第58話 吸うに焼きて吐くに焼くも
「なら、もう、帝国軍は攻めてこないのね? いなくなったのね?」
震える声には必死さと稚さとがある。しがみ付く指が食い込む力は強いものの、すがり付くその姿勢は幼子のように不安げで弱々しい。大きなその瞳には涙が湧いたそばから流れていく。白目のところは充血してしまっていて、目の下の隈も濃い。唇も荒れている。
「もう、もう、大丈夫なのね? ここから逃げ出さなくていいのね? トピアス、そうなのね?」
「そうだよ。エレオノーラ。もう大丈夫だ。王都は安全だよ」
「ああ……ああ! ああああ!」
この女性は安堵の表し方にも激情が表れる……トピアスと呼ばれた男は、いつものように微笑みでもってそれに応えていた。頭をポンポンとして、背を撫で摩る。ゆっくりと時間をかけてそれを繰り返す。
トピアス。それはかつてアスリア王国のために戦った勇者の名だ。聖杯騎士団を率いて帝国軍を打ち破り、王国貴族を率いて帝国軍に討ち取られ、そして伝説となった。元は王国領南部に生きていた純朴な青年であったという。特にこれという能力もない凡人であったとか。
今、トピアスという名で生きる彼はそんな勇者と面識がない。彼は当時聖騎士であったが、守備任務のため聖杯島に残り、勇者の指揮の下に戦う機会を得なかった。それを喜ぶ気持ちも惜しむ気持ちもありはしないが、しかし、その人となりを見てはおきたかったとは思うのだ。王配としての任務を遂行する上での効率の問題である。トピアスという人間になりきる必要はないものの、効果的な言動や仕草などは参考例があって困るものでもない。
「どうして……どうしていつも、帝国は酷いことをするのかしら?」
顔は伏せつつも、次の感情が沸き立つ様が見て取れた。彼は……トピアスは観察しつつも、待つ。常に受動的であることが任務の基本方針である。それは結果的に、教会が人々に説法し推奨する多くの善なるものを無視することになる。しかし大善の前に小善は無価値だ。
「戦争ならいつもの原っぱでだけやっていればいいのに……すぐに調子に乗って!」
戦争とは将兵の死を生じ、一つの死は多くの悲しみを生じ、悲しみは生産性を低下させる。生産性の低下は国という枠組みとは無関係に人類の損失だ。それは理性と計算の内に支払われなくてはならない。だから教会は教える。悲しみを和らげる方法と……適度な量の死を。
「いつも私に怖い思いをさせて……何の恨みがあるのかしら?」
侵害されれば恐れ憤る。それは当然のことだ。しかし規模というものがある。国権の長として憤るどころか、二児の母としての憤りですらなく、ただ己がための不安と憤怒があるきりだ。教会は夫婦に子を産み育てることの幸福を説いてもいるのだが。
トピアスはペテリウス領都の惨事をふと思った。書類室に放置され封も切られていないあの巻物には、一体どれほどの流血を訴えるべく文字と数字とが書き記されているものか。いっそ赤色の面積や容積で示した方がエレオノーラには届くのかもしれない……そんなことも思い、そして職分を超えた妄想を脳裏で反省する。仮にそんなことをするものがいたとして、トピアスはそれを処分し隠蔽する立場だ。
「勇者様と私とのことを、何もわかっていないで、馬鹿なことを言って……!」
大規模会戦の切っ掛けとなった挑発は、教会の制御できない騒動にまで発展したものだ。カリサルミ伯も弁が立った。ああも準備され、煽られてしまっては……非日常の激流を作られてしまっては、教会の影響力も真価を発揮できない。彼は直属の上司たるベック司教が慌てる様を初めて見た。
しかし……とトピアスは不思議に思う。このエレオノーラという女性は、王配として用意された聖騎士を勇者の名前で呼ぶことはしながらも、勇者のように戦ってほしいとは言わないのだ。無論、言われてもやんわりと断る予定の彼ではあるのだが。
あるいは勇者も戦うことを望まれていなかったのかもしれない。今をトピアスと呼ばれ生きる彼としては、かつてのトピアスの心理に思いを馳せもする。どういうつもりで戦っていたのだろうか、と。
「教会はどうして帝国を罰しないの? 罰当たりな国でしょう? ねえ?」
「誰もがエレオノーラのように信心深ければいいけれど、そうではないからね。この国でも、あの国でも、教会はいつも一生懸命に教えを説いているんだ。時間がかかってしまうんだよ」
「そう……そうなのよね……いっそ愚か者たちなんて皆死んでしまえば早いのに……トピアスは優しいから、そういうことを言うのね……」
「待ってあげられるエレオノーラが優しいんだよ。偉いね。君はとても傷ついているというのに」
言いたいことを言いたいだけ言わせる。聞きたいだろうことを甘く囁く。実体のない暖かさの中に包み込んでいく。骨身を抜き去り、まどろみの中に溶かしていく。いつものことだった。
