第55話 誰も彼も火炎の中にゆくべし
「西の国の頂にある者へ問う。いかなる大義を掲げ、何をもって開戦事由とし、今この東の地に在るものか。その正当性を問う。疾く返答あれ!」
火刑戦旗をその手に持ち、ただの一騎で大軍の狭間に言葉を響かせる者がいる。西に帝国軍の三万二千余り。東に王国軍の四万五千余り。地には軍靴に荒らされた王国領前線の大地を馬蹄に踏ませながら、それら地と人のいずれかにも属さず、ただ天の遥かなる群青にのみ所属するようにして、彼は声を上げるのだ。旗のゆらめきは彼の心に宿る炎か。ダニエルは馬上にあって熱くなる胸を押さえた。
マルコ。
王国領北辺の村に生まれ、その不思議をもってしてハッキネン護衛団を組織した童子だ。そして馬賊の里へと去って三年、戻るなり今度は第三王女親衛団を組織して初陣に“火撃”の異名を受ける一騎となった。そして訪れた王国滅亡の危機において一旗をもって立ち、今、全軍の注目を一身に集めている。
「王国軍十二万を誘うあの文言の如く、己の文明の正義を謳うのであれば笑止千万。王国を野蛮と断じたその者たちが為した蛮行は、ペテリウス領都の惨状がそれを詳らかに語っている。我と共に戦旗を掲げるペテリウス領軍三千の怒りが証人である。賊の群れとはまさに翼竜の旗を掲げる自分たちであると知れ!」
ダニエルの左方に見えるペテリウス伯爵旗が大きく振られ、雄叫びが木霊した。そこには領都へ篭らず領民を護送していた五千の内の三千が参陣している。ペテリウス伯亡き今、伯爵旗にも三千将兵にも黒い喪章があって、この戦いが弔い合戦であることを示している。
そして火刑戦旗。与えられたその火色の旗を、彼らは熱い涙を流して受け取ったという。さもあらん、それこそは仇たる六万五千の内の大半を殺しつくした証だ。伯爵旗と共にそれは振られている。各軍にそれぞれ与えられた戦旗もまた応じるように振られた。全軍の頭上に炎が揺らめいている。
「開戦の切っ掛けともされる一矢と一馬を理由に正当性を主張するのならば、これもまた驚くべき愚考。帝国軍が前線に挑発の瀬踏みを重ねて緊張状態を作ったことは明白である。酒場の与太者の如く差し出した頬を一筋矢がかすめたとして激発し、大陸に二つきりであるところの昇龍旗を掲げて行禍原を越えたのならば、それはまさに帝国がその品位を酔狂の下卑に堕したということに等しい!」
物凄まじい言葉の斬撃だった。今、マルコは王国の代表として弁舌の剣を振るっている。火刑戦旗は彼のための旗だ。国王に掲げることを許されて在るその旗は、彼がこの戦いにおいて特別な将であることを約束している。ダニエルとユリハルシラ侯が奔走した結果だが、それが罷り通った最大の理由がカリサルミ伯を筆頭とする好戦派とでも称すべき勢力の消失であることは何という皮肉か。
そして一通の書簡の力だ。マルコよりダニエルに届けられ、そしてユリハルシラ候へと手渡された一巻きのそれ。そこに書かれていた内容をダニエルは知らない。ユリハルシラ候はそれを読むなり魔力に取り憑かれた。そうとしか見えなかった。もとより民の鑑と高く評価していたマルコをば、その権力をもって決戦の場の代弁者にするべく働き出したのだから。
国王は……もはや意識も戻らないと言われていた国王は、ユリハルシラ候がそっと耳打ちした言葉を聞くなり俄かに目を見開き、承認の意志を表して、そしてそのまま眠りに落ちていったという。それはこれまでよりも深く戻り難い眠りであり、もはや終わりへと最後の呼吸を数えるのみとなった。ユリハルシラ候はダニエルにそう言っていた。
「重ねて問う。西の国の頂にある者よ。よもや先の戦争の終結を不服としての侵攻ではあるまいな。休戦協定の締結は両国の尊厳と教会の祝福とによって結ばれたものだ。それはしかも帝国に対する温情ですらあった。侵略者であるにも関わらず軍を大きく失い、逆に攻め込まれたならば甚大な被害が出ることは疑いようもなかったところを、情け深くも従来通り行禍原を境にすることで王国は矛を収めたのだ。それを、まさか、文明国を名乗る者が分かっていなかったなどとは言わせない!」
