第50話 釣って、野で伏せ、そして
冬空はその青色にも冷たさが宿り、その澄明な高さで人を酷薄に見下ろしつつも無関心の態だ。冷気が風に流れて大気の縦横無尽を思い知らせ、人の身の矮小と不自由とを弁えさせようとしている。いかなる奮闘努力も虚しく、いかなる粉骨砕身も意味をなさない……善悪も功罪も何もかもが美醜の醜の側に押しやられる。
天はあまりに美しく在り過ぎる。
自分が水底に這う虫の一匹であるような気すらして、ベルタは頭を振った。それでいいのだと、虫にでも何にでも成り果てようと誓った身だった。今にして怖気づく己を心中に罵る。空を見上げる行為すらが逃避だと断じた。ベルタは馬上から周囲を見渡し、唇を噛む。
敗走の風景が広がっていた。
兵たちが疲れた顔で、小走りに西を目指している。武器など持っていやしない。隊伍などありやしない。散逸せず曲がりなりにも集団となっているのは、掲げられた友軍の軍旗の下にいるほうが生き残る公算が高いからに他ならない。食事の配給もある。それだけのことだった。戦うなど考えられない。
ベルタの間近には黄金剣騎士団の面々が密に集まり、この一万を超える集団の中で核としての固形を形成している。前線砦すら既に東の後方というこの状況下では帝国領を行くのにも常の緊張が強いられる。追撃してくる王国軍に対しては当然だが、同道する友軍兵だとていつ暴徒と化す狂い者が現われるかわかったものではない。核としての威圧は双方に対してのものである。
同じような集団が方々にあり、同じく西を目指しているはずだった。位置としてはティヘリナ伯爵領を西へ進むベルタらであったが、この辺りは冷害の何年かで耕作を放棄された廃村しか存在しない。前線砦から町までが酷く遠いのだ。それは十数年前の主力軍壊滅後に断行された、王国軍侵攻への過度な対応の結果である。当時、前線二領はその半ばまでを放棄されたのだ。道を崩し町を壊し、僅かな領軍でもって王国軍に対抗するための戦場へと変じられたのである。
そのことが今、ベルタらの後退を苦しめている。行禍原を越えて遂に帝国領へと雪崩れ込んだ王国軍は、その十万を超える軍勢を潮のように寄せてくる。掠奪するために留まる場所がないからだ。ただ執拗に帝国軍の各集団を追ってくる。逃げる方も休めない。休めば大軍に囲まれてしまう。
帝国軍は敗北したのだ。
エベリア帝国とアスリア王国との間に戦われた大規模会戦は、殆ど鎧袖一触という有り様で、帝国軍の敗北として終わっている。ベルタおよび黄金剣騎士団は予備部隊として参加していたが、一度として敵とぶつかることなく、崩れた味方の波に翻弄される形で退いたものである。
行禍原に両国が展開した兵数は合計すると二十三万を超える。アスリア王国軍十二万八千に対し、エベリア帝国軍は十万五千の動員数だ。当初から二万以上の兵力差があった両軍だが、その陣容においても戦意においても大きな隔たりがあった。
王国軍は国の重鎮たるカリサルミ伯爵を筆頭に多数の貴族が参陣し、絢爛豪華な軍旗が多数の騎士団の参戦を誇示していた。騎士団とは同じ規模の正規軍部隊と比べて精強かつ潤沢であることが専らである。陣営には大量の炊煙が上がり弦楽の調べすら聞こえてきた。飼葉は荷車に溢れんばかりにして軍馬には専属の世話人までいる。それは原野に町ができたかのような有り様であった。
しかも好戦的だ。帝国軍の斥候を見つけるや一騎に対して小隊単位で追手を差し向けるほどの戦意の高さがあった。逃げれば罵倒が飛んでくる辺り、やや野蛮な方向に荒ぶっているものかもしれない。
対する帝国軍は全てにおいて精彩を欠いていた。主将として総指揮を執ったのは帝国の宿将とはいえ既に前線を退いて久しい老中将で、そもそも彼の戦功はその殆どが後方支援である。先の会戦に勝利するも追撃を行わなかった軍のやり方に不満を露わにしていたから、今回の主将抜擢は本人の強い自薦の結果であると言われている。