「……そう、私ばかりいつも傷ついている。誰も彼も、それを分かりもしないで、無能を晒して……こんなにも怖い思いをさせて……!」
さあ、激発する。トピアスは煮立った鍋が吹き零れる様子を連想した。今回の一連の戦いはエレオノーラにとって刺激的に過ぎた。ベック司教が激情を誘発し、それを吐き出させた過去が随分と昔のことのようにトピアスには感じられる。上手く処理しなければならない。もう少し長く利用する予定だからだ。
「あの男は……私が兵を与えてやったあの男は、今、どうしているの……!」
「カリサルミ伯なら討ち死にしたそうだよ」
「そう、そうよ……そうだったわ……無能め……!」
一通りの情報はトピアスを通じてエレオノーラに与えられている。報告書も山と上がっているし、ユリハルシラ侯も何度となく言上すべく現われているが、そのどちらをもエレオノーラが拒絶しているからだ。前者はいつものことだが、後者について大規模会戦に前後する衝突が後を引いている。
カリサルミ伯が主導した十二万という大軍の編成……ユリハルシラ侯は最後まで反対していたのだ。周囲を説得するだけの材料はなかったし、何しろエレオノーラが強権をもって出兵を命じていたのだから反対も何もあったものではないのだが、しかしユリハルシラ侯は己の傘下たる剣角騎士団を前線から戻すことさえした。踏み込んだ行為であった。
そしてそれは、トピアスとしても思わぬ光景を見ることにつながる。ユリハルシラ侯とベック司教とが膝詰めの話し合いを持ったのである。トピアスの知る限り、両者の間には争いこそないものの奇妙な距離感があって、互いに不干渉を望んでいるかのようなところがあった。そんな二人が動揺する宮中にあって引き寄せあったかのように会見し、何事かを真剣に協議していた。その内容をトピアスは聞いていない。
「龍が火を吹いたのは、それはいいの……そういうこともあるかもしれないけれど、それはいいのよ……そんなものは……!」
エレオノーラは苛立たしげに髪をかき上げた。どうやら新しい神話は彼女のお気には召さなかったようだ。語りながらトピアスはそれを感じていたものだ。王国の守護龍……壮大な物語ではあるのだが、そこには彼女を魅了する要素が欠けている。それを補うのはトピアスの役目だ。
勇者伝説にあって守護龍伝説にないもの……それは甘さだ。前者がエレオノーラを悲劇の主人公として無条件に認め酔わせるのに対して、後者は為政者としての義務や歴史が厳然として付きまとう内容となっていた。国権の象徴として在る昇龍大旗と絡めての物語なのだから当然だ。王として生きる者にとってはその権威を保障する幻想であり、有用でもあろうが、彼女にしてみれば小言に近かったろう。
「……王国のために倒れるまで戦った少年がいたそうだよ?」
そっとトピアスが告げたならば、落ち着きのない挙動を見せていたエレオノーラがピタリとその動きを止めた。問うような視線……その瞳には何某かの熱量が揺れている。
「以前、辺境の忠義者として聞こえた子がいたろう? ほら、行禍原を横断して帝国の砦に攻め入ったという彼だ。エレオノーラも褒めていたね?」
グリグリと眼球が動いて、彼女はその記憶を蘇らせたようだ。理解は満面の笑顔として表れた。
「ああ……私のために戦った、あの子ね? マルコと言ったかしら」
トピアスは微笑みのままに頷いてみせた。彼女がそう理解したのならば、それは彼女の中では紛うことなき現実だ。真実が違うところにあっても構いやしない。たとえその少年が第三王女パウリーナの親衛団に名を連ねる者であっても、その戦功が親衛団壊滅を望んだエレオノーラの企みの結果であっても、何の問題もない。申し訳なさや後ろめたさといった人並みの諸々など彼女には無縁だ。
エレオノーラは当然のように信じているのだ。王国への忠義を尽くすとは、即ち、国権の頂に在る己への献身である。そうでないわけがない。王国軍として帝国軍を討つことは、即ち、悲しみ傷つく己への挺身である。そうでないはずもない。忌み嫌う第三王女の名を冠する親衛団についてのみは拒絶もある様子だが、しかし、マルコという少年についていえば彼女の中に曲解を許す事情もあった。
際立った働きを見せる時、彼は親衛団の中で戦っていない。砦への突入にしても、今回の戦いにおいても、どちらも“火撃”と呼ばれる騎兵隊と行動を共にしているのだ。前者においてはまだしも親衛団の名の下に騎兵隊はあったものだが、後者についてはほぼ独立した軍として行動している。緊急的な措置であるが、親衛団に付属しつつも別個の軍として……軍の創作した名称で言うのならば「特別義勇軍」として戦ったのだ。その体裁もまた美談的である。王国の危機に際し、名の知れた傭兵団が忠烈の少年の呼び掛けに応えて立ち上がったというのだから。