昂る熱があった。火刑戦旗が風もなく大きくはためいた。
「復讐を叫ぶ王国民が鎮まった! 勇者に矛を向けた帝国が教会に許されて名誉を回復した! 多くの悲劇を生みながらも全てを流し去って、戦争なき平穏な日常が大陸に訪れた……そのための“聖炎の祝祭”であったと知れ!! それが二十年と保たずにかくの如くあるを恥じよ!!」
炎が立ち上ったかに見えた。それをダニエルはすぐに幻であると理解したが、多くの者が同様に何かしらの威圧を感じたようだ。熱をすら覚えた。甲冑を通り抜けて肌身にそれは直撃していた。
戦場の雰囲気が一変していた。ただの注目ではなくなっていた。向こう側においてもだ。両軍合わせて七万七千余りという将兵が、今、たった一人のマルコに息を飲んでいる……ダニエルはそれを感じ取っていた。身体が震えていた。それは純粋に恐怖だった。敬愛していたものの本質は想像以上に恐ろしかったのだ。
しかしダニエルは踏みとどまる。それはきっとこの場にいる誓いの仲間たちも同じだろうと彼は思った。彼らは知る。マルコのこれまでを。彼らは知る。今マルコが見せる心火が彼の全てでないことを。そしてまた思うのだ。期待すると言ってもいい。
マルコは、この激怒の炎すらも、その巨大なる魂の膂力とでもいったもので把握している。振り回されてはいない。振るっているに過ぎない。限界を迎えてはいない。マルコはここに終わらない。
まだだ。まだなのだ。まだこれが彼の全てではないのだ。これは彼が見せてくれる夢の結末ではないのだ。彼の見つめていた遥かな風景は、これですらまだ途上だ。まだ先がある。彼と共にあった来し方は未だ遥かな行く末をもっているに違いない。ダニエルは思う。これは信仰だろうか。違う。これは確信だ。
己の戴く王の偉大なる運命を信じる。
それが出来ずしてどうして臣下で在れようか。
「一つ教えようか。ドナルド・コレトスなる騎士を私はこの手で討ち取った」
炎の旗がひるがえり、今度は緩やかに怪しげに揺れ始めた。囁くような声であるはずのものが、どうしてか耳元に聞こえるかのようだった。ダニエルはその正体を冷静に分析する。集中力だ。この場に集う誰もが異常な集中力でもってマルコの言葉に耳を傾けている。それが一つの奇跡を生んでいた。いや、魔法と言うべきだろうか。
「勇者が登場するその前に大陸統一を果たそうと考え、それを軍略の形にまで仕立てた男だ。そのために生きていた男だ。今回の帝国軍の侵攻作戦を企てた男だ。その男を私は殺した。剣をもって迫る彼の脳天を射抜き、命を奪った。反撃などではない。彼が物を知らず恥を知らないことを忌んだからだ」
冒涜だった。マルコの口が討ち取った敵の名誉を汚していた。ダニエルの背筋に寒気が走った。言葉に毒があった。しかも聞く者の心を焼くこともやめない。毒炎と呼ぶべきか。
「勇者は、必要なのだ。その存在を否定する者は、勇者を必要とした世界を改革する気概がなければならない。勇者が在ったことで築き上げられてきた文明の全てを改め、新たに世界を立ち上げる覚悟がなければならない。その気概も覚悟もなく、ましてや危険も知らないままに行動した彼は死ぬべきだった。だから殺した。かつても同じだ。勇者を殺した者は死ぬ。皆、死んでいく……」
奇声が上がった。それはあちら側の昇龍の大旗の近くでのことのようだ。散りそうになった集中力が、小さな音によって引き戻された。笑い声だ。十四歳のまだ若い咽が鳴っていた。無邪気な音ではない。妖艶だった。耳目を引きつけるそれは、妖気をそのままに帯びていた。
「そうだね。そういえば帝国の王子も死んだっけ……ねえ?」
見える。ダニエルはそれが見えるような気がした。マルコの笑みが。あの上弦三日月の笑みが。
「西の国の頂にいる者よ。言い当ててあげる。お前は仇討ちに来たね?」