そして奇妙な倹約癖を陣中に持ち込んだのである。全ての物資を芋の一本に至るまで帳面で管理し、一人一人の排便の回数すら数えかねない管理ぶりだった。その運営方法を支えるためか、兵員の多くも後方支援任務の経験者で編成されていた。精鋭をもって揃えられるべき会戦に臨んで、精鋭の意味が履き違えられていたのである。
その一つの象徴が、ベルタおよび黄金剣騎士団の後方待機であろう。先の会戦の勝利の立役者であり、今戦乱における英雄とも目されているベルタ・イグナシオ将軍が全軍の指揮に関われないどころか予備部隊扱いとはどういうことか……そんな声があちらこちらで聞こえ、士気は下がりに下がっていた。
会戦は、その始まり以前に既に帝国軍が押し込まれるという珍事になった。
老中将が会戦予定地点を逐次変更するという意図不明の決断を連続したのである。やれ地形が悪いから陣を下がらせるだの、やれ排水に不便だから陣を南西の砂地に移すだのと、十万の軍勢を千鳥足の巨人よろしく日毎にフラフラと移動させていった。王国軍としては首を捻りつつも愉快なことだったろう。何しろ戦わずして敵が退いていく。しかも退く度に兵数が減少していくのだ。傭兵などは馬鹿馬鹿しさから契約を破棄し、戦場において雇い主を代えようとする者まで現われ出した。
行禍原を東西に四分割したとして、それを西から数えて最初の区域にまで帝国軍は後退した。その分だけ王国軍は前進し、そして遂に会戦の時が訪れる。王国軍がその我慢の限界を迎えた形だ。陣立ても慌しく応じた帝国軍は一度こそ耐えたものの、二度目が来ることを待たずして脆くも崩れ去った。王国軍は勝ち鬨もおざなりにすぐさま追撃に入り、その怒涛は帝国軍に残されていた前線砦のことごとくを破壊してなお治まらなかったのである。
老中将はもう生きていない。前線砦の一つに踏みとどまり、帝国への忠誠を叫びながら斬り死にしたという。付き従った者たちの内、ただの一人きりが死地を脱して逃走し、今はベルタらと行動を共にしている。剣も槍も捨て、荷もなく、さりとて騎士団が提供する食糧にも口をつけないその男の両腕には、戦外套に包まれた物が常に抱えられている。こうして重苦しく西へと進み続ける今も、ボロボロの有り様で歩くその男は、大事に大事にそれを抱えていて離さない。ベルタは何も言わない。ただ黙祷を捧げるのみだ。
「ベルタ様、王国軍の斥候を確認しました」
軽騎兵の一騎がベルタへと報告した。黄金剣騎士団はこの会戦に際して軽騎兵一個小隊六十騎を帝国軍より借用している。それを斥候兵として駆けさせているが、どうやら追撃部隊の一部に見つかったようだ。ベルタは頷いて返し、騎士団へと振り返った。
「各々方、弓の弦は張り詰めているか? 矢羽は整い優美であるか?」
言いつつ、自らは馬上槍をクルリと手首でひるがえしひるがえしする。
「騎射をもって牽制し、槍をもって追い払うことを基本とする。弓と槍とを交互にして横列陣を敷くぞ」
集団の最後尾へと下がっていき、そこに長く馬列を並べる。先の会戦で損害を受けた黄金剣騎士団であるが、予備兵の補充を受け、負傷者も復帰できる者は復帰し、今は再びの三千騎を揃えている。その戦闘力についてもベルタは何ら不安を抱いていない。しかし金冠剣王の軍旗を掲げることはしていなかった。ただ帝国軍の翼竜の旗をのみ掲げている。会戦に際し予備へ回されたことへの不満のため、と噂されてはいるが。
更にもう一騎の斥候が戻った。報告する。
「ベルタ様、敵本隊は一個騎士団三千および二個連隊一万ほどからなる兵力で、騎兵の割合は三割ほどです。北東に位置しており、北と東へしきりに伝令を駆けさせています」
「騎士団を中核とする一個師団か……近くに他の師団がいるな。位置を確かめよ。こちらの所在は知られているのだ。大きく動いて構わん」
「はっ!」
駆け去る斥候を見送りつつ、ベルタは脳裏に周辺の地形と町への距離とを思い描いた。敵部隊とこちらとの相対速度を計る。間に合わない。急がせたとして最寄の町まで届く前に捕捉される。どこかで足止めを図らなければならない。何をしたところで軽騎兵に先駆けされたなら逃れる術もないが、それでも遅滞戦術を採らざるを得ないだろうとベルタは考えた。三千騎を敵主力の前に晒すことで敵を停滞させるのだ。接敵の場所を選べば、少ない犠牲で多くを逃しきれる。
