度か窓からの風が強まって、その度にダニエルは己の変わり様をしみじみと感じたものだ。吹きつけるものへの抗いがなかった。まるで己が身が無色透明に澄み切ったかのような清々しさがある。それでいて空虚とは無縁だ。胸の奥には死地に抱き締めた炎が今も変わらず燃えている。


「卿ほどの男にそのような笑みを浮かべさせるのか。ハハト将軍とは」


 言われて、ダニエルは己が笑んでいたことを知った。言ったサルマント伯もまた笑んでいる。


「信じよう……いや、信じてはいたのだ。しかし火撃と模擬戦を繰り返す内に滾るものがあってな。南部勢力を一挙に打倒できるのではないかと逸ってしまった。それほどに我が軍は磨かれ、引き締まり、充実したのだよ。私もまだ若いということかな?」


 いつになく饒舌に語ることもまた、彼の謝罪の意の表れであろう。ダニエルはサルマント伯の迫力があるも人好きのする在り様を好んでいた。誠意は何よりも気持ちがいい。


「束ねる者が閣下なればこそ、サルマント領軍は勇猛果敢なのでしょうね」

「うむ。先の決戦でユリハルシラ領軍を指揮した卿に認められたのならば、誉れだ」


 誇らしそうに言って、サルマント伯は部屋を辞したものである。多忙を極めていように、何かにつけ足しげくやって来るのだ。ダニエルとしてはそれを気遣いと感謝する一方、どこか王都のユリハルシラ邸の日常が連想されてならない。


 若きルーカス・ユリハルシラ。壮年たるレオ・サルマント。老いしクラウス・ユリハルシラ。世代の異なる三人の貴族は誰もが共通して武を愛し、誇り高く、動乱の時勢にあって勁く在る。そういった人物に縁があることをダニエルは嬉しく思っていた。虚飾の家名に踊らされていた過去が随分と遠く感じられる。


 少し寝ようか……ダニエルがそんなことを穏やかに考えているところへ、ひょいと入室してくる者がいた。精悍にして暴力の気配を艶やかに纏うその男は、何を警戒したものか、ダニエルに背を向けて廊下をキョロキョロと窺っている。やがて納得がいった様子で「やれやれ」などと首を振ったから、筋骨逞しい首元の金環が揺れた。クスターである。


「随分と挙動不審だが……どうした」

「や、あの伯爵がどうにもこうにもしつこくて参っちまう。今だって、絶対、俺のこと探してるし」

「仕官の誘いかな?」

「そんなもん去年の内に蹴ってるよ。蒸し風呂の誘いだよ、蒸し風呂の誘い。調練で散々っぱら叩きのめしてっから意趣返しなのかねぇ? 長ぇんだよ、伯爵と入ると。先に出ようとすると勝ち誇ったような顔しやがるしよぉ」


 始末に負えねぇ、とブツブツ言いつつ椅子に座る。猛々しい者を代わる代わる身に受けて、その椅子も大儀なことかもしれない。ダニエルはそんなことを思った。


「お、何だ、上機嫌じゃん。さては愛の詩歌でも届いたかなぁ?」

「ルーカスからだ。内容も半ば叱責だよ。姉上のために精神力でもって回復すべし、とのことだ」

「そりゃまた、情熱的なこって」


 辟易したように言う。家庭的な色々とは無縁の男だ。しかし軽騎兵として戦うもそれを率いるも見事に過ぎる武人であり、部下からの慕われようには大家族の長とでもいった貫禄がある。それは十年余りの歳月でもって培われた風格なのだろうとダニエルは考える。


 クスター。今や火撃の首騎として知られる彼は、かつての戦争ではサロモン軍の部将として馬を駆り、その後は北の山地に馬賊の里を営んできた来歴を持つ。マルコに命じられてサルマント領へと出向いたのは合同軍事演習のためばかりではない。ダニエルはその成果を聞く必要があった。


「ん、順調順調。里からの塩の流量は何倍にもなるぜ。もともとここの領軍には伝手があったんだけどよ、やっぱ伯爵さんに許可されっと楽なんてもんじゃねぇや。大っぴらに増員もできたし、牧も増やせる。里の奴ら、喜ぶだろうなぁ」


 クスターは満面の笑みだ。聞けば、馬賊の里に住まう者とは総じて気骨のある人々らしい。サロモン軍に属していた者、世に思うところのある傷病兵や開拓民などが雄々しく狭隘の地を切り開いたのだという。かつてはマルコも三年間を過ごした里だ。

 

 そもそも、どういった勝算をもって魔境の中へと分け入り里作りに挑戦したのだろうか。それを成し遂げるに至った真相については、ダニエルは何も聞かされていない。あるいは失敗の悲惨も多くあるのかもしれない。問うことはできなかった。明け透けに全てを語れる程、誰も彼も幸福な道を歩いてきたわけではないのだ。ダニエルにしてもハッキネン家の闇については多くを語ってはいない。


 それでも大きな信頼をもって共に戦っていける。ダニエルはそう確信するし、同じように信頼されていることを感じていた。理由は明白に過ぎていて確認し合う必要すらもない。


「領軍との調練もそろそろ終いだし、ま、最後に俺が里へ顔を出しゃ色々決まっかな?」

「そうか……あれは届けたのか?」

「へっへっへ、そりゃまだに決まってるっしょ。あのお宝を里の連中にお見舞いすることについちゃあ、他の誰にも任せる気はねえ。俺がやる。やらいでか」


 クスターは堪えきれないといった風に笑う。見ようによっては賊の悪巧みの類にも映ろうが、ダニエルの目には悪戯小僧が親へ内緒の贈答品でも用意しているようにしか見えない。