寒い。極寒だ。ダニエルは己の全身が鳥肌に塗れることを自覚した。気温のせいではない。それは妖気に当てられたとしか言いようのない症状だった。あるいは瘴気渦巻く大氷原に立てばこのように感じるものであろうか。魂が凍えていた。それと同時に熱がある。氷の炎とでも言うべきか。
「お前の長子を殺した国を、アスリア王国という存在を、ただ嫌い忌んだがために、遥々とここまで来たね? 何十万の命を巻き込んで、こんなことを仕出かしたね? 大陸統一の夢なんてお前にはどうでもよかった。だってお前はきちんと未来を見ていないもの。統一後の大陸をどうするつもりだった? 統一された大陸がどうなると思っていた? ね? 何も考えていないだろう? もしもエベリア帝国が大きくなるというだけで事が済むとでも考えていたのなら……ふふ……お前は洟垂れ小僧だよ。大した知恵もないくせに大きなことを言って、後でベソをかくのさ」
マルコは笑った。コロコロと鈴が鳴るような笑い声だった。しかしそれは何という恐ろしい響きをもっていることか。ダニエルは自分が奥歯を噛み締めていることを今更ながらに気付いた。下腹に力が入ってもいた。信じられないことが起こっていて、誰もがそれに恐れ戦くことしか許されていなかった。
王国の名字も無き十四歳が、エベリア帝国の皇帝を笑殺しているのだ。
呆然とした時間が流れていた。それがどれほどの長さであったのか、ダニエルは客観的な事実が欲しいと思った。冷や汗の量でそれが分かろうか。顎の筋肉の疲労でそれが分かろうか。まるで何も分からないままに、ただ、事態が次の展開を迎えたことを知った。
帝国軍が動き出した。
中央には金冠剣王の軍旗を中心に一万五千ほどが横陣を組み、その後方には昇龍の大旗が一万二千ほどの中心に掲げられている。敵左翼には翼竜の軍旗を掲げる軽騎兵部隊が二千五百騎ほど、敵右翼には刀剣住蛇の軍旗を掲げる軽騎兵部隊が同じく二千五百騎ほどだ。今や帝国軍の保有するところの前線砦を背にして、三万二千余りの帝国軍はまず常識的と言っていい展開を見せつつ、それを広げて前進を始めたのだ。陣太鼓の音が響いている。
会戦とは互いの口上が行われた後に戦われるものだが、あちらのそれは矢をもって為されていた。マルコを狙って幾本もの矢が空を舞い、そして落ちてくる。届く距離ではなかった。ダニエルは仮令届いたとしても当たるわけがないと思った。
負けているからだ。皇帝は、帝国軍は、一人のマルコに既に負けてしまった。研ぎ澄ますべき戦意を欠いてしまった軍が放つ矢など、どうして彼に当たろう。どうして彼に刺さろう。それこそ笑止千万だ。
「我が戦旗を掲げる者たちよ、奮い立て! 己が魂に火を点けよ! 炎を呼吸せよ!」
マルコの声が響き渡った。一度右翼側へ駆けてから、全てを横切って左翼側へと駆けていく。右翼側へ最接近したその時、そこでユリハルシラ領軍一万の中に参戦しているダニエルへと、彼はその碧眼を確かに向けてきた。目が合った。その一瞬に伝わるものがあった。強く頷き返した。
「敵はもはや軍に非ず! 一人の父親に率いられた暴徒にすぎない! 武の火炎で焼き尽くすぞ!」
サルマント領軍一万、ペテリウス領軍三千、ヘルレヴィ領軍五千、ロンカイネン領軍五千、マルヤランタ領軍五千と巡っていき、そして第三王女親衛団三千に親しげな頷きを見せてから、マルコは最左翼の“火撃”の騎兵隊千九百を指揮する位置に到着した。
「全軍、前進せよ!!」
轟音のように将兵たちの雄叫びが応じた。それは天を震わせるほどのもので、ダニエルは己が大なる火炎の一部となって敵に襲い掛かるような気すらしていた。事実、最も早く帝国軍にぶつかるのはダニエルら右翼であり、正確には最右翼に位置する剣角騎士団だ。
帝国軍は全体として横一列で、皇帝のいるだろう軍だけが僅かに後ろへ位置する構えだ。それに対し、王国軍は全体を右翼を前にして左翼を後ろとする斜形をとっている。帝国軍は平行に位置したいであろうが、そうしようと“黒蛇”の騎兵が動くことを常に“火撃”が牽制していて自由にさせない。ダニエルはそこにマルコの熟達した部隊指揮を見た。傷ついた蛇は勇躍する竜の爪牙の前に何もさせてもらえない。