いや、味方を逃すことを最優先とするならば、もっと有効な方法があることをベルタは知っていた。軍旗だ。敵味方に知れ渡る金冠剣王の旗さえ掲げてしまえば、敵の注目を一身に集めることができるだろう。その上で何処かへ誘引してしまえばいい。遅滞戦術を採るにしてもやりやすくなる。
しかし、それは許されていなかった。勝利の象徴としての金冠剣王の軍旗は、今この後退の中には掲げられない。それで味方がより死のうとも、老中将が斬り殺されようとも、耐えなければならないのだ。
「ベルタ様、例のものを使われては?」
騎士団の者がそっと言う。それは軍旗のことではないとベルタは分かっていた。場合によっては使うことを指示されているもの……それは決死隊による囮だ。前もってそれを志願した者たちが徒歩の集団の中に紛れている。十数人という彼らに翼竜の軍旗を預け、それをもって示強の計を為すべしとベルタは言われている。伏兵としてならばまだ最後の武功が成ることもあろうし、それが混乱を生めばあるいは生還する可能性すら生じるかもしれない。しかしそれは許されていないのだ。決死隊たちはあくまでも時間稼ぎとして目立ち、討たれることを求められている。
最悪の場合、武器なき兵士たちを見捨てて逃げることをすらベルタは指示されているのだ。彼女の価値観とは無関係なところで、既に命の優先順位は決定されている。軍令として命じられている。ベルタは自己満足のための戦いに投じる命を持たないのだ。
ベルタは束の間目を閉じ、考えた。外道を為す覚悟は済ませてある。己が名誉の戦いを望む資格を失ったことも分かっていた。物言わぬそれが……戦外套に包まれ抱えられるそれが、先に義務を果たした者としてベルタを叱咤している。躊躇うなと。厭うなと。汚濁を抱えて正義を演じよと。卑劣を隠して英雄を全うせよと。ベルタ・イグナシオとして生きて死ねと叫んでいる。
「……皆に食糧を配れ。携帯できるものをだ。そして食ませつつ急がせろ」
意は決していた。ベルタは決死隊を使う。しかし安易に使う気はなかった。最大限の効果を発揮する形で用いてみせる。たとえそれが限られた中での最大限でしかなく、結果的に彼らの命を使い捨てにしていることは変わらないとしても、それでもベルタは最善を尽くすことを選んだ。
「敵の斥候は追い散らせ。矢を射掛けろ。強行軍について来れない者は南へ向かわせろ。海沿い行けば最も敵と遭遇しないはずだ」
指示を飛ばし、己も早速に“味縄”を噛んだ。食用の草に海草を絡め、塩汁に漬け込んだ後に乾燥させたものだ。塩分を補給すると共に滋養もとれる。
「進みが遅い! 横列陣をそのままに集団を急きたてろ!」
ベルタらは、徒歩を含む一万人からの集団としては目を見張る速度で進んだ。日が落ちるまでの間に王国軍に追いつかれることはなかった。それは敵が一個師団としてではなく、複数の師団で連携して包囲することを選択したからでもある。逃げきることなどできはしない。しかしこの一日は凌いだのだ。
「野営の準備は盛大にせよ! 篝火は多く、木柵も多重に設けよ! 鍋も食糧も全て置き捨てだ! 二日は食えんと覚悟しろ! 我々はこのまま夜を越えて進む!!」
言葉のままに、ベルタらは野営の陣を設置した直後に出発した。呻き声が連鎖したが、しかし、それは恨み言には変わらなかった。その陣に残ることの意味を知っているからだ。初めから残るつもりで武装した十数名と、もう歩けないからと消極的ながら武器を手に取った数十名とが、その陣に残った。彼らは囮だ。夜闇の中に軍在りと偽るためにここへ踏みとどまり、矢を放って、時間を稼がなければならない。
「……武運を祈る!」
「ベルタ様こそ……どうかご武運を!」
