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第65話 事の善悪は論ずるに及ばず

 砂糖を編み上げたような白刺繍の卓布の上には銀盆があって、茶器は白磁に控え目な金の装飾、可愛らしく小さい円卓は清楚な装いで窓からの日差しを受けている。ニコデムス・パルヴィラは壁際に立ってそれを見ていた。ふと首を傾げ、卓上の花の傾き方をいじる。皺枯れたその指に整えられるのは鈴鳴草と雪白花。少女の髪飾りのようにしてそこにある。


「旦那様、アハマニエミ侯爵閣下がお着きにございます」

「うん。行く」


 執事に目で指図してから、ニコデムスはテクテクと玄関へ向かった。白い扉を女中が開けて、さっと入りこむ新鮮で冷えた空気に眉をしかめ、目を細めつつ、口を尖らせる。その表情が戻らない間に訪問者はそこへと大股にやって来たのだった。


「嫌そうだな」

「外が夏と冬の時は、いつもこの顔」

「ならば中で待て」

「貴方は侯爵。私は伯爵だね」

「ならば口の聞き方を正せ」

「友人だからね。いらっしゃい、ウンタモ」

「うむ。邪魔するぞ、ニコデムス」


 笑みもなくそんな言葉を放りあって、それから屋敷の中へと入った。閉められた扉の音は聞こえない。踏み締める廊下は清く、調度品は柔らかに光沢を放っていて、二人の足音ばかりが小さく数多く、または大きく数少なく繰り返されていく。誰も視界には入らない。誰の物音もしない。二人の時間は何に妨げられることもなく滑らかだ。


 西日を柔らかに入れるその部屋には慈しみのように茶会の香りが満ちていた。白に包まれた円卓、銀色の受け皿、小さな白い卓上花、年季を味わいとした二脚の椅子。それらの慎ましさは皿の上に盛られた色とりどりの菓子たちを鮮やかに際立たせている。まるで果実の色彩だ。まるで花々の繚乱だ。砂糖と麦粉を練り上げ焼き上げたそれらは、輝く宝石箱なのだ。それを純真な少女が笑顔で抱えている様子を幻視して、ニコデムスは笑んだ。


「ふむ。美しい」

「うん」


 いつものようにニコデムスは向かって右へと進み、そこに座った。茶杯が十分に温められていることを手に感じつつ、二杯の茶を注ぐ。磁器の白に紅が深まっていって香り立つ。二人の茶会には執事が侍らない。四季の区別なく開かれるそれはいつも柔らかで秘めやかだった。


 その茶の一口目は十分に時をかけて、そっと、贅沢に飲み下す。老いた身にそれが沁み渡る感動を味わうのだ。いつも通りの喜びに満ちて……そしてニコデムスは問うた。


「ユリハルシラ侯とのお話、どうだったの?」

「……予想を上回っていた。色々とな」


 大きな体が更に膨らみ、そしてゆっくりと元の大きさよりも萎んでいった。卓上の花も葉も揺れやしない。その息は見えない重さでもって足下へと吐き落とされたようだ。


「マルガレータ様が陛下へ毒を盛っていたようだ。その証拠を示され、確認した」


 大吐息は冷気であったものか。ニコデムスはひょいと足を床から持ち上げた。唇に力が入ったようで、少し突き出た。戻して話す。


「証拠?」

「小瓶だ。先だってユリハルシラ侯のご息女が陛下を見舞った際、王妃殿下の化粧室より持ち帰ったものとのことだ。香水の中にそれが紛れていた。侍従長と医官長もそう証言している」

「どういう毒?」

「尋常のものではないな。一滴飲ませれば鼠がまどろみはじめ、もう一滴を口元に塗ったなら拍動を緩やかにしていって、そのままゆっくりと死んだ」

「眠るようにして、死ぬ……そういう毒……」

「うむ。使い方次第で効果を早めも遅めもできるようだ。そして、化粧室はマルガレータ様が陛下に許されて使用している。陛下がお倒れになった後もな」


 言い捨てて、茶杯に口をつけた。ニコデムスはそれに倣わず菓子を取る。サクリサクリと音を刻んで、それで整い見えてくるものがあった。


「教会だね」

「……やはり、そう思うか」

「霊薬の類には聖も魔もない。王女殿下らが魔人や魔女と関わりを持たないのなら、後はもう司教が残るのみだよ。それで色々と得心がいく。陛下の魂が抜けていくかのようなご病状も、ユリハルシラ侯が教会への敵意を剥き出しにした理由も、ね」

「うむ……ユリハルシラ侯は憤っていた」


 喉奥に紡がれた言葉は重苦しく響く。吸うにも吐くにも力を込めて大きくしなければならない様子だ。それを前にしてニコデムスの指と顎ばかりが軽快に動いている。


「闇に葬るよりない話だね」

「その通りだ。四侯爵の総意として全てを隠滅する。このようなことが公になれば王国を二分するどころの騒ぎでは済まん。下手をすれば帝国も巻き込んでの未曾有の大混乱を招きかねん。国も何も在ったものではなくなるだろう」

