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第54話 もはや世界に炎は放たれて

 体ばかりか心もボロボロであろうその兵士がチトガ大町に駆け込んで間もなく、駐屯していた帝国軍五千は大町より進発してきた。その兵士は火刑から生き延びた者としては二人目の帝国兵だが、大町に駆け込んだ者としては四人目である。二人目、三人目は親衛団の団員であり、ハッキネン護衛団時代から演技派と知られている曲者二名だ。馬の尻に箒をくくり付けて疾走したこともある。


「……噂も三人口にすれば真になる、とは言うがの」


 ヤルッコの懸念ともぼやきとも取れる発言に、マルコは言ったものである。


「二人目で既に動き出していたでしょうね。飢えて走る気はないということです」


 その言葉のままに、帝国兵五千は牛馬に荷車を牽かせていた。支流の南岸を酷く警戒しつつも早足に西を目指す。水運を利用するつもりはないらしい。随分と怯えているようだ。


「今、彼らは船を見ることも恐ろしいのでしょう。北岸にはヘルレヴィ領軍が前進してきているとも思っていますから必死ですよ。頼みの綱は下流の仮設橋です。バルセロ将軍が退路として死守しているはずですからね。彼らと合流し、前線砦へと北上するつもりなのです」

「一応聞いとくが……辿り着かせる気はないのじゃろ?」


 ヤルッコが問うたならば、その黒髪碧眼の十四歳は、薄っすらと笑むのだ。そして答える内容をもってヤルッコの心胆を寒からしめる。


「とんでもない。辿り着いてもらいますよ。もっと必死になって貰わないといけません。飲食など忘れて、形振り構わない競走になって、命からがらの態でもって駆け込んで貰わないと……ね」


 そして帝国軍五千への残酷な仕掛けが始まった。陸水面に散った敗残兵たちをば捕殺しつつも一部を敢えて逃し、五千の中へと逃げ込ませるのだ。それに前後して中隊規模での襲撃も仕掛ける。一撃してすぐさま離脱することを不規則に繰り返す。昼も夜もなく襲い、しかも逃げ込む敗残兵の中には親衛団の曲者らも紛れ込む。放火し、牛馬を暴れさせ、物資を奪い去る。そして襲撃を引きこむ。


 焦れて追撃してきたところで返り討ちだった。ヤルッコらはこの難地形を熟知している。垂らした汗水の分だけ覚えこみ、成長する筋肉の分だけ我が物としてきたのだ。土塗れになりながら確立した独自の戦闘法があった。長じた掘削技術と特製の“掘り匙”とを駆使する戦い方である。


 単独もしくは少数であれば一人用の穴を掘る。そこに潜りこみ、場合によっては土を被ることもして、敵の視界から徹底的に消え去ってから襲い掛かる。逃げてもまた穴に跳び込み、追って来られたとしても横穴から逃れることすらしてのける。そして覗き込む敵を背後から襲うのだ。


 小隊以上の人数であれば“溝道”と呼ばれる狭い空堀のような溝を利用する。一人用の穴でも半日はかかるから、こちらは事前の準備が欠かせない。しかし強力だ。この半地下の通路はあらゆる兵種に対して有効である。


 騎馬にとって天敵であることは最も分かりやすい活用法だ。軽騎兵であろうが重騎兵であろうが、この溝道に柵などを絡めればただの一騎として越えられるものではなかった。人馬諸共に転倒し、後は殺されるばかりだ。起き上がって戦おうとしたところで、溝道は隘路である。剣も槍も碌に使えるものではない。小剣を抜く敵が最も適応力の高い敵と言えるが、それとて刺突より他に為す術はなく、必然的に超接近戦になったところへ掘り匙が襲い掛かるのだ。


 筋骨隆々たる団員たちが、その手に棍棒のように巨大匙を握って、作られた混戦の中で殴打に殴打を重ねていく。それは荒々しくも圧倒的な光景だった。ヤルッコは己を蛮族の戦士か何かのように感じたものだ。命の感触の生々しさは刃による闘争を凌駕している。あるいは己は怪物であるとも思った。溝道は入り組んでいるから、跳び込んできた敵歩兵にとってはそこは迷路のようでもあり、突如として襲い来る己らなどは絵物語のゴブリンやオークの類であろうと。