掲げることを許された旗は、赤色に黒十字の特別の旗。
軍人たちの呼ぶところの「火計戦旗」。
帝国軍大船団の炎上に際して掲げられたことからそう呼ばれるに至ったその旗を、此度の危急において国王がその統帥権を時限的に委譲したことを示したその旗を、マルコ少年はその細い手で握って軍勢の陣頭に立った。ユリハルシラ侯の発案だ。実のところ領軍の寄せ集めでしかなかった四万からの大軍をば強くまとめあげるための、急場の象徴としたものだろう。
妙案であった。トピアスも感心したものだ。マルコ少年は王室への忠義を美談として広く喧伝されていたし、“火撃”の一騎としての武功も彼個人の愛国的行為として賞賛されている。王国の分裂を恐れるユリハルシラ候としては他にないほどの適材であり、危急時における適所への抜擢であろう。
そしてその抜擢は予想以上の衝撃をもって大陸に鳴り響いた。今もその残響があって、マルコ少年を謳った詩歌が人口に膾炙している。トピアスもまた諳んじていた。
いざや掲げよ、炎の旗を。そして討つべし、侵略の龍を。
彼に続け。彼こそは勝利。栄光の道を切り開く火撃の進軍に参加せよ。
火炎を呼吸する者の名はマルコ。汝らの先頭に在り断じて行う者なり。
行軍歌だ、それは。力強く躍動し、口ずさむ者の心に気炎を生じさせるところがある。作成者不明とのことだが、トピアスはそれを軍人以外が作ったとは思えない。会戦に参加した将兵の中に詩文を嗜む者がいたものか、それとも、軍が組織立って戦意高揚のために作ったものか。
どちらにせよ、この詩歌は未だ混乱の治まらない王国に広く響き続けるだろう。人々の心を熱するだろう。残響は同時に余熱でもある。それが冷めるまでには時間がかかる。トピアスら教会の働きどころだ。
「彼が勝ったのかしら? 彼が勇者様のように先頭に立ったの? 皇帝が来ていたのでしょう? ならば誰かが前に出ないと……皇帝を打ち破って逃げ帰らせたのは彼? 戦争ってそういうものでしょう?」
エレオノーラが言葉を連続してくる。妙なところで鋭い……トピアスはそう思ったが、しかしエレオノーラの目の色を見てそれが誤解であると知った。微笑みの裏で認識を修正する。今し方の発言は素人の何気ない一言が卓越した見解と偶然の相似を見せたに過ぎない。
彼女はわかりやすさを欲しているのだ。大衆が詩歌に心を躍らせるのとも少し違って、もっと強い陶酔を求めている。我意が満たされることを望んでいる。新しい伝説に参加することを期待している。トピアスは自然と笑みが深くなるままに任せた。
「そうだね。彼は王国軍の代表として頑張ったみたいだ。エレオノーラの言う通りだよ」
「やっぱり! それは素晴らしいことね。とても素晴らしいことね!」
少女のように笑み、手を叩いて、エレオノーラが問うてくる。
「彼は勇者ではないのかしら?」
「聖定をされていないよ」
「彼が勇者ではいけないのかしら?」
「神が定めることだからね。人には決められないよ」
「そうかしら……ううん、そうかもしれないわね……勇者様は特別だもの……」
彷徨うように視線を右往左往させて、エレオノーラは何かを探し出そうとしているようだ。それはきっと着地点なのだろうとトピアスは思う。彼女の中には幾つもの幻想がさも現実であるかのように存在しているが、それらは滅茶苦茶なようでいて、それなりに関連付けられ秩序立ってもいるのだ。
だから、トピアスは囁く。彼女が望むものを、教会にとって都合のよい形で創出するために。
「勇者ではないけれど、英雄には違いないね。それも特別の英雄だ。君を助けただろう?」
「そう、そうなのよ。私を助ける英雄なのよ。それはとても大切なことね。私のための英雄と……私のための騎士団がいるわ。ただの騎士団では駄目。本当は勇者様と聖杯騎士団がいいのだけれど……」
確認するように向けられた視線に対して、トピアスはいかにも残念そうに首を横に振った。
「……それなら、私が作るわ。私のための……この国のための、特別を……」
エレオノーラの視線はそこらにポトリと落ちて、その焦点はまるで合っていない。疲れたのか、それとも新しい騎士団とやらに思いを巡らせているのか……いずれにせよ激情の流れゆく先は想定の範囲内に収まり、落ち着きそうである。意識誘導は成功したようだ。
トピアスは呆けたような美女を……己の仕事の成果を見守り続けた。
退屈は感じなかった。この人形は調律が難しい分だけ、よく鳴く。その鳴き声は国中に届く。教会が大善を世に実施するにあたって欠かせない道具だ。うまく手入れすれば長くも使える年齢である。
次の十年のために……トピアスは穏やかに笑む。余念はなかった。