「そして新たな国が建つ、か」


 長い長い吐息が二つ、今を流れる時間に僅かな擦過音を立てながら、茶と菓子が芳醇なものとしている暖かさの中へと吐き捨てられていった。


「伯爵の内ではお前にだけ話すと許可を貰った。私にはそれを話す必要がある……マルガレータ様の王位継承権は認めないということでいいな?」

「うん。エレオノーラ様もああなった以上、我々が擁立する人物は限られたね」

「……うむ。その通りだ」


 二口目で唇を温め、口内の渇きを潤し、ニコデムスはムフンと香気で鼻梁を満たした。味と歯ざわりと香りとを諸共に楽しむため瞑目する。その瞼の裏に浮かんでくるものがあった。


 第一王女エレオノーラ。狂気に呑まれ聖別の剣を振るった彼女は、もとより危うげだったその心をついに壊してしまった。表彰式典後の一日中を暴れ、二日間を混濁した意識で過ごし、三日三晩を高熱にうなされつつ寝込んで……目覚めたならば、稚く微笑んでこう言ったのである。


「私、とっても悪い夢を見てたみたい。ねえ、勇者様はどこ? まだ戦から戻らないの?」


 彼女は十数年に及ぶ記憶の一切を消失していた。かつての戦乱の只中へとその心を戻してしまって、しかも始終呆としている。王位継承権どころの騒ぎではなかった。あるいはそれにも教会の邪悪があったものか……ニコデムスは動き出した考察の意識を浅くに止めた。もはや是非もない。今も彼女の隣には夫たる元聖騎士がいて守護する構えを見せている。どうしようもないのだ。


 第二王女マルガレータ。その顔に狂える凶刃を浴びた彼女は、命にこそ別状はないものの右目を失う大怪我を負ってしまった。今も怪我に伴う発熱が治まらずに寝込んでいる。彼女の今後については様々に難しい。王への凶行については、事を公にしない以上、四侯六伯による弾劾裁判を行うわけにもいかない。しかし事情が事情であるから王位継承権については辞退を迫らねばならない。王族としての多くの権限についても制約を課すこととなるだろう。


 その後にどう動くだろうか。隠居するだろうか。それともいずれかの勢力へ接近するだろうか。ニコデムスの見るところ、彼女が北部に協力することだけはあり得ない。妹の風下に立って平然としていられる人物には見えないからだ。


 第三王女パウリーナ。


 表彰式典は大多数にとって冬の嵐の酷薄を示した一方、彼女一人に対してのみこの世の春の到来を告げたのかもしれない。実家の名誉を剥奪され、王侯貴族の世界のつま弾きとなっていた彼女である。教会すらそれを助長していたものを、若き英雄の忠誠と筆頭貴族の熱弁とが全てを打ち払い、至高の冠を彼女にもたらそうとしている。


 その効果は既に現れていて、彼女の暮らす離宮は今や名だたる貴族や騎士が先を争って詣でるところとなっている。その盛況は以前の侘しい有り様からすると別の場所なのではないかと思うほどだ。王国軍が警備として配されたが、それとは別に北部の手勢が厳重な警戒をもって睨みを利かせている。今更それを訝しみ、その意味を問う者などいやしない。しかし実態はより深刻だ。


 第一王女が心を壊し、第二王女が大罪を犯して、唯一人第三王女だけが残った。もはや彼女は実質的な王位継承順位第一位であると言っても過言ではないのだ。しかも北部の軍事力をその影響下においている。式典の始めには当然であったものが崩れ去って、今、ニコデムスは己が荒れる外気に晒されている気がして眉を顰めた。口も尖る。


 ニコデムスは感じるのだ。第三王女パウリーナは凡庸に見えて得体の知れないところがあると。年相応の諸々を求めず持たず、若さの瑞々しい敏感を見せることもない。少女の可憐さをなおざりにして落ち着き払っている様は奇妙で風変わりに過ぎる。不可思議で捉え切れない。彼女が貴族社会で孤立した理由には実家の不名誉や第一王女の嫌悪が挙げられようが、根本のところには彼女の異質性があるのではないかとニコデムスは考える。


 あるいは、自分には把握できないほどの大器なのかもしれない……ニコデムスはそう思い、より頬をすぼめて唇を突出させた。


「そろそろ考えはまとまったか?」


 そんな声を掛けられたから、ニコデムスは驚いて目を開くのだった。見れば向こうの茶杯は空となっており、自らの茶杯は熱を失っている。そこですかさず手を伸ばし、小粒で粉っぽい菓子を幾つかまとめて口へと放り込んだ。ポリポリとやってから温い茶を流し込む。三口目のそれは予定とは違ってしまったものの、それはそれで楽しむ方法を知っていた。


