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第68話 幾久しく健やかならんことを

 土の色は終わりと始まりとをどちらも体現している。落ちた葉はそうやって崩れていくし、そんな中から新たな鮮やかさが生まれる。地を踏み生きる者の誰もが参加する営みだ。いずれ自分もそこへ行く。


 潅木の陰に揺れ動く日除け帽子を何とはなしに視界に入れつつ、ヤルッコはそんなことを考えていた。


 見上げれば遣る瀬無く降り続いた雨も止み、朝は柔らかな空色でもって晴れ渡っている。白雲は大小に千切られて数多く漂い、眺めていたところで進むでも退くでもなくのんびりとしている。首を戻せば、庭木には密かに水と熱とを秘められている気配がある。視線を転ずれば、砂利石の庭の端々に若緑色の芽吹きが小さく覗いて見える。


 硬く乾いた己が手の左右を擦り合わせて、ヤルッコは食むように呼吸を繰り返した。古びた長腰掛けは健気に日差しを集め帯びていて温い。人の世に何があろうとも、また何度目かの春がやって来ようとしている。その予感を静かに味わう。穏やかに惜しみなく与えられるものがあって、体の節々にわだかまるものが音もなく解けていくことを感じていた。


「今朝は気持ちよく晴れましたね」


 かけられた声に首を捻じ曲げれば、黄金色の髪を結い上げた麗人が微笑んでいる。その剣士風の装いといい、凛とした身のこなしといい、随分と勇ましいことだとヤルッコは思う。ヴィルマ・カントラ。第三王女パウリーナの侍女武官を務める女性である。


「庭の小石が足りとらん。暖かになったら雑草で賑やかなことになるじゃろな」


 顰め面で言ったならば、笑みを深めてヴィルマが返す。


「野花はパウリーナ様の好み慈しむものです。様々に咲き茂るといいですね」

「雑草でもいいのか?」

「雑草だからいいのです。パウリーナ様は小さくとも自らの力で咲く花を愛します」

「……世話が苦手なのかのう」

「そういう、稚く愛らしいところもおありですけどね」


 クスクスと笑う様子を見て、ヤルッコはフンと鼻を鳴らした。彼女と初めて会ったのは帝国との開戦以前で、親衛団の発足に前後する頃である。マルコが生み出す激流に揉まれて蒼褪めていた印象があったが、この古びた館にて第三王女の世話をする姿には別人のような落ち着きがある。


 平穏な風景の中に憩っているからだろうか。ヤルッコはその最もありそうな理由を思いついて、それをすぐに捨てていた。鈍感な者や臆病な者であるならばそれで正解かもしれないが、彼の知る限り、ヴィルマという人間には愚鈍怯懦の性質は見られない。むしろ逆だ。鋭敏な感覚と勇敢な精神をもって一剣を腰に佩いている。それは一流の戦士の在り様だ。


 わかっているはずだった。時代の激動は今もその勢いを増し続けていることを。しかもそれは彼女の主であるところの第三王女を流れの中心に迎えつつある。次代の王位を巡る内乱など結末が極端であって当然だ。勝てば栄え、負ければ滅ぶ。彼女が忠誠と愛情とを捧げる姫君は平穏の正反対を生きている。


「それで? 日が昇りきるまでは暇じゃけども」

「これを。駐屯地よりの書簡です。私とヤルッコ殿で読むようにとのことです」

「フン、信用されとらんの、儂」

「そんなことはないでしょう。いえ、そんなことであっては困りますとも。パウリーナ様の護衛部隊を率いる方がマルコ殿に信頼されていないなどと」


 以前ならばその言葉は感情的な抑揚をもって発せられたものだろうか。ヤルッコは宥めすかすような優しい口調に顰め面を返しながら、努めて不機嫌そうな口調で言った。


「読めない字があるんじゃい」

「……さて、マルコ殿は何を伝えてくるのでしょうか」


 若者に気まずい思いをさせる遊びを心中に楽しみつつ、ヤルッコは巻物の封を切った。流麗かつ整然と文字が並んでいて、それはマルコの直筆とみて間違いがない。今や龍将軍などと呼称される彼は幼き頃から速筆で達筆だ。物差しで測ったかのような統一感を持たせるから、遠目に見れば美しい紋様のようにも見える。それでいて数字については妙に俗っぽさがあって、ヤルッコはそれが市場の値札の中に踊る数字のようにも感じられて面白い。ハッキネン護衛団とは武力集団であり商人組織でもあった。


「予想通り、密偵の類が増えているようですね」


 ヴィルマに言われて、ヤルッコは慌てて文章の内容へと意識を向けた。


「南部勢力としてはマルコ殿とユリハルシラ侯の動向が気になって仕方がない……当たり前ですね。両雄並び立つとでも言いましょうか、今この大陸であの方たちに匹敵する人物など誰も思い当たりません」