 だから、これは当然のことなのだ。ヤルッコはそう思うより他にない。


 目の前に手傷を負った初老の男とまだ少年とも言える兵士とが青褪めた顔で庇いあっていて、己の手には土でも人でも掘り削る鋼鉄の匙がある。少年の方は手に小剣を構えているが、長剣に比べればわけもないその重みにすら負けていて、カチャカチャと音を立てる震え方も不規則だ。その目に映る己を思う。


 怪物だ。やはり自分は怪物なのだと思い知る。男の靴には拍車がついているから、老いたる騎士とその従者だろうか……絵物語で言えば魔法の助けが入る場面だ。しかし戦場にはそんなものは存在せず、ただ勝ち残った生者と負け滅んだ死者とがあるのみだ。どちらかの体温が冷たく終わる。


 溜息が出ることを止められなかった。そしてそれを男の方に察知されたようだ。


「降伏を……容れては、貰えんか」


 男の方が口を開いた。目が言外に訴えているものがある。そしてそれは年寄り同士に相通ずる内容であったから、ヤルッコには無視し難かった。チラリと少年の方を見る。身構えられた。しかし男の方へと視線を戻したのならば、意志を込めた頷きがある。ヤルッコは口をへの字にした。目も細まる。


「虫のいいことを言っているとは分かっている。そこを枉げて頼みたい」


 ズイと前へ出て両膝を地につき、頭まで下げてきた。視線も伏せてしまって首の後ろが目に見える。それで益々意志が知れてしまって、ヤルッコは低く唸った。周囲はまだ戦闘が行われている。この三人による邂逅もそう長くは続かない。


「こ、コレトス様はお退き下さい! ここは私が……!」


 言いつつ腰溜めに小剣を構えたはいいが、腰が引けている。ヤルッコは掘り匙を構えた。飛び掛ってくるのならば殴殺することに躊躇いなど生じない。しかし来ない。来れないのだ。男が少年の足を掴んでいる。そして首を横に振るのだからヤルッコには堪らない。歯を食いしばる。


「このような……このようなところで、このような戦いで……!」


 少年は泣いているらしかった。それはとても幼稚な涙だ。多くの戦場を見てきたヤルッコには涙の種類が分かる。世の中には思うようにならないことが多くあり、それは思わぬ不幸の形でもって人に降りかかるものだ。戦場であればそれは死を伴う。


 少年の涙は不承認の涙だった。戦場に何某かの夢を見てやって来たものが、かくも無惨な有り様となってしまって、それを認められずに泣いている。己の運命に悲嘆し、それを編んだ世界に憤っている。当たり前のことを当たり前と割り切らずに泣くのなら、それは幼さだ。ヤルッコはそれが悲しい。今から自分はこの少年の命を終わらせるが、どうしてこんな幼い者がこの場にいるのだろうか。目で伏した男へ問う。苦しげだった。どうしようもない現実はいつだってそこに在る。


 小さく風が鳴って、少年の首を一本の矢が貫通した。横からの一矢だ。少年の顔が不思議そうに下を向くが見えやしまい。そのまま前のめりになっていって、そして倒れた。横顔が覗けるが、それは未だにきょとんとしていた。何かが未だ途上のままに終わったのだ。溜息は二つ吐かれた。どちらにも老いた万感が込められていた。


「戦場に刃を向けあって語る言葉などなし」


 言いつつ現れたのはマルコだった。彼が射たようだ。護衛の歩兵を三人ほど連れている。マルコは槍の巧手だが基礎体力そのものは年相応のものでしかない。この溝道の戦いには不向きだ。そのため小弓でもって歩兵を援護する形で参加していた。


「何を呆けているのです。剣を取りなさい。そして抵抗するか自決するか、どちらかを選びなさい」


 声音には峻厳の響きがあった。男は目を見張っていた。側には少年が持っていた小剣が転がっているが、それに手を伸ばそうともしない。


「馬鹿な……私の目の前で、子が子を殺したというのか……」

「馬鹿は貴方ですよ、ドナルド・コレトス。戦場にどんな夢想を持ち込んだつもりなのですか?」


 男は更に驚いているが、ヤルッコはやはりと思った。少年が男を呼んだことで疑いをもっていた。チトガ大町に在して侵攻軍全体に指示を出していた者……それがこの男なのだ。情報は全てこちらに筒抜けである。