別れの言葉も時間を惜しむようにして、ベルタらは西へと急いだ。夜を通して行く。寡黙に足を運ぶ。沈鬱に馬に揺られる。残してきた翼竜の旗がどのような運命を辿るものか、朝焼けの方向に思いを馳せつつも、己の影を前に見ながらただ進む。
犠牲を払い、悲壮を胸にして……しかし勝つために後退していくのだ。
更に一日が過ぎ、背後に迫る王国軍の軍旗の模様までもが確認できるまでになった時、ベルタらは遂にそれを見ることになった。西の丘にひるがえる幾つもの軍旗。それは帝国軍の翼竜の軍旗だけではない。それらを子供のように従えて、中央の大旗には昇龍の印章が風に踊っている。
この大陸に二つしか許されていない、龍なる大河を意味するその印章。帝国軍においてそれを掲げる軍があるとすれば、その指揮官はただの一人しかあり得ない。西龍河を領内に有し、その恵を祭る最高責任者だ。それはエベリア帝国の主権を有する最大権力者という意味でもある。
皇帝だ。エベリア帝国皇帝、ライムンドである。
彼の直率する軍であるならば、それは近衛軍である。かつてのそれは皇太子と共に勇者を討ち、魔人に全滅させられた。今ここに集う者たちはその悲憤によって新生された、新たなる精兵たちだ。それを中心として五万からの兵力が横列に展開している。漲る戦気により風すら発していそうだ。
さもあらん。本来であれば最前線にいてしかるべき精鋭たちは、此度の大規模会戦に際してほぼ全てが後方に回っていたのだ。ここに轡を並べ、槍を林立させている者たちは、後方部隊ではない。彼らこそが帝国軍の本来の前線部隊である。
大旗が振られた。
応えるために掲げられたのは、それこそは、金冠剣王の軍旗であった。
敗走するものたちを追って帝国領深くに侵攻した王国軍十二万は、幾つかの師団に分かれつつもその全てが罠の中の獣と化した。行禍原を越えて追撃する王国軍は、実のところ南西へと誘引されていたのである。北端に手ぐすねを引いて潜伏していた数万の帝国軍が南東方向へと強襲し、もはや退路など存在しなかった。行禍原への道は閉ざされた。
ありとあらゆる場所から帝国軍の猛攻が始まった。土地勘もなく右往左往する王国軍の各師団は、文字通り四方八方からの攻撃に晒されて瞬く間に殺されていった。暗中模索する彼らに対し、帝国軍は予想もしない間道から襲撃し、分断し、打ち砕いていった。しかし王国軍の悲惨はそこに留まるものではなかった。
ジリジリと引きこまれ、ついには帝国領へと雪崩れ込んだ王国軍十二万。それを支えるための後詰の軍勢もまた前線砦から引きずり出され、行禍原の半ばにまで進出していたのである。
練度が甘く、そのくせ大量の物資を抱えるその三万余りの軍に対して、物凄まじい勢いで襲い掛かる軍勢があった。二万からなるその帝国軍突出部隊の先鋒には、数こそ二千五百に過ぎないものの、全てを軽騎兵で揃えた黒ずくめの部隊の姿があった。掲げる軍旗は刀剣住蛇の印章……テレンシオ・バルセロ帝軍大佐である。
この一気呵成が偶然であろうはずもない。全ては帝国軍の軍略だ。
行禍原を跨ぐ壮大な規模で行われたその軍略は、正に成り、王国軍にとてつもない被害を広げていく。それはあるいは逆襲であるのかもしれない。かつて帝国軍侵攻部隊が王国領にて殺されつくしたそれを、時を変え、場所を変え、今度は帝国側が行っているかのようだ。
ベルタもまた槍を振るっていた。荒ぶる感情をそのままに、敵の血に塗れることを厭わずに突いて突いて突きまくった。黄金剣騎士団は近衛軍と連携してその武威を遺憾なく発揮した。調子に乗って追いかけていた者たちは、この時、ただの震える獲物に過ぎなかった。
アスリア王国四侯六伯の一人、カリサルミ伯爵を討ち取った者が吠えていた。その首級が槍先に串刺しになり、掲げられている。ベルタはそれを惨いとは思わない。先に首になった老中将に報告したいと思った。そしてそれは吠え声で為されていたのだ。槍を掲げている男は、老中将の首を護った男だった。
エベリア帝国軍の再侵攻が始まろうとしていた。
アスリア王国に、今再びの危機が訪れようとしていた。