「待ちに望んだ戦旗だぜ……へへ……堪らねえや」


 その発言には万感の思いが込められていた。ダニエルもまた奮い立つものがある。火の色をはためかせる特別の旗……即ち火刑戦旗。ユリハルシラ侯が手配したマルコのための旗だ。帝国の大侵攻を退け、西の昇龍旗をも屈服させた旗だ。


 そして、あの戦慄の夜にクスターを含む捕虜二百六人へと約束された旗なのだ。


 ダニエルは脳裏に数年前ともなった光景を思い出した。ハッキネン護衛団と馬賊との決戦……八万将兵の対決を経験した今となってはいかにも小規模の、両軍合わせても二千に満たない戦いだ。しかしダニエルの胸を熱くする。マルコの初陣ともなったそれには全てが凝縮されていた。予感が確信に変わり、確信が誓いを生んで、ダニエルの生きる世界の全てが変貌していく……その契機となった戦いだ。


 クスターという猛者に育成された馬賊たちは、マルコの配下となることで更にその力を増大させた。火撃の騎兵団はもはや大陸に並ぶものなき精鋭中の精鋭だ。サルマント伯が執心することも、勇み立つことも、どちらも已む無きことだとダニエルは理解している。強力な一軍は万難を一刀両断にする可能性を秘める。軍事に明るく政治の困難を知る者にとっては魅力的に過ぎるのだ。複雑に絡み合い固く引き絞られた結び目を前にして、ひと思いに力を発揮させたくもなろうと思う。


 この内乱には争点が多いのだ。次代王座を巡る対立は最大のものであるが唯一のものではない。南北の経済構造の差異からくる軋轢、教会の在り様についての肯定派と否定派、此度の帝国軍侵攻を許した罪責の所在……それら全てがない交ぜになって、南北では思い描く未来の姿がまるで違ってしまっている。


 しかしダニエルの心には不安も動揺もない。クスターも、他の誓いの仲間たちも同じだろうと思う。ただ己の全力を尽くして勇躍するのみだ。迷いとも怠慢とも決別して久しい。


 マルコを知るからだ。


 辺境の村の子として生まれた彼は、十五歳の節目を迎える前にして、貴族となり龍将軍という地位と兵権を得た。その活躍は大陸の両国に知らぬ者とてなく、今代の英雄として抜群の存在となっている。世界は彼を知り、その顔色を窺うことなしには未来へと時を進めることすらできなくなった。


 一個人としての破格……その事実を認識してなおダニエルは思うのだ。未だマルコはその全てを世界へ知らしめたわけではない。神秘の眼差しは変わらず遥かな地平を見据えていて、誰にも計り知れないその志は王国の内乱をすら大事と見なしていない。ただ静かに時代を燃やし続けている。そうすることで到達するのだろう未来へ向けて、不断の加熱を為しているのだ。


「旦那はどうすんだ? 王都には戻らんのだろ?」


 問われて、ダニエルは心を今に戻された。答える。


「ペテリウス領次第だが……オイヴァからの報告によれば復興の進捗状況は素晴らしいもののようだ。あるいはこのままサルマント領に残ることもあるだろう。その後は同じことだからな」

「まだあっちの方が静かそうだけどなぁ」

「行ってみなければわからないぞ? 若きペテリウス伯は徹底した理論派だと聞く。蒸し風呂は避けられても書斎に押し込められての軍事討論が待っているのかもしれない」

「うげぇ! 何の罰だよ、そりゃ」


 心底から嫌そうなクスターだが、火撃を率いての合同軍事演習はペテリウス領においてもいずれ行うものとされている。マルコは能力ある者を遊ばせることなどしないし、マルコに認められた者がそれを厭うこともない。熱され速まっているのは、他の誰よりもダニエルらマルコの臣下たちである。


「んで? 嫁さんはどうすんのさ?」


 どうでもよさそうに付け加えたクスターだが、聞かずには帰らないという構えが窺えた。自らは妻帯するつもりなどまるでなく、家庭にしろ女心にしろ知ったことかという生き方をしているくせに、何とも心根の優しいところがある男だった。


 ダニエルは己の幸福を改めて思う。世を拗ねて野の花を手折ってばかりいた過去は遠く去り、見事な男たちと共に存分に働ける今がある。もう戦場に立つことは叶うまいが、マルコは変わらずに期待してくれる。仕事を与えてくれる。かつての予感のままに……存分に命を使いきれるのだ。


「暖かになったらこちらへ招こうと思う。無論、ユリハルシラ侯がお許しになればだが」


 風そよぎ雪白花の揺れる窓縁を見やりながら言った。返事は、その内容とは裏腹にして、労わりと喜びとに満ち満ちた声色をしていた。


「んだよ、畜生、これだから貴族様は身勝手だってんだ。結婚式とかまだだっつのに、やれやれだよなぁ! まあ、でも、羨ましくもねぇし? 娘を北へやる元帥爺さんの顔も見てみてぇし? しょうがねぇ、俺が伝言してやるよ! やれやれだぜ、全くよぉ!」


 二つの笑い声が気持ちの良い風に吹かれて舞い上がった。


 それを聞きつけた男が足音も勇ましく部屋を再来訪し、笑い声の一つが悲鳴に変わったのはしばらく後のことであった。

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