「この局面を戦術的に打開しようとするなど夢物語です。貴方は最後まで五千の中心に在って耐え続けるべきでした。そして少しでも秩序だった形で退けたならば、その分だけ、生還する兵を増やせたでしょうに……何を熱くなっているのやら。軍略家ともあろう者が」


 惨い言い様だった。男は驚愕に歪めていた顔を今や青褪めさせて震えている。病的な震えだった。それは張り詰め過ぎた弦を弾いた時に生じるような、破滅の緊張感を孕む痙攣のようにヤルッコには映った。


「さあ、剣を取っていずれかの終わりを選びなさい、敗軍の軍師よ。僕らは勇戦を称えあうような綺麗な存在ではありません。謀をもって地平の先に未来の死を構築する者に栄光などあり得ないからです。敵味方を問わず他者の命を冷徹に支払い、万の骨の上を冷厳に歩む者には、それ相応の終わり方というものがあるものです。知っているでしょう?」


 ああ、これは最後の爪弾きなのか……ヤルッコは目の前に展開する光景の意味を悟った。ギリギリにまで己を引き絞り、磨耗させ、それを代償として何かの力を得た一人の男がいる。いかなる理由でそれを為したのかは分からないまでも、それが不退転の歩みであったことは察するに容易だ。


 マルコはそれを断ち切ろうとしている。強く鳴らすことで自壊させようとしている。あるいは大規模会戦に先立って流布された言葉への、ある種の返答なのかもしれない。あの文言を考案したのは恐らくこの男だ。辛辣な言をもって戦を始めた者へ、辛辣な言による死を与えようとしている。それは言葉とは裏腹に健闘を称える意味をもっている。ヤルッコはそう思う。


「急ぎなさい。貴方が死地に付き添わせた彼は、きっとまだ魂を彷徨わせています。せめて共に逝っておあげなさい。貴方はこの窮地にあって戦場に一抹の夢を見てしまいました。そしてその夢が彼を殺したのです。わかっているのでしょう? 耳を塞ぎたいのであっても、やはり剣を取るべきですよ。僕は刃を持つ者に対しては戦場で言葉をかけません」


 挑発しているのか、それとも哀悼の意を表しているのか、ヤルッコにはその判別が難しかった。何故ならマルコの言葉には一切の悦がなく、ただ悲しいまでに厳しかった。目を覚ませと言っていた。しっかりと目を覚ました上で……その上で命を全うせよと、そう言っているように聞こえるのだ。


 男は両の目を閉じ、僅かな時間を過ごした。そこには遥かな気配があった。ヤルッコは幾人ものそれを見てきたから分かる。そして男は目を開いた。剣を引き寄せて、しかし握らずに問う。


「尋常ならざる者よ……名を聞いても良いものか」

「マルコです」

「マルコ……聞いた名だな……そうか、“火撃”の……全てはそういうことなのか?」

「はい。あれも、これも、僕の炎が焼きました。いずれは別の物も焼くでしょうね」

「そう、か……勇者が現われる前にと企てたものだが……まるで魔人ではないか。あれも炎に焼かれたそうだが」


 微かに笑ったその男に、マルコもまた笑みを返した。そして恐るべきことを言葉にした。


「あの炎を必要とした世界を……僕は許さない」


 空気が壊れたのかと、ヤルッコは錯覚した。この溝道の狭い丁字路で、冬の寒さを頬に受けつつ足元に若い死体を横たえておいたものだが、己が大なる火炎の中に放られたように感じたのだ。全身が粟立ち、説明のつかない発汗が促がされた。呼吸ができなかった。


 幻が見えていた。それはいつかの夢の中に見たものだ。

 

 サロモンだ。十四歳のマルコの姿に重なって、あの凄まじき男の姿が見える。大衆の熱狂の中で生きながらに焼かれた男が……炎をまとってそこに立っている。表情は憤怒だ。マルコの微笑みはそのままに在るというのに、まさに炎の魔人とでも言うべき幻像がそこに屹立している。ヤルッコは喘いだ。


「そうか……そういう、ことか……それならば……!」


 沸き立つ殺気に、ヤルッコは現実へと覚醒した。見れば男が剣を握って立ち上がっている。その切っ先が向かう先にいるのはマルコだ。距離にして八歩ほどか。掘り匙を振りかぶり駆け寄ろうとして、ヤルッコはそれを止めた。