そして、剣角騎士団の猛攻が始まった。今や彼らの持ち味となった強力な弓射が敵騎兵隊へと襲い掛かり、怯んだところへ重装歩兵の槍襖がぶつかっていく。次いでダニエルらユリハルシラ領軍が激突していけば、敵中央軍の左翼を一気に切り崩して留まるところを知らない。敵は変化して応じたいだろうが、それはできない。更には復讐に燃えるサルマント領軍とペテリウス領軍とがユリハルシラの精鋭にも匹敵する勢いで襲い掛かるのだ。早くも敵左翼は崩れ始めた。
ダニエルは四剣方形の軍旗がどこにあるかを常に注視していた。それは着実に前進していき、そして突如としてその速度を増した。それを見逃さないためにダニエルはここにいる。
「侯爵軍! 分かれるぞ!!」
ダニエルが叫んだなら、ユリハルシラ領軍一万は五千ずつの二つに分かれた。予めそれと準備していたことだ。前方の五千は俄かに加速して敵中央軍の左翼を突破した。敵は大いに動揺した。しかしダニエルを含む後方の五千はその場で左へと回頭し、敵中央軍を側面から中央へと押していく。サルマント、ペテリウスに切り刻まれながらも敵は必死に陣を変形し、後退しようとしている。無駄だ。その乱れようでは練度の低いヘルレヴィ領軍、ロンカイネン領軍、マルヤランタ領軍をすら捌き切れまい。
皇帝の存在が彼らの最大の弱点だった。そこを狙われれば無理をしても応じざるを得ない。そして剣角騎士団は今まさに皇帝の大旗を掲げる軍へと襲い掛かっている。ユリハルシラ領軍より五千もそれに続いた。もはや敵中央軍は被害に被害を重ねていくよりない有り様だ。
斜形陣が見事にその威力を発揮していた。もとより王国軍の方が数が多い上に、帝国軍は皇帝の軍を前に出すことができない。しかもこちらは両翼の端に敵の機動部隊を封じることの可能な部隊を配した上、右翼に攻撃的な精鋭を集中させている。敵はそれを偏った面で受けざるを得ず、しかもどちらからでも側面に回られれば皇帝の危機が生じるのだ。無理が無理を呼び、そして崩れていくことになる。
左翼はどうなったろうか……押しに押し捲る戦場でダニエルがそれを思った頃、遂に帝国軍は崩れ去った。断固として中央に屹立していた金冠剣王の軍旗は倒れ、帝国軍兵士たちは逃走を始めた。王国軍はそれを追う。蹴散らしていく。左翼はどうなったろうか。ダニエルはそれが気になって仕方がなかった。
会戦は王国軍の勝利であることは間違いなかった。しかしこの壊走はただの壊走とは違う。適当に戦果を稼いで終わっていいものではない。皇帝だ。皇帝の存在がこの追撃戦の意味を激変させる。今はどこにも昇龍の大旗は見えない。折れたのか畳んだのか、それを知らなければならない。逃していいわけがない。
ダニエルは馬上にて戦場を見渡し、遠く白流旗を確認した。少し安堵する。しかし次の瞬間、恐るべき速度でこちらに迫って来る黒い軍があることを知った。壊走する味方をすら蹴散らして駆けるは、刀剣住蛇の軍旗を掲げる軽騎兵。数はもう千五百騎ほどだろうか。それでも黒蛇だ。ボロボロのそれらが凄まじい勢いで突撃してきていた。
ダニエルの周囲は俄かに乱れた。激しく人馬が交差し、音と衝撃とが連続した。閃く槍先が見えた。それに対して己も槍を繰り出し、しかし弾かれて穂先が青天へ向いたことを見た。強い衝撃があった。声も出ないほどの激痛が脳を焼き、次には熱さが来た。
夢中になった。自分が何をしているのかも分からないまま、ダニエルはただ夢中になった。いつしか視界は暗くなっていた。そして寒かった。だから身を縮めて暖かさを求めた。
胸の奥に宿った炎があった。夢とも現とも知れない、しかし壮大で遥かなるそれ。
ダニエルはそれに抱きついた。そうすることだけが自分の人生のように思えていたから。
そして気付かぬ間に、いつしか夢へと落ちていった。炎の中に落ちていくようだった。