「……フン、そうかもしれんの」

「教会も独自の諜報機関を有しているのでしょうね。それに、マルヤランタ侯ですか。やはり北の怪老は中立という立場の中にも暗躍しますか」

「マルコがそれを許しているのなら、大丈夫じゃろ」


 ヤルッコは知る。マルコとは戦場の人であるよりもまず謀略の人であると。それはハッキネン護衛団発足時に早くも思い知らされたことだ。マルコが表立って動く時、裏には多重の狙いと多彩な謀がある。その全貌を把握できる者など敵ばかりか味方にもいやしない……ヤルッコはとうの昔に試みることすら放棄していた。この世界にマルコは一人しかいないのだから、それで十分である。


「そうですね。駐屯地の防諜能力は高いと聞いていますし……何より、マルコ殿がいます」


 ヴィルマの声に信頼の響きを聞き取って、ヤルッコはつくづくと思う。先だっての表彰式典ではアクセリの語った以上の何かが起きたようだ。この職務に忠実な侍女武官はマルコを恐れている節があったものだが、それが消えて真摯な従属がある。


 しかも正しい。今、第三王女親衛団駐屯地には防諜に関して尋常でない働きを見せるだろう人間がいて、今後もマルコの側を離れることがないとヤルッコは知っていた。その人物は持てる能力を周囲に証明した後、マルコに侍り奉ると宣言したのだから。


「フン……おっそろしく強い副官もいるしの。近づく密偵が気の毒なほどじゃし、儂」

「それほどの方なのですか。ジキルローザ殿は」

「“魔眼”の名を聞いたことがあるなら、逃げも隠れも出来る内にそれをするがの」

「どういう……?」

「“魔眼”は部隊の要となる者を狙い討ちにする。それは指揮官であったり猛者であったりと様々じゃが、とにかく、その者を討てば周囲に最も影響するという一人を即断してしまうんじゃわ。どこにいようが、どう隠れようが、どう変装しようが無駄も無駄。まるで悪魔が人を物色するかのようにして、紅の瞳で全てを看破する。誰が言ったか“魔眼”のジキル……サロモン軍が強かった理由の一つじゃな」


 戦場におけるその眼力が、どうして駐屯地周りの防諜に活かせないことがあろう。ヤルッコは赤心から密偵たちに同情していた。もとより諜報の難しい孤立砦であるところを、ベルトランがその非合法な手勢でもって陰からの防衛力を発揮している。そこへ“魔眼”が加わるなど過剰な防御だ。


 マルコが駐屯地に篭っている理由の一つがそれなのかもしれない。初め世間から隠れるようにしていた彼は、注目を浴びる否や大陸に轟く名声を得て今を生きている。世界へと巨大な影響を及ぼしている。ヤルッコはその反動が恐ろしい。南部勢力、教会、そして帝国と、マルコの正体を探りこれを害そうとする者たちもまた巨大となっている。


「……魔人サロモンの配下だったのですか、ジキルローザ殿は」

「うむ。やはり副官だったはずじゃな。女だとは知らなかったがの」

「魔人に匹敵する戦果を上げた者が、魔人と同じハハトの家名を名乗り、傍らにかつての魔人の副官を置く……ということですか」


 教会の教えによれば魔人とは悪の権化である。悪魔の化身である。人類を破滅させる邪悪である。まさに勇者の対極であって、人類に広く忌み嫌われる存在なのだ。それは常識として王国と帝国の区別もない。そんな存在であると認定されてサロモンは火炙りにされた。


 ヤルッコは戦場におけるサロモンを知らないわけではない。だからなお一層に思うのだ。マルコの行動は、在り様は、炎の中に殺された男に酷似していると。知れば知るほどにその思いは深まるばかりで、幻覚すら見たほどだ。そしてとうに思い切っている。マルコが魔人であるのなら、魔人の兵として戦うだけのことだ。“魔眼”が現われたことすら、ヤルッコにとっては驚きこそすれ意外なことではなかった。


 誓いの仲間は当然として、マルコと共に戦地の空へ吠えた者たちもまた似通った心情を持つだろうとヤルッコは考える。それほどに心を打ち、魂を震わせる存在なのだ。しかし戦場の外に在った者たちはどうだろうか。


「そうなるかの」


 素っ気無く言いつつも、ヤルッコはチラとヴィルマの顔を見やった。日を受けて豪華に光る髪、長く優美な睫毛、凛々しく整った顔立ち。戦場の粉塵とは一線を画したところで冴え渡っているかに思えた彼女は、今、ヤルッコへと誠実な眼差しを向けていた。そこには共に戦う者の瞳があった。