 男は片足が動かないようだった。他の傷や体力の低下もあってか、惨めな……実に惨めな動きでにじり寄っていく。対面するマルコは既にして弓に矢を番え、引き絞っている。それが見えぬでもあるまいに、男は断固たる態度でもって近づいていく。切っ先は揺れつつもマルコから離さない。


 ヒョウと鳴ってゴツと響いた。


 マルコの放った矢は過たず男の眉間を射抜いていた。それはそうだ。三歩の距離である。両足の利く者であれば踏み込み一つで斬りかかれる間合いだ。男はそこまで詰めた。マルコはそこまで待った。そして二人の間には一本の矢が走り、対決を終えたのである。


 誰も言葉はなかった。男の顔には武人の厳しさが残っていた。


 そして初め五千であった帝国軍は、三千に届くかどうかという数にまで削り取られていって、遂には奔走者と成り果てた。荷もなく仲間もなく、ただ恐怖を力に変えて走る。狂い走りだ。無茶な力の使い方は当然のように脱落者を続出させる。それらは討たれた。降伏を申し出た者も同様だ。それは死からの逃亡以外の何物でもなかった。走らねば死ぬばかりなのだ。


 ユリハルシラ領へと辿り着いた者は二千に満たなかった。それも恐怖と疲弊で絵物語の亡者のようになった者たちだ。そこに火刑から生き残った者など一人も含まれていなかった。それは時こそ経たものの六万が全滅したことを意味する。あの炎からは誰も逃れられなかった。


 そして、その二千未満の者たちは、その全てが支流の南に取り残されることとなった。


 バルセロである。ユリハルシラ領に機動戦術の極みを展開していたその五千騎は、今や半数の二千五百騎にまで減少したその総員でもって仮設橋を北へと渡り、その橋を焼き捨てた。二千の惨めな友軍をむしろ囮に使って渡河したのだ。そうせざるを得ないまでに追い詰められていたからだ。


 剣角騎士団と“火撃”の騎兵隊が彼らを叩いたからである。バルセロ軽騎兵旅団はユリハルシラ領への侵入直後こそ高機動を発揮して戦果を打ち立てていたが、東から二千騎が来援するに至り一気に苦境へと落とされていたのである。黒き戦外套をまとう精鋭騎兵に対し、優るとも劣らない速度でもって打ちかかっていくその二千騎は、炎のような旗を掲げていた。その旗の名を火刑戦旗という。


 顧みるべし。帝国軍は十万余の兵力でもって行禍原を渡ってきた。それが今や惨憺たる有り様であった。サルマント領領都を囲っていた二万が前線砦にまで後退し、そこへバルセロ率いる二千五百騎が合流したところで、砦の兵と併せても三万五千に届かない。大軍の実に七割近くが失われたのである。


 砦には大旗が掲げられていた。昇龍の大旗である。エベリア帝国皇帝はそこを在所として広く己が将兵たちの侵略を睥睨していたからだ。金冠剣王の旗もある。黄金剣騎士団はサルマント領領都を囲む軍の要であったからだ。そこへ刀剣住蛇の旗も合わさった。満身創痍の二千五百騎が帰還したからだ。


 そこへ迫るアスリア王国の軍勢があった。


 サルマント領領軍より一万、ペテリウス領領軍より三千、ユリハルシラ領領軍より一万、ヘルレヴィ領領軍より五千、ロンカイネン領領軍より五千、マルヤランタ領領軍より五千というそれぞれ伯爵旗や侯爵旗を掲げる軍の他にも、剣角騎士団二千八百、火撃の騎兵隊千九百、そして第三王女親衛団三千が集った。その合計は四万五千七百。


 それらは、本来は自領から出ることなど滅多にない領軍と、貴族の私兵である騎士団、王族の私兵である親衛団、そして新参の騎兵隊という寄せ集めの軍勢にも見える。しかし団結していた。一つの高揚が彼らを団結させていた。亡国の危機を救った戦旗が掲げられている。火の色にひるがえる戦の旗が。


 開戦以来、三度目となる会戦が行われようとしていた。


 昇龍の旗と火刑の旗とが、ここに対決の時を迎えようとしていた。

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