「クリスティアン様だね」


 言えばすぐさま同意があった。


「うむ。我々はクリスティアン様を擁立する。御歳八つだが」


 八つ、と何とはなしに復唱して、ニコデムスは自分たちが推し立てていく少年のことを思った。クリスティアン。エレオノーラの第一子である。優美で可愛らしく、音楽の才のある子だとニコデムスは認識していた。王位継承法によれば現状では第四位であり、エレオノーラが即位した後ならば第一位となるものだが。


「何だかカリサルミ伯が喜びそうな気がするね」

「功を立て、時を経て、新時代の侯爵を目指すか。若いとは埃っぽいことだな」

「うん。本当にね」

「エテラマキ伯も喜ぶだろうが……あの男の場合は少し注意が必要だろう」

「うん。二人きりにしないほうがいいかも。若いって後先考えないから」


 言いつつ、卓上の小さな呼び鈴を鳴らした。綺麗なその音は無垢な笑い声を思わせる。ほどなくして執事が現われて茶鉢を交換した。湯気が美味しそうにフワリとして、先ほどのものとは風味の異なる香りを広げる。注げば色合いも違っていて、熱いそれへと接吻したならば、滋味の強さが心身に活力を灯すかのようだ。ニコデムスはムフと笑った。


「若さ、か」


 フン、と鼻を鳴らして焼き菓子をバクリとやった大柄の老人は、熱い茶であってもグイと飲んでみせた。ニコデムスとは異なる楽しみ方であるが、嫌いではなかった。何であれ人それぞれの楽しみ方があり、受け入れられるか否かでしかないと知るからだ。


「若さとは戦場の勇敢と結びつきやすいものだ。柔弱惰弱の反対側を生きることは愉快痛快だからな。英雄、結構なことだよ。しかしあの若者も知るまいな。老いと病の日常こそは辛苦耐久の長戦場であることを」 


 怒ったように言うそれは愚痴のようでいて実は彼流の諧謔である。ニコデムスは笑みをもって答えた。この南の怪老と言われるところのウンタモ・アハマニエミ侯爵が老いに苦しむところも、病に臥せるところも、ニコデムスはついぞ見聞きしたことがない。最も親交が深い仲を自認しているが。


 現在の四侯六伯の内で最も戦場に生きてきた者は誰か。それはユリハルシラ侯であり、僅差で二位となるのが彼、ウンタモである。その差にしても戦傷の治療のために下がらざるを得なかった期間のことであり、敵の矢や槍が届くところで指揮を執っていたことが原因のものだ。ニコデムスとはまるで異なる生き方だ。いかなる武芸も身に修めていないという点で二人は共通するというのに。


「内乱か。ユリハルシラ侯も思い切ったものだね」

「あの英雄に若さで焚きつけられでもしたのだろう。長く塞ぎ込んでいたからな」

「死を背負い過ぎていたよ」

「情の深い男だからな。家族、勇者、魔人、そして……」


 言葉の最後は言われず終いで、二人の間には焼き菓子が淡々と消費されていった。ニコデムスは鈴鳴草の可愛らしい花に目を向けて、ついでのように尋ねた。


「いいんだね?」

「うむ。既に始まっている。勢力図が明確になった時点でユリハルシラ侯と多くを取り決めることになるだろう。カリサルミ伯は早くも自領で騎士団の増設などを始めたようだが」

「本当に埃っぽいね、彼は。まだ陛下が存命の内からそんなことをして」

「だが味方だ。老いが若さを管理するのは道理で、その逆などあってはならん。若き躍動に夢を見るなど見苦しいことよ。ユリハルシラ侯も馬鹿なことを」

「うん。熱さも寒さも老いには大敵だ。僕はもう新しい世界を生きることなんてできやしない。今のこの幸せの中で果てたいと願うよ。悪い伯爵様かな?」


 そっと小さな花弁に触れたならば、白いそれは揺れて、そしてまた静かに止まった。儚くもいじらしい在り様に思えて、ニコデムスはもう一度触れてみた。細心の注意を払って先程よりも弱く押す。揺れは弱い。それでもニコデムスは笑んだ。十分だった。


「フン、なべて物事の善悪は定かならず。緩急があると知るのみだ。こと政治においてはな」


 自ら茶を注ぎ、それを一息に飲み干して、ウンタモ・アハマニエミは言う。


「ユリハルシラ侯は急ぎ過ぎた。止めねばならん。教会の行いは彼にとって悪なのだろうが、少なくともそれは緩やかに行われていた。変えたければ同じだけの時間をかけるべきなのだ」


 二人きりの茶会は誰に邪魔されることもなく穏やかにゆるやかに続く。冬の西日はすぐにも沈んでいくものだが、それでもこんなにも暖かに部屋を照らす。ニコデムスは二度目の鈴を鳴らして、そして三度目を鳴らすことはなかった。何事も退き際というものがあると知るからだ。


「ではな」

「うん。また」


 外気はいよいよ寒く風が強まりつつある。ニコデムスはそれが堪らなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 急激な変化は革命であって、多くの人に無理を強いる。 緩やかな変化であれば、一部の犠牲はあっても多くの人が自然と受け入れられる。 なるほどなあ。
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