「私はマルコ殿を信じています。彼の実力も、彼の運命も、彼の目指す未来も。例えば彼が魔人であったとして、教会が彼に死刑を宣告するのならば、私はこの剣をもって聖杯島にさえ斬り込みましょう。勇者をすら討ちましょう。それをすることに一片の躊躇もありません」


 それは命を懸けた者の声だった。ヴィルマは言葉のままに剣の柄に触れたが、その手つきには敬虔さと誇らしさとが目一杯に込められていて、ヤルッコはそこに彼女の本質を見たように思った。


「マルコ殿は私よりも遥かにパウリーナ様のことを理解しています。パウリーナ様もまたそんな彼を信じ認めて、王国の行く末を……いえ、違いますね……この世界の運営を任せているかのように思うのです。どうして私が彼を疑いましょう。どうして彼を尊ばずにいられましょう。彼とパウリーナ様とが認め合い生きていく未来のために、私の命をどのようにして奉じたものか……そればかりを考えています」


 美しかった。陽光を全身に浴びて若い情熱が燃えていた。ヤルッコはその眩しさに目を細めつつも、決して笑むことはしないで、やはり鼻を鳴らすのだ。それが自分流だ。もう今更に変えるつもりもない。


「確かにマルコとお姫様はどっちも大人物かもしれんがの、それは完璧な人間ってこととも違うもんじゃ。マルコは体が弱いところがあるし、お姫様はちいとばかし機敏さに欠けるわい」

「ふふ、そうですね。マルコ殿には早く回復してほしいものです。パウリーナ様はあのあどけなさもまた貴い魅力だと思いますが」

「……お前さんもちょっと訳のわからんところがあるの」


 ヤルッコは眉もぐいと上げてねめつけたというのに、ヴィルマは嬉しそうに笑った。淡く静かな空に笑い声が立ち昇っていく。手入れの行き届いていない館は、今朝、不思議なほどに清々しい。


「たくさん採れた」


 庭木がガサリと音を立てて、先程来絶えずチラチラと動いていた人影がその全貌を見せた。薄茶色の釣り下衣も、上着も、どちらもブカブカであり泥に汚れている。無事なのは日除け帽子くらいか。満足げに笑むふっくらとした頬にも泥がこびりついている。


 アスリア王国の第三王女、パウリーナだ。両手で持った笊には黄緑色の小さく丸々しいものが山と積まれている。時に雪の下からも顔を出す春の先駆け、コロポニという山菜だ。


「よくもそんなに見つけたもんじゃの。五個も見つかれば上出来と思っとったが、儂」

「昨日まで雨が続いて、今日暖かだもの」

「フン、しかしまた美味そうなやつばかりじゃな」

「美味しく食べるためだもの」


 不敬と指摘されたならば反論のしようもないやり取りだが、誰にもそれを咎め立てされたりはしない。ヤルッコは綻びそうになる表情をしっかりと維持し固めつつも、胸に灯る暖かさが頬に浮かび上がってくることを感じていた。彼の主君が奉戴するところの少女は如何ともしがたいほどに可愛らしい。


「いつもながらお流石ですね。下茹での用意をしてきます……あ、ここにも!」

「それはお花が開き過ぎ」


 にべもなく言い放ち水場の方へと歩いていく。疎らな砂利石を踏んでいく後姿には、どうしてか朝の明るさが集まっているように見えた。ヤルッコは少し驚いたものの、そういうこともあるだろうと納得した。この特別な少女は地を行きつつも天に属している。祈りの言葉も香の煙も用いず、ましてや権威など必要ともしないで……ただ在るがままにしてなされる寿ぎだ。

 

「マルコとお姫様が生きていく未来か……強い時代になるんじゃろな」


 よっこらしょと立ち上がりながら、ヤルッコは素晴らしい朝の中に言葉を放る。


「どこまで見られるじゃろ、儂。肥やしの一粒くらいにはならんといかんけども」


 この冬にめっきりと動かし辛くなった手足を誤魔化し誤魔化し、若い二人の後を追う。あの量ではコロポニ料理は三人前で済むわけもないが、何にせよ練麺が絡んでくることは確定的だ。手伝える色々がある。それを思えば足取りも軽くなる。


 やがて始まるのどかな朝餉の時間は、誰にも邪魔されることがなかった。


 歴史は、夜を待ってその事件を引き起こす。


 ヤルッコがこの年の初物のコロポニを食した日は、後の世に「離宮の変事」として記されることとなった。誰とも知れぬ者によって付けられた火が、日の落ちて強まった風に煽られ、離宮はおろかその周囲をも広く焼き尽くすのだ。そしてそれは王国内乱における最初の武力衝突を伴うこととなる。


 年を越えて春までの延命の望みも出てきた国王の、その呼吸鼓動の残余を名残惜しむ素振りもないままにして、王国の混迷はその度合いをいや増しに増していくのであった。

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